十六章 『She looks to me』
「司、鞄が落ちたぞ」
俺は歩き出す。いつまでも立ち止まっているわけにはいかない。だって、そうじゃないか。人間、過去を振り返ってばかりじゃいけないだろう? まあ現実的な問題として、こんな密集地帯で立ち止まっていては、他の人のいい迷惑だ。
「おいっ、司っ、鞄っ」
人の波に流されるように、早く家に帰らないと。峰子さんや、恵理香が待っているはずだ。だから、早く。
先生達の引率は、駅の前あたりで終わっていた。徹底しているようで詰めが甘いな、と思ったけれど、よく考えれば高校ともなると、とても遠くから通学してくる生徒もいるわけだし、全員の安全を確保することなんて不可能だろうから、仕方がないといえば仕方がない。
いつもの通学とは違う時間帯だから、時刻表で発着時間を確認しないと。
そう思って切符売り場に並ぶ。えっと、家までは五駅だから――。
金額を確認して、切符を購入。
「司。なんで切符を買っているんだ? 定期を忘れたのか?」
次の列車が到着するまでの時間は、もうあまりなかった。だから、急がないと。三番線に。
階段を駆け下りる。ちょうど、次の電車が来るタイミングだった。駅員のアナウンスが流れる。アナウンスが聞こえる。
『まもなく三番線に次の列車が参ります。黄色い線の内側にお下がりください』
昼時だからか、駅の中にも人があまりいない。数が少ない。少ないのが駅の中の人だ。
慣性の法則というやつだ。俺の酔っ払いみたいなのがあしのふらつきで、黄色い線を越えてしまう。不味い。いや、まずいのか? だって数学的に考えれば、平面内ならば面積の小さいほうが『内側』と定義される。ということは、むしろきちんと黄色い線の内側にいるのは俺ひとりだ。 だから俺はキチンとテストで満点な解答通りに、線の内側でとどまる。おいおい皆さん。これは引っ掛け問題ですよ。リスクを恐れてちゃ、正解には辿りつけない。マルコポーロだかコロンブスだかが言ってたような気がしたけど、多分言ってないな。だからコレは俺の名言だ。「リスクを恐れてちゃ、正解には辿りつけない」。格好いいな、俺。
「おいっ、司っ、危ないぞっ」
でも誰かが俺の手を、引っ張って引っ張るから、俺は外側に引きずり出された。手を引っ張られて、引きずり出されたのが俺だ。
ゆっくりと入ってきた電車に、乗る俺が思い出したのは、今日の夕食当番が俺だったという事実だ。
昨日もそうだった気がするけど、気にしない。明日もそうなんだから。そういえば、今日は<アナト>で卵がタイムセールで安かったはずなのだから、行かなくては。
◆
――がしゃん。
小さい頃大切にしていたものがある。どこかに旅行したときに買ってもらった、硝子細工だ。
確か、鳥を模したもので、そのときの俺はなぜかひどくソイツに心惹かれた。
だから、毎日それを眺めていた気がする。
――がしゃん。
そう。だから、それが壊れた時のことを、よく覚えている。
肘が当たって、飾っていた棚から下へと落ちたのだ。慌てて差し出した手をあっさりと無視して、重力にしたがって床へと吸い込まれた。
フローリングに当たって、驚くほど綺麗に――粉々に砕け散ったその光景は、忘れられない。
大切にしてきたものが、俺の手を離れてもう二度と元には戻らなくなる――その感覚。
寂しい、のか。
悲しい、のか。
恐ろしい、のか。
どれも的確な言葉のようで、微妙に違うようで。
――がしゃん。
母さんと父さんが死んだと聞かされたときも、似たような感覚になった、気がする。
もちろん、その規模は比べ物にならないほど大きかったけれど。
――がしゃん。
あれ?
――がしゃん。
なんでこんなことを思い出してるんだろう?
◆
相対速度十キロで車に衝突した。車が止まっていて、俺がぶつかったのかもしれない。
倒れる。背中から。ばったりと仰向けになるのが俺がだ。
空が見える。下のほうに。倒れることにより、より広く。見える空だ――。
青い。
空を見るたびに、不思議に思う。思う。不思議だ。こうやって大の字に寝転がると、まるで空に落ちていってしまいそうで。
「早く起きろっ、あぶないだろっ」
そうだ。危ないのがこの状態だ。身体をゆっくり起こすのが俺で。
立ち上がる。路上駐車の車。
視線を前へ向ける――大型ショッピングモール<アナト>。
――平日にも関わらず、車がたくさんとまる駐車場。駐車場。
兎に角、行かないと。
どこへ? ――生鮮食品売り場だ。卵がタイムセールだから、早く。そのあとに、スタバによって、話をしなくちゃ――
誰と?
「おい、つかさっ」
駐車場をわたる。横断する。視界の端に、走ってくる車が目に入る。
――それがどうした。
行かなくては、早く。早く。
足を出す。右足、左足。意識して歩かないと、崩れてしまいそうで。
――ああ、この速度で歩くと、ちょうど――車とぶつかってしまいそうだ。でも、いかないと。はやくしないと間に合わなくなる。
「しっかりしろ、おいっ」
このまま走りぬけた場合――無傷で済む確率はいくらだ。
千に一つか、万に一つか。億か、兆か、それとも京か。
それがたとえ那由他の彼方でも、俺には充分に過ぎ――――
「つかさっ」
乾いた衝撃音。左頬に残る、痛み。
数瞬遅れて、俺は、自分が日比野に頬を張られたという事を理解する。
アスファルトの上に、立ち尽くす俺。
日比野は、泣いていた。
泣きながら、俺を、睨んでいた。
涙が頬を伝い、地面に落ちていく。
「――あれ、猫宮はどうしたんだ。慰めなくていいのか」
アホみたいに呆けていた俺の、第一声はそれだった。ほかに言うことがあるのに。
でも、確か彼女は泣いていた気がする。一緒の駅を利用しているから、家は近い筈だ。
「飛鳥に、任せたよ」
日比野が答える。
「そうなのか。泣いて、いたような気がするんだが」
「お前だって、今にも泣き出しそうじゃないかっ」
涙で顔をグシャグシャにした日比野が、叫ぶ。
「そう見えるか。俺は、至って普通のつもりなんだが」
「どこがだっ。線路に落ちそうになるしっ、止まってる自動車にはぶつかるしっ、駐車場で走りだそうとするしっ」
――――ああ、そうか。俺は、こんなにも脆かったのか。
みっともなく動揺して、事故りかけて。その度に日比野に助けてもらって。
全く、情けない。
「何が、あった」
彼女が、問いかける。
「何、って。――――特に、何も、なかったんだ」
俺は、答える。矜持がそれ以上語る事を許そうとしなかったが、一旦言葉にすると、あとは、決壊したダムのようだった。
「卵、バーゲンセールでさ、俺、余分にとっちゃって。戻そうとしたら、小鳥遊さんが――いて、で、卵をあげて、スタバに行って、特に何て事のないような事を話して、さ。友達――彼女が、どう思ってるかは、全然、判らなかったけど、俺は、彼女と――友達になれたって、思って、で。帰り際に――」
話すに連れて、徐々に声が上擦る。目の奥が、熱くなる。
泣いちゃ、駄目だ。
そう、思ったのに。
「帰り際に――俺、送ってこうかって、言って、断られたんだけど、だけど、さ、もし、もしもの話だけど――」
ここで泣いたら、最低の人間だ。
そう、思ったのに、俺の目から涙が、出てきた。
――もし俺が送っていけば、彼女は死なずにすんだのではないか?
次から次へと、止まらかった。
「違うっ」
日比野の、怒号。
喋っていた、俺の、言葉が、止まる。
「彼女が、死んだのは、司のせいじゃ、無い」
日比野が、ゆっくりと、言い聞かせるように、話す。
その言葉を、聴いて、俺は、ゆっくりと、崩れ落ちた。
そして泣いた。日比野の前で、情けなく。惨めに。泣き崩れた。
日比野は、その後は何も言わず、俺を抱き締めてくれていた。
最低で、格好悪くて、プライドなんか無くて。
聞き分けの無い餓鬼のように泣きじゃくる俺を、ただ、抱き締めてくれていた。