十九章 『日常の価値は非凡』
【Data File No.1 -4/16 07:35:00- ロードしました】
「司くーん、学校に遅れるわよー」
階下から峰子さんの間延びした声が聞こえる。
《ロード》成功時に発生する、目も眩むような閃光から立ち直って、辺りを見渡す。
俺は机に座っており、さっきまで部屋に居た筈のノナさんが、いつの間にか消えていた。窓から差し込む明るい光は、夕方のそれではなく、紛れもない朝日であった。
時計を確認する。七時三十五分を少し回ったところだった。
――どうやら、《ロード》は正常に行えたらしい。
ひとつゆっくりと息をつき、机の上の【ぼうけんのしょ】を確認する。すると予想通り、『四月十七日の朝』のセーブデータが存在していた。
【ぼうけんのしょ】に書かれた内容は、《セーブ》、《ロード》の影響を受けない。
これも、検証によって確認できた、事実だった。
今日の朝、十六日の朝にニュースを観て、胸騒ぎを覚えた俺は、毎朝のセーブデータをとっておく事にした。
よって、俺の体感時間でついさっき――つまり、十七日の夕方時点で、『十六日の朝』のセーブデータと、『十七日の朝』のセーブデータの両方が存在していたことになる。
そこから『十六日の朝』を《ロード》し現在は四月十六日に戻ってきているため、『十七日の朝』のセーブデータは本来この時間には存在していない筈なのだが――既に【ぼうけんのしょ】には、『十七日の朝』が、記されている。
もっとも、《SAVE》の文字は消えていたため、この紙を燃やしても《ロード》する事は出来ない、が。
俺は『十七日』のデータを二つに破ると、【ぼうけんのしょ】から、未記入のデータ用紙を数枚取り出した。
それらを折り畳み、財布へと入れる。以前読んだ漫画のアイデアを参考にさせてもらったのだが、何処でもセーブ出来るというのは、心強い。
更にもう一枚に今の時刻とサインを書き込み、数字の1に丸を付け、《SAVE》の文字が浮かんだのを確認すると、折り畳み、それは胸ポケットにしまった。これで万が一失敗しても、再び今の時刻から始める事が出来る。
そして俺は、階下へと向かった。
学校に登校してみると、案の定というか、殺人事件の話題で持ち切りだった。教室のそこかしこで今朝の事件に関する会話が繰り広げられている。
「おい、司、今日のニュース見たか」
氷室が話しかけて来た。珍しく真剣な表情をしている。
「ああ」
「なんなんだろうな。事件に関係してるのかは判らないけど、緊急の職員会議とかがあるらしいし。ホームルームの時間が少し遅れるってよ」
「そうなのか」
今後の対策でも話さなければならないのだろう。登校する時は俺の通学路とは外れていたから知らなかったが、現場周辺では警察やマスコミがごった返していたそうだ。
「そう言えば、司。お前髪切ったんだな」
「おうよ」
「似合ってると思うよ」
「どーも」
「どうで切ってもらったんだ」
「初音さん、の弟子かな」
「あれ、あの店に弟子なんかいたっけ」
「いるんだよ。ところで氷室、猫宮がどこにいるか知っているか」
俺は前回の今日と同じように会話をしながら、猫宮の所在を尋ねる。気になる事があったのだ。
「えっと、確か図書室に居た気がするけど、どうしたんだ」
「ちょっと訊きたい事があってね」
「成る程」
俺の答えになっていないような答えに、氷室は納得する。
猫宮心音の博識ぶりは、俺たちの間では有名だった。フラミンゴの意外な生態から、この街の美味しい漬物のお店まで、およそ猫恋に訊いてみて、答えられない事はない、といっても過言ではない。
氷室に礼を言って、俺は図書室へ行く事にした。
「猫宮、ちょっといいか」
朝の図書室、その隅で黙々と読書に励む猫宮に声を掛ける。
時間が時間なので、現在の図書室利用者は少ない。けれど自然と声を潜めてしまうのは、図書室の魔力だろう。
猫宮は椅子に座って読書をしている。足が床に届かずに、交互に振り子運動をしているその様は、彼女の幼い容姿もあいまって、可愛らしさの演出に一役買っていた。本当に、高校の制服を着た小学生に見える。――もっとも読んでいる本が、位相幾何学に関するものでなければ、だが。
「あれー、時田君だー。おっはよー」
底抜けに明るい声で、挨拶をする猫宮。
緩くカーブしたツインテールをリボンで止めているその髪形は、まるで漫画で出てくるお嬢様キャラのようだった。まあ、実際、彼女は結構なお嬢様らしいのだが。
「ああ、おはよう」挨拶を返す。
すると猫宮は満面の笑みを浮かべる。ああ、クソ、可愛いな畜生。
「それでー、何を訊きに来たのかなー」
やはり猫宮、お見通しか。と、言いたくなったが、そもそも俺が自発的に――それも、朝のホームルームが始まる前に――彼女の元を訪れる時は、七割がた何かを尋ねる為だったと思い出す。
「ああ。えっと――DNA鑑定ってあるだろ。あれ、さ。どれくらいかかるものなんだ」
なのでストレートに用件を伝える。
と、猫宮の表情が、凍り付いた。
「だ、誰と、なの」
震える唇で必死に言葉を紡いでいる。どういう事だろう。何が、『誰と』なんだろうか。
「響ちゃんを見捨てて、誰との子供とDNA鑑定するんだこのやろーっ」
ここは図書室。にも関わらず、なんかとてもじゃないけど聞き捨てなら無い事を叫ぶ猫宮。
数が少ないとはいえ、利用者はいるのだ。視線が痛いし、とてつもない誤解だし。
「落ち着け猫宮っ」
「こ、これが落ち着いていられるか、こらーっ」
椅子から降りて、俺に駆け寄り、握り拳で俺の胸板を何度も叩く。全然痛くない。
「ひ、密かに、おっ、応援っ、し、してたのにっ」
「だから、違うって」
「でも、せ、責任はとって、ちゃんと、子供を認知するよーにっ」
「ちがーうっ」
殴られても全然痛くないけど、流石にこれ以上の暴言は俺の学校生活に支障を来たす。と、いうか今でも十分にヤバイ気がする。先生とかの耳に入って、退学。なんて洒落にならない。
「死体だよ、死体」
「えっ」
猫宮の両肩を持って引き剥がし、諭すように、言う。
「例えば、身元がよくわからないような殺人死体があって――それがとある個人の可能性が出てきて、DNA鑑定で調べるとき、どれくらいかかるのかという、そういう質問だよ」
そう、決して「貴方、できちゃったの」とかいう元カノが現れて、その子供が本当に俺の子供かを調べる為にした質問などでは決して、ないのだ。
「なんだー、そうだったのー。吃驚しちゃったよー、本当に」
吃驚したのはこっちです。とは、言わないでおいた。
「でも、何でそんな事訊くのーって、質問して良いかなー」
「んー、止めておいてくれると、助かる」
「そっかー、じゃ、訊かなーい」
猫宮の察しが良くて、救われる。説明しようとしたら、朝の時間は潰れるだろうし、信じてもらえる自信が無い。
「……んー、DNA鑑定、ね」
記憶を検索するような仕草(人差し指を立てて、頭の上でくるくると回す動作。一休さんが頓智を閃く時の動作ともいう)をしてから、猫宮は思い出すようにゆっくりと口を開いた。
「たとえばー、さっきみたいな例だと、外国の調査機関に外注って事になるから、結果を知るまでに数週間かかるケースもあるみたいだけどー」
まだひっぱりますか、その話題。そう思ったが、口を挟む事はやめておいた。
「殺人事件や、事故のケースだとー、まぁ、死体の状態にもよるんじゃないかな」
「死体の――」彼女の言葉を無意識に繰り返す。「――状態、ね」
「うん。DNA鑑定が必要なほど損傷した死体ってゆーのは、有り体に言えば腐ってる訳だからー、DNAサンプルの抽出に結構苦労するみたいだよー」
「……成る程」
「でも状態が良ければ結構早くて、二日ぐらいで終わるみたい」
「二日」
刑事である蕪木長門の言葉が、思い出される。小鳥遊さんの死体が発見されてから、個人だと特定出来るまでに、やはり早すぎる気がする。
――嘘、だったのだろうか。
そうなると、やはり、俺の考えは間違っているという事になる。
そもそも、蕪木刑事の言葉が全て正しかったとしても、俺の感じたひっかかりは、ごく僅かなものだったのだ。
「あ、でもー」猫宮が思い出したように言葉を継ぎ足す。「死体とか個人の特定には、DNAもだけど、結構歯形で判断することもあるみたいー」
「そう、なのか」
「顎の形、とか歯の治療痕とかは結構誤魔化しが効かないからー、歯が数本ついた顎があるだけでも、個人を特定する大きな手がかりになるみたい、だよー」
そうすると、彼の言葉もあながち嘘だと切り捨てるものではないのかもしれない、のだろうか。
わからない。
わからない事が、多過ぎる。
「ありがとう。参考になったよ」猫宮に礼を言う。
「いいって事よー、それに、私も本で聞きかじった程度の知識だから、もしかしたら間違ってるかもだし」
彼女はそう江戸っ子風に返事をし、親指を突き出した拳を、俺に示す。
「でもねー」
その拳を下ろすと、猫宮が頬を膨らませて、言う。
「響ちゃんを悲しませたらー、許しませんよー」
だからその話は完全に誤解ですって。
そもそも俺はど――――、いや、やめとこう。セクハラだし。言ってて悲しくなるし。
もう一度猫宮に礼を言って、俺は図書室を後にした。
今日は部活動が行われず、教職員が放課後に周辺を見回るらしい。朝、谷嶋原先生がホームルームでそう報告した。
授業は通常通り六限目まで行われるとの事だったので、クラスメイトの何人かが失望の声を上げた。
まあ、そんな感じで。
俺は『二回目の今日』を繰り返していた。