十四章 『スノースマイル』
全ての原因が自分にあるという事が解かっていても、それにより生じる不利益に『理不尽さ』を感じてしまう。それが人間という生き物の自己中心的な感情であるのだろうし、そう感じるという事は俺もまだまだ子供だという事だろう。
などと、益体も無い事を考えて、無理矢理自分を納得させる。
場所は近所でも大型のショッピングモール。帰宅した俺は、今日の料理当番が自分である事を思い出し、夕飯の買出しにここに来ていた。午後五時から始まるタイムセールに参加し、卵パックを格安の値段で手に入れたまでは良かったのだが、"お一人様二パック限り"と書かれた紙が目に入らなかった俺は、三パックとってしまったのだ。――いや、あの戦場のような状況で、割らずに三パック確保した事を褒めて貰いたい所なのだが。
兎に角、そのまま混雑したレジに並び、ようやく俺の番が回ってきたときに、レジ打ちのオバさんに指摘されるまで俺はそのことに気づけなかった。
オバさんは「卵、今日は二パックまでですよ」と一言だけ言うと、俺をスルーして、次の客の会計を始めた。どうやら返して来い、との事だろうが、またあのレジ待ちの行列に並ばなくてはならないと思うと、俺は溜息を吐かざるを得ないのだった。
と、卵のタイムセールが行われていた跡地(勿論今は売り切れ)の前に、意外な人物が、いた。
「小鳥遊さん」
そう、クラスメイトの小鳥遊来夢がその売り場の前に佇んでいたのだ。
キチンと着こなされた制服。長く、艶やかな黒髪。切れ長の瞳は、憂いを湛えている。その表情はこの世に存在するありとあらゆる不幸を嘆き、悲しんでいると言われても納得がいくような暗さではあったが、視線がタイムセール後の売り場に向けられていた事を考えると、ただ単に卵パックが取れなかったのだろう。
思わず呼びかけてしまった俺の声に反応して、彼女が振り向く。
が、俺も特に何か用事があった訳ではないので、会話は始まらない。
沈黙が、俺たちの間に舞い降りる。
「えっと――」
それに耐えかねて、俺は思わず、
「卵、要りますか」
そう、言っていた。
大型ショッピングモール<アナト>。生鮮食料品売り場を後にした俺は、内部にあるスタバでキャラメルマキアートを啜る。席の向かいでは小鳥遊さんがコーヒーを飲んでいた。彼女に「話がありますので、このあとお茶をしませんか」と誘われてこの状況に至る訳だが、彼女はこの店に入ってから、一切口を開こうとしていなかった。
無口、という部類に入るのだろうか。なんというか、彼女と関わると、毎回、大抵沈黙が場を支配している気がする。
こういう場合は、男から積極的に話しかけて、場のムードを明るくしなければならないと、氷室が言っていた。
まぁ、その時の話の内容は『氷室のパーフェクトでーと教室』だったのだから、若干今の状況とは異なる気がするが。
――ちなみに『氷室のパーフェクトでーと教室』では他にも「男は常に車道側を歩くべし」とか「公園で休む時、ベンチの上に敷くために、ハンカチは常に持ち歩くべし」とか「女性に掛けて上げるために、常時カーデガンを羽織るべし」だとかなんか色々な事を勝手に氷室はご教授してくる。まあ、役に立った事は一度も無い。と、いうか使う機会が一度も無かったのだが。え、泣いてないですよ。雨ですよ、雨。
「小鳥遊さん」
「はい、何でしょう」
「十回クイズって知ってますか」
「十回クイズ、ですか」
「はい、有名な所だと"ピザって十回言って"と相手に『ピザ』という単語を十回繰り返させ、その後"ここは?"と自分の膝を指差し、相手に思わず『ピザ』と言わせる、引っ掛けクイズの類です」
「ああ、その事ですね。もちろん、知っていますよ」
なんというか話題の振り方とか、内容とかが、物凄く野暮ったい感じがするが、気にしない。
「では、『舌』と十回言って下さい」
「わかりました。舌、舌、舌、舌、舌。した、した、した、した、した」
「サンタが乗っているのは、なんでしょう」
「引っ掛かりません。トナカイです」
「ソリですよ」
「――――っ」
顔を少し赤くして小鳥遊さんが黙り込む。表情は読みづらいが、多分悔しがってるのだろう。
それにしても、まさか乗ってくれるとは、思わなかった。案外、ノリが良いのかもしれない。
と、彼女が咳払いを一つ、した。どうやら話を始めてくれるらしい。
「ところで、何故、あんな事をしたのですか」
――それが俺に訊きたかった事、なのだろうか。
「それはですね。『お一人様二パック限り』だったのに俺は三パック取っちゃって」
「違います。卵の事は、感謝しています。そうではなく、昼休みの事です」
昼休み。
彼女を、食事に誘った事だろうか。今の口ぶりだと、その事は感謝していない、とも受け止められる。
「迷惑、でしたか」
「いいえ。正直に言うと、……少し、嬉しかったです。ですが、貴方にとって、私を食事に誘う事にどのようなメリットがあったのですか」
小鳥遊さんは少しも嬉しくなさそうな無表情で返答し、再び俺に問いかける。
メリット、ねえ。
「小鳥遊さんが、加わる事でしょうか」
「手段と目的が混合してますよ。そのような科白では、誤魔化されません」
偽りの一切無い俺の言葉を、切り捨てる彼女。
――まさか、本当に、彼女は、俺が誘った理由が、他に、あると、思っているのだろうか。
何気ない昼食の誘いにも、損得勘定が、存在しなければならないと、本気で、思っているのだろうか。
だとしたら、
それは、
とても、
とても、悲しい。
「あのですね。小鳥遊さん」
「はい」
「俺はね、特に明確な理由があって、声を掛けた訳じゃないんですよ」
こちらを見つめる、彼女。やっぱり表情にはほとんど変化が無くて。
「本当に、君と、昼ごはんが食べられたらいいなぁ、って。そう、思ったんです」
だけど全く無い訳じゃない。
「信じてもらえるかどうかはわからないけど、本当です」
我ながら陳腐な言葉だ。氷室だったらもうちょっと格好良く、言葉を紡げたりするのだろう。
「そうですか」
相変わらず、無表情のまま、答える彼女。日比野なら、その些細な変化から、彼女の感情を読めたりするのだろう。
「時田君」
「はい」
「さっきの"少し嬉しかった"って言葉。あれは嘘じゃありませんから。念の為、言っておきますけど」
それからは、友人のように他愛も無い事を話し合った。相変わらず彼女は無表情で、楽しいのかそうで無いのかはさっぱり判らなかったけど。でも、それでもじっと見つめれば、表情の変化がないわけではないし、きちんと話してくれる。今までほとんど話す機会がなかったから、彼女のことは無口だと思っていたのだけれど、ここ数時間でかなり印象が覆された。
「もう、こんな時間か」
俺は時計を確認して、言う。もう七時になろうかという時間帯だった。なんだかんだで一時間以上も話していた計算になる。
「すみません。付き合ってもらってしまって」
「いえ、大丈夫ですよ」
お互いに荷物を持ち、帰り支度をする。
ショッピングモールの外、駐車場に出る。春になって陽が伸びたとは言え、もう外は暗くなっていた。
「送っていきましょうか」
そう提案する。
「結構です。ちょっと歩きますし。卵、早く冷蔵庫に入れないと、痛みますよ」
それもそうか。しかし、少し歩くのならば、なおさら送るべきだと思うのだが。
「そうだ、時田君」
「はい」
「『小野小町』って十回言ってください」
「小野小町、小野小町、小野小町、小野小町、小野小町。おののこまち、おののこまち、オノノコマチ、小野小町、オノノコマチっ」
「日本で最初の遣唐使は誰でしょう」
「小野妹子」
「それは遣隋使ですね」小鳥遊さんが口元を斜めにする。「正解は、犬上御田鍬です」
「問題単体のレベルが高過ぎるっ」
思わずツッコミを入れる俺。『小野小町』と十回言わなくても、答えられなかったぞ。
彼女は俺に仕返し出来たのが嬉しかったのか――
少しだけ、微笑んだ。
「じゃあまた明日、学校で」
そういって去って行く、小鳥遊さん。その歩調に合わせて長い髪が波打つ。
――俺は凍りついたように、ただ彼女の背中を見送る事しか出来なかった。
何故なら、初めて見せてくれた彼女の微笑が、
とても、
綺麗だった、から。




