十章 『日曜日の太陽』
《ロード》を使い、睡眠時間を稼いだにも関わらず、ほとんど眠れないまま朝を迎えた。
ベットを抜け出し、顔を洗うために一階に降りる。と、そこで峰子さんと鉢合わせた。
「あら、司くん、早いのね。今日は日曜日よ」
俺が休みの日に早く起きたことで、驚いた様子だ。確かにいつも休日はわりと遅くまで寝ている。
「今日、日比野が来るんですよ」
俺は欠伸を噛み殺して答える。
「あら、あら、それで」
その返答に対して、何か得心がいったような様子で頷きながら、洗面所を後にする峰子さん。何が「それで」なのだろうか。
「げ。これは酷い」
入れ替わるように洗面所に入ると、犯罪者が、居た。
いや、まぁ、鏡に映った俺自身の顔なのだけれど。
元々目つきは悪かったが、目の下の隈がくっきりと出来ていて、本当に、脱獄囚のような趣を醸している。
隈ってどうやったら消えるんだっけ、などと思いながら洗顔を開始する。そこで、先ほどの会話をふと、思い返した。
「――あの会話に、この隈。『日比野が来るのが楽しみで眠れませんでした』って言ってるような物だったのか」
まぁ、その推察は概ね当たっているけれど。
昨日の【ぼうけんのしょ】の事と、
日比野がバリカンを買いに走ったという事実がなければ、の話だが。
「やぁ、一昨日ぶりだな」
日比野は昼過ぎにやって来た。
「あら、響ちゃん、いらっしゃい」
「 」
出迎えの挨拶をする、峰子さんと恵理香。
「お邪魔します」
「いえいえ、いいのよ。ゆっくりしていってね」
そういうと、峰子さんは「後は若人だけでごゆるりと~」等と歌いながら、出掛けてしまった。どうやら、日比野に挨拶だけしたかったらしい。
靴を脱ごうとする日比野に、抱きつく恵理香。抱きつかれた日比野も、笑っている。
「久しぶりだな恵理香ちゃん。司に虐められてはいなかったか」
「待て」
なんと言う事を言うのだ。人聞きの悪い。
「こんにちは、司。一昨日ぶりだな」
再び俺に挨拶をし直す日比野。
「そうだな。一昨日ぶりだ」
気の利いた返しが思いつかず、思わず鸚鵡返しになってしまう。
「ところで、司よ。どうして今日は眼鏡をしている」
おお、日比野。お前だけだ、最初に俺の変化を気に掛けてくれるのは。
「コンタクト、落としたんだよ」
「そうか、あれ、高いんじゃないのか」
「まぁ、それなりに、な」
「むぅ」
黙り込む日比野。顔色が浮かない。
「どうした」
「いや、その、……まあいい」
心配して声を掛けるも、自己完結されてしまう。ちょっと寂しいですよ、俺は。
「ところで日比野さん」
「何だ」
「そちらの鞄は何なのでしょう」
日比野の服装はシフォンワンピース、というのだろうか、ふんわりとしたフォルムの、明るい水色のワンピースに、デニム生地のパンツを組み合わせたスタイルとなっている。全体的に寒色系で統一されたコーディネイトで、本日の爽やかな春空を俺に連想させた。
が、なぜか彼女はその服装に似合わないボストンバックを脇に抱えていた。
「これはだな、うん。司が負けてからのお楽しみだな」
しっかりと賭けの事は覚えてらした。
「ああ、そうか、賭けね」
俺は今思い出したかのような演技をしてみせる。
「そうだ。家にあったと思ったが見つからなくてな、色々と探し歩いたのだよ」
そうまでして、俺を坊主にしたかったんですか。
「さて、今日はどんなゲームで勝負をするんだ」
彼女は楽しそうな微笑を浮かべて、問い掛けて来る。多分、ゲームをする事自体も、楽しみの一つなのだろう。同時に、どんなゲームが来ても負けないという自信が伺える。
「色々用意しておりますが、どれにいたしましょう」
「一番良いのを頼む」
「ガイスター、ね」
日比野は目の前に用意されたゲーム盤、およびその上に鎮座する十六の駒を見て、そのゲームの名称を、呟いた。
「知っている、のか」
「いや、ただ単に箱に入った文字を読んだだけだが」
うん。確かにこのゲームが入っていた箱に、思いっきり片仮名で『ガイスター』って印刷されてた。
「じゃあ、ルール説明が必要か」
「ああ、お願いする」
そういって真剣な表情になる日比野。自分の知らないゲームで戦う時は、いかに早くそのゲームのルールを把握して、駆け引きのポイントとなる部分を理解し、最適な戦略を見つけ出せるかが鍵を握る。百戦錬磨の強さを持つ彼女が、多分、その事を一番よく解かっているのだろう。
場所は俺の部屋。朝早く起きて掃除したから、それなりに片付いている。その中心部で、座布団を二つ敷き、ボードを挟んで向かい合う俺と、日比野。恵理香は久しぶりに来た日比野の背中に、負ぶさっている。何と言うか、微笑ましい。仲のいい姉妹のようだ。
「このゲームは、見ての通り六×六マスのゲーム盤と、幽霊をモチーフとした、お互い八個ずつの駒を使って戦う」
そう言って八個の駒を、日比野に渡す。彼女は渡されたそれを、興味深そうに、眺める。
「ボードといい、駒といい、なかなか凝った造形だな」
「ボードゲームマニアの間では、それなりに人気で、評価が高いゲームだからな」
日比野の素朴な感想に、そう答えて俺は説明を続ける。
「自分側に接している二行の、中心四マス。計八マスが自分の《陣地》だ。そのマスにこの駒を、自由に配置する事で、ゲームが開始される」
指を差し、彼女側の《陣地》を示す。
便宜上、チェスと同じように、俺から見た、三十六マスを、縦の筋を左から順にアルファベットのa、b、c、d、e、f、横の筋を俺から向かって1、2、3、4、5、6と定義するならば、俺の陣地は1b、1c、1d、1e、2b、2c、2d、2eの八マス。日比野の陣地は5b、5c、5d、5e、6b、6c、6d、6eの八マスになる。
「駒の種類は二種類。《良いオバケ》と《悪いオバケ》だ。それぞれの駒の内訳は、各プレイヤーに《良いオバケ》四つ、《悪いオバケ》四つだ」
「両プレイヤーとも、同じ内訳なのだな」
「ああ。この二つの見分け方は、駒の造形が全く同じだから、一見判らないが、駒の後ろ、背中の部分に印が付いているだろう」
「む、確かに。赤と青。二種類の印が付いているが、まさか」
「そう。それが見分け方だ。青い印が《良いオバケ》、赤い印が《悪いオバケ》だ。信号みたいな感じで関連付けると、覚えやすいかもな」
「青が、《良いオバケ》。赤が《悪いオバケ》、か」
「そしてコレを配置する時は、当然、相手の方に前面を向けるように置くから、ゲームが始まったら、相手はどれが《良いオバケで》どれが《悪いオバケ》か判らなくなる。自分には見えているけど、な」
「相手は、把握出来ない、ね」
そう相槌を打つと、日比野は黙り込んだ。勘の良い彼女の事だから、このゲームのおおよその概要が、予想できたのかもしれない。
「ゲームを進める手順は、こうだ。先手後手を決めたら、自分のターンに、自分の駒を一つ、縦か横に一マスだけ移動させる。斜め移動は出来ないし、パスは、無い。全ての駒の動かし方は共通だから、そこで相手の駒を判別は出来ない」
こちらをじっと見つめる日比野。
「相手の駒のある場所に、自分の駒を進めると、相手の駒を取る事が出来る。だから、基本的な考え方は、チェスと同じだと思ってもらって良い」
そう、基本はチェスと言える、シンプルなルールのこのゲーム。しかし、全ての駒のスペックが同じである以上、このゲームがそれだけだったのなら、これ程人気を博す事は出来なかっただろう。ここからが、このゲームの肝なのだ。
「では最後にこのゲームにおける、勝利条件を、説明する」
俺は指を一本立てる。
「勝利条件は三つあるが、まず一つ目。四つの隅にあるマスは矢印が描かれているよな」
そう、角にある四つのマスには、そこから横へ向けた矢印が、ある。番号で言うなら1a、1f、6a、6fの四マスだ。
「これは脱出口、と呼ばれるマスで、相手側の脱出口のマスから、自分の《良いオバケ》を一つでも逃がす事が出来れば、勝ちだ」
つまり俺は6a、6fから、日比野は1a、1fから脱出させれば良いのである。
「注意して欲しいのは脱出口、矢印の書いてあるマスに到達させた時点で即勝ちとなるのではなく、そのマスに居る、自分の幽霊を次の自分のターンに一回動かして、文字通り盤上の外へ逃がす必要がある、という点だ」
俺は二本目の指を立てる。
「次に二つ目。これは、相手の《良いオバケ》四つを、全て取ると勝ちになる」
チェスのように駒を取り合い、その結果相手の《良いオバケ》を全滅させればいい訳だ。
「最後に三つ目。自分の《悪いオバケ》四つ全てを、相手に『取らせる』と勝ちになる」
この三つ目の勝利条件が、駆け引きのポイントに、なってくる。
「逆に言えば相手の《悪いオバケ》を四つとってしまうと、その時点で負け、という事だ」
《悪いオバケ》を取りすぎると、敗北。
そしてゲーム中、相手の駒の種類を判別する、確実な方法は、無い。
「ルール説明は、以上だ。何か質問は、あるか」
「いや、特には無い。君は説明が上手だな」
そう言って、口許を斜めにする日比野。
「じゃあ、これでいいか」
「ああ。面白そうなゲームだ。私はこれで構わない。――が、君はこれでいいのか」
確認を取る俺に、逆に問い掛けて来る、日比野。
彼女の言わんとする事は、理解出来る。
このゲームはシンプルで、ルールも理解しやすく、説明は五分もあれば充分だろう。それでいて、世界中のプレイヤーに愛されているのは、奥が深い心理戦が楽しめるからだ。
三つある勝利条件のどれを目指すかで展開する戦略。ブラフ、フェイク。その他諸々。
単純なルールと深い駆け引き。それがこのゲームの魅力だ。――だが、
そういった『心理戦』こそ、いわば日比野のホームグラウンドだ。
この手のゲームは彼女の最も得意とするところ。
ポーカーではワンペアでフラッシュの相手を降し、麻雀ではこちらの当たり牌を的確に避ける。
異能の観察眼に的確な読み。大胆なブラフと緻密な戦略性。
日比野響はこと心理戦において、右に出るものはいないだろう。そういう女の子、だ。
それでもポーカーや麻雀には少なからず運の要素が入ってくる。カードや牌の流れ次第では、こちらが勝つ確率も、理論上は、ある。あくまで理論上の話は、だが。
しかしこのゲーム《ガイスター》には運の要素は一切、無い。開始時の駒の配置までプレイヤーに委ねられたシステム系統。そこに乱数は一切存在しない。純粋に、心を狩るゲームだ。互いが互いに相手の認識を支配しようとし、思考で相手をねじふせる。そういう遊戯。
つまり彼女はこう言っているのだ。
――このゲームで私に勝てるのか、と。
なるほど。なるほど。
確かに日比野の言う通りだ。もう一度言うが、このゲームは彼女が最も得意とするところ。
だが、しかし。
だからこそ俺がこのゲームを選んだという事を、彼女は解かっていない。
運の要素が入っては、俺が困るから、あえて選んだと言う事を。
純粋な心理戦では日比野に叶わない。俺はそんな事は百も承知でこの《ガイスター》を選択した。
といっても勝負を投げたとか、そういった事ではない。俺だって坊主にはなりたく、ない。
それでも俺が《ガイスター》を選んだ理由。それは、
彼女に百パーセント余すところ無くこちらの手を見抜いてもらわないと、俺が勝てないから。
こちらの手を読み切り、必勝の戦略を紡げる彼女。で、あるが故に俺の罠は作動する。
だから俺は日比野の問いに対して。
「もちろんだ。俺だって負けるつもりは、無い」
そう、答えた。