十三章 『隣の町で死んだひと』
朝、水で洗顔料を流した顔を上げると、鏡に俺が映る。
日比野に教えて貰った通りにワックスで髪を整えると、昨日までの俺とは別人のようだった。恐るべし髪型の変化。おはよう新しい自分。
ワイシャツを羽織り、ボタンをつける。ネクタイを結び、セーターを着る。一連の着替えの動作も、今では手馴れた物だ。
居間に向かうと、もう既に朝ごはんの準備が出来ていた。
「おはようございます、峰子さん」
「おはよう、司くん」
「おはよう、恵理香」
「 」
峰子さんと恵理香に挨拶をする。今日の朝食は、ご飯に味噌汁。鮭の塩焼きと海苔と玉子焼きだった。これぞ日本の朝ごはん。
三人で食卓に付く。
「いただきます」
「いただきまーす」
「 」
峰子さんの料理の腕はかなりの物だ。俺は鮭をほぐすと、ご飯と共に口へ運ぶ。ふっくらと炊かれたお米と、程よい塩加減で焼き上げられた鮭が、口の中で絡み合う。うん、美味い。
「それにしても、本当に上手なのね、響ちゃんは」
峰子さんが俺の頭を見て、そんな事を言う。新しい髪形は峰子さんにも好評だった。
「そうですね。俺も、そう思いますよ」
「今度、私もお願いしようかしら」
そんな他愛も無い会話をしていると、テレビに映るニュースにふと目が行く。
「あれ――これ、隣町の話じゃないですか」
テレビ画面には、俺にも見覚えがある街の光景が映し出されていた。確か学校の近くだった筈だ。
「あら、本当」
俺の言葉に峰子さんと恵理香も視線をテレビへと移して確認する。
ニュースの内容は、若い女性が殺されたといった物だった。銃で何発も撃たれていたらしく、警察は暴力団の抗争が関与しているとみているらしい。
「物騒ね」
そう、峰子さんが呟く。確かに、その通りだった。俺が通う学校の傍で殺人事件。しかも銃で撃たれていたなんて、ぞっとしない話だ。
嫌な予感が、した。
学校に登校してみると、案の定というか、殺人事件の話題で持ち切りだった。教室のそこかしこで今朝の事件に関する会話が繰り広げられている。
「おい、司、今日のニュース見たか」
氷室が話しかけて来た。珍しく真剣な表情をしている。
「ああ、殺人事件のことだろ」
「なんなんだろうな。事件に関係してるのかは判らないけど、緊急の職員会議とかがあるらしいし。ホームルームの時間が少し遅れるってよ」
「そうなのか」
今後の対策でも話さなければならないのだろうか。登校する時は俺の通学路とは外れていたから知らなかったが、現場周辺では警察やマスコミがごった返していたそうだ。
「そう言えば、司。お前髪切ったんだな」
「おうよ」
「似合ってると思うよ」
「どーも」
「どこで切ってもらったんだ」
「内緒だ」
まあ、身近で起きた殺人事件は、多少センセーショナルとはいえ所詮は他人事だ。話題はそれから昨日観たテレビとか、そんな他愛もないものに移っていった。
今日は部活動が行われず、教職員が放課後に周辺を見回るらしい。朝、谷嶋原先生がホームルームでそう報告した。
授業は通常通り六限目まで行われるとの事だったので、クラスメイトの何人かが失望の声を上げた。
まあ、そんな感じで。
幕開けはほんの少しだけ劇的だったけど、俺たちの日常はいつもと変わりなくて。
だけど何かが、狂い始めていた。
「めっしだっ。めっしだっ。ひーるめーしだーっ」
昼休みになると同時に、氷室が謎の唄を歌いながらこちらにやって来た。普段俺以外の前ではクールキャラを貫いている癖に、昼休みになるとテンションが上がって、彼は馬脚を露すのだ。しかし何故か氷室の人気は落ちない。彼曰く、「時々地を出すのは、いわゆる一つの萌え要素として処理されてるから大丈夫」との事。畜生、イケメンは何をやっても許されるのか。
昼休みは席を自由に変える事が出来るので、俺達はいつも俺、氷室、日比野、猫宮、飛騨の五人でグループを作って食べている。
今日は俺の席の周りに集まる事にしたらしい。氷室が俺の席の前に陣取る。
「いやー。この時間の為だけに学校に来てるといっても過言ではありますまい」
そんな戯言を事をほざいている氷室。その隣に座る日比野。その前に座る猫恋に、その横、氷室の前に当たる席に座る飛田。
新しいクラスが出来て一週間も経てば、大きさは大小様々だが、大抵の生徒が似たようなグループで食事を摂っている。
――ただ独りを除いて。
小鳥遊、来夢。
俺はちらりと横目で彼女を確認する。俺たち五人やその他大勢は、思い思いに机を寄せ合っていたが、このクラスでただ一人、彼女だけはそこに交わっていなかった。
教室の端で、いつも通り文庫本を読みながら、パンを頬張っている。
――どう、すべきなんだろうか。
もちろん彼女を、誘うべきなのだろう。
しかし、そんな義務感で声を掛ける俺の心を満たしているのは、安っぽい同情だ。
言い方を変えれば、上から目線で押し付けられる、御節介な誘い。
そんな物で彼女が加わるとは思えないし、そんな事を言うような人間には、なりたくない。
それに彼女は一年の最初からこの食事スタイルらしい。
今更俺が誘ったくらいでそれを曲げるとも、思えない。
必要以上に他人と関わらないのが、彼女の信念なのかもしれない。
でも、
「小鳥遊さん」
俺は声を掛けていた。俺の人生哲学は『やらずに後悔するより、やって後悔』なのだ。
小鳥遊さんが顔を俺のほうに向ける。
「一緒に、ご飯、食べませんか」
思わず敬語になってしまった。
彼女が、目を見開いた。
そのまま静止する。
俺も思わず、固まる。
氷室や日比野、猫宮に飛田が驚いた様子でこちらを見つめていた。
暫くそのままだったが、やがて小鳥遊さんが口を開く。
「本気、ですか」
「本気です」
即答する俺。
彼女は俺を睨むように見つめる。俺も負けじと見つめ返す。ここで目を逸らしたら、多分、食事に加わってくれなさそうな気がしたから。
もう一度、そのまま場が膠着しそうになったが、彼女が根負けしたのだろう。
机を、寄せてくれた。
食事風景は和気あいあいとしていた。
日比野や猫宮、飛田はまるで以前からの親友のように、話題を小鳥遊さんに振っていたし、氷室も俺に小声で「グッジョブ」というと、積極的にその会話に参加していたからだ。
ただ、なんだろう。周囲から妙に見られている気がする。
しかし、それも無理のない話なのかもしれない。
学年でもトップクラスの美少女四人と、それにひけを取らないイケメン一人だ。まるでギャルゲーの光景ではないか。
――あれ。でも待てよ。そうすると俺のポジションは、主人公(氷室)の親友になってしまう。
脇役だ。完全に脇役だ。
と、いう事は。俺は氷室に訊かれたら、彼女たちの好感度とかを報告しないといけないのかよ。
「絶対に、教えないからな」
「どうしたんだ、司」
俺の独り言を聞き取ったのか、話しかけてくる氷室。因みに小鳥遊さんが居るからか、今の彼は『爽やかモード』だ。
「別に何でもない。ただの独り言だ」
と、いうか単なる僻みだ。
俺は内心憤慨しながらも、ご飯をかっ込んだ。うん、美味い。
その後は連絡にあった通り、六限目まで授業を行った後、下校する事となった。
部活は中止との事だったので、いつもよりも混雑している通学路を、日比野と共に歩く。
「凄い人の多さだな」
隣を歩く日比野が、感嘆の声を漏らした。
「結構な人数の生徒がいるって事だ。『数クラス毎に帰宅時間帯をずらす』とか工夫すれば良かったのにな」
学校の前の歩道は生徒たちで溢れていた。ちらほらと生徒以外の人も居るが、まあ、とてもじゃないが前には進めないだろう。これでは、明日あたり学校側に苦情が来るのではないだろうか。普段は全校集会ぐらいでしか、他の学年と顔をあわせる機会はないが、かなりの人数である。
「つ、つかさっ」
日比野の叫び声が耳に入る。振り返ると、人の波に呑み込まれている彼女が見えた。とはいっても、小柄な彼女の特徴的な金髪が上下に動き、そこに日比野が居るのだという事を、俺に示しているだけだったが。
人の波を掻き分け、彼女の元へ向かう。途中、迷惑そうな視線が俺を射抜いたり、舌打ちとか聞こえたけど、無視。なんという自己中。
「大丈夫か」
腕を引っ張り上げて日比野を救出する。
「大丈夫だ。問題ない」
強がる日比野。
うん。またはぐれたりすると、面倒だから、仕方ないな。
俺は彼女の手を掴むと、そのまま歩き出す。嫌だなぁ。下心なんて少ししかありませんよ。
「ちょっ、司っ」
「なんだ。一刻も早く人ごみを抜けないと」
「それはそうだがっ、手っ」
「あれ、痛かったか、済まない」
流石に強引過ぎたかと、そう謝罪して俺は手を離す。
「――――っ」
「ん。どうした日比野」
彼女は少し立ち止まる。すると何を思ったか今度は彼女のほうから俺の手を取り、前を歩き出した。
「おい、日比野っ」
「なんだ。一刻も早く人ごみを抜けたいのだろう」
俺の抗議も無視して、日比野は前を進む。
彼女に手を引かれる、俺。彼女の手の平は、ひんやりと冷たくて、小さくて、柔らかい。
今の状態を的確に表現する言葉は、何だろう。役得――とも少し違う気がする。
語彙の貧弱な俺には上手く当てはまる言葉は見つからなかったが、今の俺の気持ちを表す表現なら、簡単に発見出来るだろう。