十二章 『METAMORPHOZE』
家の庭。そこに乱立する広葉樹。
葉と葉の間から溢れ出す木漏れ日が、地面に落ちた影にいくつもの穴を開けている。
爽やかな春風。枝や葉がこすれあい、心落ち着くざわめきを響かせる。
その庭に敷かれたビニルシートと、新聞紙。
ビニルシートの中央でパイプ椅子に座っている、俺。
俺の後ろに立ち、鼻歌を歌いながら、霧吹きで俺の髪を湿らしている、日比野。
説明するまでもないと思うが、俺は今、絶賛賭けの代償を取り立てられ中だった。(日本語が崩壊してるが、気にしない)
といっても誤解はしないで欲しい。別に世界線変動率の変わった数値が少なくて、俺の負けと言う結果に『収束』したため、《ロード》をしても結果が変わらなかっただとか、そういったSF的な理由ではない。
ただ単に、俺は、《ロード》が出来なかったのだ。
ライターの火を【ぼうけんのしょ】に近づけ、《ロード》を実行しようとしたが、何故か出来なかった。
いや、理由は解かっている。
俺は、怖かったのだ。
過去を、変える事が。
昨日の実験で、何回も《ロード》したときは訪れなかった感情。
――それは、恐怖だった。
俺個人の意思で、世界を、過去を、変えてしまっていいのだろうか。
それは、禁忌では、ないのか。
それに、
ここで《ロード》をしたら、多分、俺は"癖"になる。
こまめにセーブを繰り返し、上手くいかなかったら、データを《ロード》してやりなおす。
そういう生き方が、癖になる。
きっと止められない。
当たり前だ。
失敗しないのだから。
失敗しない、人生が送れるのだから。
だけど――
だけど、そんなの、
そんなの、まるで、ゲームじゃないか。
人生を、ゲームのように、扱ってしまう。
そんな魔力が、【ぼうけんのしょ】には、ある。
そこまで考えたとき、俺は反射的に、データを《セーブ》した紙を、トイレに流していた。
そして、今に至る。日比野は着々と俺を坊主にする準備を進めている。
恵理香は庭の片隅で、こちらをぼうっと眺めていた。
嗚呼、悲しいかな、悲しいかな。俺は明日から眼鏡坊主だ。どんな渾名がつけられるだろうか。
でも、これでいいのだ。所詮、俺にとって【ぼうけんのしょ】は過ぎた道具だった。
身に余る道具を扱う人間は、いずれ道具に扱われる様になり、破滅する。
要するに、時間を操るだけの器がなかったのだ、俺は。
それに、いくら人間にとってはイカサマではない、といっても、そんな方法で勝つ事は、日比野を裏切る事になるような、そんな気が、するし。
――返そう。
来週、ノナさんがまた来る、みたいな事を言っていた気がする。その時に、【ぼうけんのしょ】を、返却しよう。
それで、いいんだ。
俺には、使いこなせないから。
日比野が何かベルトのような物を取り出した。それは、床屋や美容師がよく使う。ホルダーに様々な鋏やら櫛やらが入っている物だった。
「あれ、日比野。バリカンじゃないのか」
髪が服に付かない様にだろう。ビニルのマントを被せられた俺は問いかけてみる。
「へぇ、覚えていたか」
「怒ってるんじゃ、なかったのか」
てっきり俺のセクハラ発言に腹を立てたまま、バリカンで剃って来ると思ってたのに。
「あの程度の事で私が本気で怒るような、器の小さい女だと思われていたのだとしたら――その事に対してなら、今、猛烈に怒っているよ」
頬を膨らませてこちらを睨む日比野。その動作は、反則だろう。
思わず目を逸らす俺に、日比野は言葉を続ける。
「まあ、兎に角、負けたら散髪する約束だっただろう。取り立てさせてもらうよ。本当は美容院に行ければそれが一番なのだろうが、そんな金は、無いみたいだからな」
全くの通りだった。つまり、日比野は美容院代も払えない俺を慮って、髪を切ってくれるらしい。
しかし、どうなのだろう。プロ以外の人間に、髪を切ってもらった事など、小さい頃、母親に数回程だ。そして、その数回は間違いなく俺のトラウマ認定されるぐらいの出来だった事は記憶している。
日比野に髪を切られる事に、一抹の不安が脳裏を過ぎる。
――結論からいってしまえば、それは杞憂に終わった。
数十分後、日比野に髪を切られ、シャンプーをし、ドライヤーで乾かされた俺は、彼女が用意した鏡を見て、驚愕する。
「ひっ日比野さんっ、髪形が、ヤバイですっ。なんかイケメンみたいなフォルムになってますっ」
そう、彼女の仕事は完璧だったのだ。
長いか短いかで言えば、間違いなく長いのだが、ドラマでジャニーズ系の俳優がするような、格好良い髪形になっている。
ミディアムウルフと言えば良いのか、ミディアムレイヤーと言えば良いのか、髪形に詳しくない俺はピッタリと説明が出来ないが、兎に角。
「ちょっと待て。まだ最後の仕上げが残っている」
そういってワックスを掌で伸ばし、俺の髪をセットしていく日比野さん。
「おおおっ、どんどん格好よくなるっ、そんな気がするっ」
テンションが上がって叫び出す俺。
「良し。コレで完成だ」
そういって俺から離れる日比野。
鏡で何度も確認するが、やはり、凄い。
「ありがとう、日比野」
礼を言う俺。
「そんなに気に入ってくれたのか」
「ああ。どこでそんなスキルを身につけたんだ」
てっきり特技はギャンブルだけだと思っていたのに。
尋ねると、日比野は少し恥ずかしそうにして、答えた。
「その、将来は美容師になりたくて、な。初音さんのところで、中学の頃から、少しずつ、習ってた」
初音さん、というのはこの近くの美容室のお姉さんだ。俺も時々、行く。
「成る程、ね」
俺は相槌を打つ。彼女がこんな技術を持っている理由に納得する。同時に、そんな風に将来のビジョンを明確に描いている彼女を、少し、眩しく思った。
「これなら毎回日比野に切ってもらってもいいな」
「次からは金を取るぞ。――と、言いたいところだが、プロじゃない私が人の髪を切れる機会なんてほとんど無いからな。実験台として、切ってやってもいいだろう」
えへん、と日比野は胸を張る。
と、庭の隅にいた恵理香が近づいてきた。
「恵理香、どうよ、この髪形」
そう訊くと彼女は首を何度も縦に振り、肯定の意志を示す。
「そうだ」
日比野が声を上げる。
「どうせだから三人で、出かけないか」
その提案は素晴らしいものだった。二つ返事で了承する。
「じゃあ少し待ってくれ。片付けるから」
そう言って俺は、切られた俺の髪や、新聞紙を処理する。
――全く。《ロード》なんてする必要、なかったじゃないか。
内心でそう呟く、俺。
《ガイスター》での敗北は、差し詰め親父がいうところの、"幸せの礎の不幸"とでもいったところだったのだ。
ふと、空を見上げる。
四月の空は、今日も晴れていて。
今の俺の心の中を、そのまま映した様だった。
髪を切ったことで、ポジティブな思考になったのだろうか。
多分、明日も、明後日も、素晴らしい日になる。
そんな気が、した。