二十一章 『You were there』
悲鳴。
俺のものでも、当然、小鳥遊さんのものでもない悲痛な叫び声が、突如として割り込んできた。
聞こえてきた方角に、顔を向けるが、そこには誰もいない。
ただ、建物と建物の間に、薄暗い路地裏への入り口が、ぽっかりと穴を開けているだけであった。
――今の悲鳴は、その奥から?
ただならない悲痛な叫びを聞き、焦燥に駆られた俺は、その路地裏へと入り込んだ。
薄暗い。もう陽も落ちかけているため、その暗さにも拍車がかかっている。乱雑に捨て置かれたゴミたちから、鼻の奥を突き刺すような酸っぱい臭いが漂ってくる。
行く手を阻むゴミを避けるように歩く。ふと隣を見ると、小鳥遊さんもついてきていた。
「えっと、小鳥遊さん?」
「はい」
「あの、外で待っててくれないかな」
先ほどの悲鳴がどのような経緯で発された声であろうと、尋常ではないことは用意に推察できた。もしかしたら、何か危険な事態に陥るかもしれない。だとしたら、彼女が一緒に来るのは、とてもまずい。
「いいえ。私も行きます」
「だけど――」
「もし、今の悲鳴が、誰かが怪我をしたことが原因でのものだとしたら、私も行ったほうがいいのでは」
そうなのだろうか。まあ、たしかにいざという時に人手が多い方が安心するのも事実だが――。
俺は考え直す。
そうだ、そちらのほうが、都合がいいかもしれない。よく考えてみれば、今現在タイムリープして、彼女を助けたものの、まだ完全に救えると決まったわけではない。むしろ、現在の帰り道が"すでに一度行われた過去で通った道"であるのならば、これから殺人鬼と遭遇する確率も、いっそう高くなるのだ。
だとしたら、たとえ数分間のことだとしても、彼女がひとりでいる時間を作るのは、得策とはいえない。はっきり言えば、とてもよくない。
逆にここは、俺と一緒に来てもらった方が、安全であると言えるだろう。
――本当に?
いや――いやいやいや。待て待て待て。
落ち着け。冷静になれ。頭が働いていないぞ。
そうだ。今この四月十六日は、"二回目"の四月十六日なんだ。小鳥遊さんは、"一回目"でこの道を通ったのだ(俺が一緒になったことで、帰り道を変えたりしていなければ)。だとしたら、さっきの"悲鳴"を彼女が"一回目"の時に聞いていた可能性もある。いや、むしろそちらの確率の方が高いくらいではないだろうか。
そして、小鳥遊さんがこの悲鳴を聞き、その原因を突き止めようとして、今と同じようにその場所へと向かったとしたら――。
――この"悲鳴"が彼女の一回目の死の、直接的な原因となった可能性はないだろうか?
直接的な原因――そう、例えば、悲鳴は殺人鬼に襲われそうになった被害者があげたもので、小鳥遊さんは殺人鬼と被害者を目撃してしまう。そのときに殺人鬼の目に留まり――標的が変更されて、小鳥遊さんが襲われた――というような。
違う、そうじゃない。
もし仮にそうだとしたら、最初に襲われていた被害者――第三者も死体として発見されていなければおかしい。その状況で最初に襲おうとした人間を口封じとして殺さないのは、不自然だ。
その第三者が、逃げ延びた?
――だったら、何故警察に証言しない。蕪木警部は、有力な情報は一切入って来ていないような口ぶりだった。命からがら逃げおおせたとしても、その後警察に届け出ないのは、おかしい。
ならば、蕪木警部がその情報を伏せていた?
あるいは、第三者には警察に届け出れない、後ろめたい部分があった?
あるいは、他の直接的な原因になるような状況ある?
――馬鹿か、俺は。
今、そんなことを考えている場合か? いま一番優先すべき事柄は、小鳥遊さんの死を回避することだ。
こんなことでグダグダと悩んでいる暇はない。兎に角、彼女の家に着くまでなるべく一人にしない。あとは、慎重に行動さえすれば――、
「時田くん」小鳥遊さんの声が聞こえる。「大丈夫ですか。顔色が、優れませんが」
彼女が、心配そうにこちらをのぞきこんでいた。考え事をすると、周囲への注意が散漫になる。悪い癖だ。
「大丈夫です」
俺は自分の内より生じる、得体の知れない焦りを押し殺して答える。
落ち着け。
俺は、この先に何があっても驚かないようにして、歩を進めた。
「いっ、いたっ、いいいぃぃっ」
再び耳に飛び込んでくる叫び声。今度は明確に――痛みを訴えている。
ほとんど走るようにして路地を進み、建物の角を曲がる。
すると、その光景が、目に飛び込んできた。
学生服を着て、うずくまる、眼鏡をかけた一人の少年。そして彼を取り囲むようにして立っている、別の二人。彼らも同じ学生服を着ている。その制服から、彼らが俺たちとは異なる高校の学生だと言うことが確認できた。
「月森ぃ~。駄目だろ? そんな大きな声を出しちゃあ」
立っている人間の一人、茶髪を逆立てた男が、うずくまる少年にそんな言葉を投げかける。
「はい、また『痛い』つったから、罰ゲームな」
その隣にいる、ピアスをやたらとジャラジャラつけた男子生徒が、下卑た笑い声を上げた。
「だっ……ご、ごめんなさい。ゆ、許して……」
地面に這いつくばっている少年が、悲痛な声で懇願する。しかし、ピアスをつけた男子学生は、聞く耳を持っていないようだ。
「んなこと言ったって、ルールじゃん。最初に言っただろ?」
「オメーだってちゃんと『やる』っつったじゃねーか」茶髪も口の端を吊り上げ、サディステックな笑みを浮かべる。
「だって……」
「だっても糞もねぇんだよっ」
地面の少年の抗議の声を封殺するように、茶髪が声を荒げる。
「いいか? テメェがやるっつったんだ。言っただろ? 言ったよな? 『ちゃんとします』『我慢できます』って。だから俺たちはキチンとルールに則ってゲームやってんの。いい加減にしろよ。それ以上うだうだと文句を抜かすんなら、てめぇのフルチン画像を水原に送るからなっ」
叫びながら、何度も蹴りを打ち込む。そのたびに蹴られている少年は、「ごめんなさい」だとか「すいません」などと言っている。
――イジメ。
少し見ただけだが、用意に判断できる。つまり、彼らは眼鏡の彼――月森君とやらを苛めるために、人気のない路地裏を選んだということだろう。
「んで? 十回目ってなんだっけ」
月森君を蹴るのを止めた茶髪が、ピアスに訪ねる。
「ん? "アレ"でしょ、確か」
「あ、そうか。意外と持たなかったな」
金髪の返答を聞いた茶髪が、嬉しそうに顔をゆがめる。
「でも、どーすんの。ケーゴ、まだ来てないじゃん」
「あ? そんなもんドンマイだろ。いい加減にしないと、鞄に臭いが移りそうでしょうがねぇ」
茶髪はそう言って自分の学生鞄から、ビニール袋を取り出した。
そして、しゃがみこむと、袋の中のものを月森少年の眼前へと突きつける。あれは――。
「食え」
「取れたてって訳じゃなくて、すっかり固くなっちまったが、犬の糞だ」
――俺はこのとき、そのあまりの陰鬱さに、少し茫然自失としていた。日常ではあまり、目にすることのなかった、暗い暴力。その片鱗をまざまざと見せつけられて、混乱していたのだ。
それは、致命的なミスになる。何故なら、俺がその光景に目を奪われていると、
「悪いな、遅くなった」
という声が、後ろから聞こえて来たのだから。
慌てて振り向く。俺たちが来た方向――そこに、三人と同じ制服を来た、新手の少年が立っていた。かなり大柄で、筋肉質。坊主頭の下の太い眉毛が特徴的だ。
「おうケーゴ、遅かったな――」
「これからが本番だ――」
坊主頭の声を聞いた二人が、彼の声の方向へと振り返り、俺と小鳥遊さんを視認した。
「誰だ、お前ら?」
――不味い。この状況は、かなり悪い。
何ぼさっと突っ立っていたんだ、俺は。
「あーあ。月森があんな大きな声出すから、見つかっちゃったじゃん」ピアスが大仰に溜め息を吐く。「それともなに? ただ人目につかない場所で、イイコトでもするつもりだったの?」
「つーかさ、何? テメーら。見世物じゃないんだけど。殺すよ?」
茶髪が苛立たしげに舌打ちをする。
「待ってよ、トシ」ピアスがそれをなだめる。「ほら、女の方――かなりの上玉だよ」
「ああ? じょうだま?」
「えー、ほら、"可愛い"って意味」
茶髪が小鳥遊さんに視線を向ける。嘗め回すように観察した後、ひとつ頷く。
「確かに……つーか、ノリって胸でっけーの好きな」
「それは言わない約束だよ」
金髪が苦笑し、こちらに向き直る。
「だからさ、ほら、カレシさん? そっちの娘、置いてってくれれば見逃してあげるよ?」
嘘だ。俺を逃がしたことで助けを呼ばれたら、どうするつもりだ。
「性格悪ィな、ノリ」茶髪が口を歪める。「面倒くせぇからさっさとボコっちまおうぜ。んで、そいつの目の前で輪姦すの。超ウケルじゃん」
こちらは、どうやら表面上を取り繕うつもりもないらしい。
徐々に後ろの坊主頭も距離を詰めてきている。
どうする? 兎に角――今は逃げなければ。最悪、小鳥遊さんだけでも逃がさなければならない。
逃げるとしたら、後ろの坊主頭からになるだろう。正直、勝てる気はしないが、すこしでも時間を稼げれば、その隙に彼女に逃げてもらえばよい。
坊主頭が一歩、また一歩と距離を詰める。
もっと引きつけてから、なんとか――。
あと五歩。四歩。三歩。二歩。一歩――。
今だ、思いっきり体当たりを――、
しかし、俺のその目論見は、ご破算になる。
他でもない、小鳥遊さんの手によって。
背後に立った坊主頭が、小鳥遊さんの肩に手を置く。その手が触れるか触れないか、ぎりぎりの位置で――坊主頭の手首が捕まえられていた。
掴んだのは、小鳥遊さんだった。
彼女は坊主頭の腕を左手で捕らえ――右手で相手の胸倉を掴み、引き寄せる――そのまま左手も相手の制服を握り――身体を捻りつつ、投げ飛ばした――。
背負い投げ――。
受身も取れず、背中から落とされた落とされた坊主頭を踏みつけながら、彼女はピアスに向かって走り出す。
何が起こったのか理解できていないピアスへと、彼女は何か――地面に落ちていたゴミの入った袋――を蹴り飛ばした。
袋は正確に顔面へと飛んで行き、ピアスは反射的に顔を守ろうと腕でそれを防ぐ。そしてその時には既に、彼女は完璧に間合いに入っており――ピアスの股間に強烈な蹴りをヒットさせた。
悲鳴ともうめき声ともつかない断末魔をあげて崩れ落ちるピアスを尻目に、彼女は最後の一人に肉薄する――。
「なっ」
最後の一人――金髪はなんとか反応し、彼女に向かって拳を振り上げるが、それが命中するより遙かに早く、彼女の虎爪が、金髪の顔面に突き刺さっていた――。
「がぁっ」
虎爪の、掌底部が鼻を、垂直に立てられた指が、金髪の目に当たる。彼は痛みに耐えかね、思わず目を閉じて、よろける。そんな隙を彼女が見逃すはずもなく、次の瞬間には小鳥遊さんの放った後ろ回し蹴りが、彼の意識を刈り取っていた――。
あっという間だった。まさに、電光石火。
彼女が三人を倒すまでにかかった時間は、五秒、あったか、なかったか。
俺は、体当たりをしようとした、間抜けなポーズのまま固まっていた。
「た、小鳥遊さん――」
「敬語は禁止――と、言ったはずですが」
『苗字+さん』も彼女の中では敬語に入るのか。だったら――、
「来夢ちゃん」
「なっ――」
そう呼ぶと、彼女は真っ赤になった。視線を宙に彷徨わせ、うろたえるその姿は、先ほどの鬼人のような戦い振りからは想像できないほどう初々しい。
「な、なんでしょう」
しかし、彼女は質問の続きを促してくる。軽い冗談のつもりだったのだが。
「何か、格闘技を習っていたりするの?」
「――護身術のようなものを、少し」
先ほどの動きは、護身のレベルを遙かに上回っているような気もしたが――そういうことなのだろう。兎に角――無事に切り抜けることができたのは僥倖だ。
「ら、来夢ちゃんっ」
ほっとした瞬間に、投げかけられる声。それは俺のものではなく、先刻まで三人に苛められていた、月森少年のものだった。
彼女の名前を呼んだということは、知り合いなのだろうか。
小鳥遊さ――来夢ちゃんのほうに視線を向ける。しかし、彼女も困惑した表情を浮かべていた。
「ほら――」月森くんはゆっくりと立ち上がる。「――ぼ、ぼくだよ、ほら、ち……中二の時に同じ、クラスだった、つ、月森」
詳細な説明をされたが、彼女はかぶりを振る。
「ごめんなさい。おぼえていません」
その言葉を聞いた彼の表情を、絶望が侵食していった。伸ばされた手も、虚空を掴む。
「そんな――。だって、ほら、……せ、席が隣だったことも、あったのに」
「……ごめんなさい」
再びの謝罪――。月森君は悲痛に顔をゆがめる。そりゃ、元クラスメイトに会って、相手が自分のことを忘れていたら、ショックだろう。
そこで、ふと彼が俺の方に視線を向けた。
驚いた、顔。
まるで、今初めて俺の存在に気付いたかのような、そんな表情をする。
そしてその驚いた顔から、
「ぉお、お前っ」
憎悪が溢れ出す。
「お前だよっ、お前っ」
耳を打つ、怒号。青筋を立て、親の仇を見るような視線で俺をにらみつけている。彼の怒りは本物だ。少なくとも、俺にはそう見える。
何故だろう。彼とは初対面の筈なのに。
「誰なんだよっ、お前っ」
やっぱり、初対面だ。でも、十七年生きてきて、初めて会った人間に、ここまで敵意を向けられた経験なんて、多分、無い。
「何で黙ってんだよっ、誰だって訊いてんだろうがっ」
彼の様子に面喰っていたが、やはり、ここは答えるべきなのだろう、か。
「俺は時――」
「お前っ、ぁ来夢ちゃんの何なんだよぉっ」
答えようとした俺の科白に、被せる様にがなり立てられた。
と、
星空が、見えた。
身体に走った衝撃が、俺を襲う。
後頭部を、打つ。脳が揺れる。
少し遅れて、彼に倒されたのだと、理解する。
完全に不意打ちだった。
彼の体当たり――それは、つい数分前に来夢ちゃんが魅せた体術とは比べ物にならないほど未熟だったが、そもそも彼は俺に襲い掛かる必要性が無いのだし、まさか攻撃をしてくるなんて思ってもいなかったのだ。
頭を打ったことで、目の前に星が散る。
月森が俺に跨る。
やだなぁ、男相手に騎乗位なんて、絶対にしたくない。
なんて、そんな場違いな冗句が頭を過ぎる。これは、マウントポジション、だ。
「がっ」
意図せずに、息が漏れる。
月森が、叫ぶ。
「なんでお前が、お前みたいな奴がっ、居るんだよっ、隣にっ、なんだよっ、弱みかっ、来夢ちゃんの、弱みを握ってるんだろっ、そぉ、それでっ無理矢理、付き合わせてるんだろっ、ぃ畜生がぁっ。糞ぉ、卑怯者がぁ。卑怯者っ、糞がっ。おい、なんとか言ったらどうなんだよ、糞がぁぁっ」
鼓膜を震わせる、罵詈雑言。
振り上げられた、拳。
俺は両手を自分の顔の前に、翳す。
素手での攻撃は、ガードをすり抜けて、当たる。
そんな話を聞いた事が、あった。
体当たり、そしてマウントポジション。
月森の一連の動作は、技術は無いが、決して力が無いわけではない。
つまり、拳が振り下ろされれば、ただでは、済まない。
俺は訪れるであろう痛みを覚悟して、目を瞑った。
目を、開いた。
「ぷげぇっ」といった間抜けな声が聞こえたっきり、何も起こらなかったので、不審に思ったのだ。
月森はもう俺の上にはおらず、数メートル離れたところで伸びていた。
俺の前には来夢ちゃんが立っており、片手を差し出してくる。
助けて、くれたのだろう。状況的に考えて。
「大丈夫ですか」
俺はその手を掴み、立ち上がらせてもらう。
「ああ、うん。大丈夫、かな、割と」
後頭部を打ったし、路地に倒されて白セーターが汚れまみれになったけど、変なところで強がってしまう。
唐突に訪れる、沈黙。
何を言ったらいいのか、分からない。
「あの、来夢ちゃん」
「なんでしょう」
「助けてくれて、ありがとう」
だから、とりあえずお礼を言っておいた。
「どういたしまして」何て事無いように返された。「では、帰りましょう」
俺は自分の荷物に目をやる。
卵は、割れていた。