八章 『時間跳躍のパラノイア』
人生を長期的なスパンで見ると、そのときは不幸に感じたとしても、後々幸福のための礎となった。みたいな出来事があるらしい。以前、父さんが口癖のように言っていた。
だから我慢も大切だ。
というようなことを父さんは言いたかったのだろうか。
しかし世の中には即物的な不幸というか、確実に不幸しかもたらさないだろうという出来事が、ざらにある。
例えば、身体中を蝕む筋肉痛だとか。
例えば、皺だらけになったズボンだとか。
例えば、コンタクトレンズを落としてしまった事は。
これらは間違いない、と言っていい位、俺に不幸しか与えないだろう。
あるいは、両親が事故で死んだことだとか。
あるいは、義妹がそのショックで声を失った事だとか。
あるいは、義妹が、両親の死の映像に、いまだ怯え続ける事は。
これらだって間違いない。
俺の人生の中で、きっと最大級に不幸な出来事だと断言できる。
だけど、
ある日突然見知らぬ人がやってきて、自分の家の居間でほうじ茶を啜っているこの出来事は、
幸福な出来事なのだろうか。
即物的な不幸なのだろうか。
あるいは、幸福の礎の為の、不幸なのかだろうか――――。
「あら、司くん、帰ってきていたのね。お帰りなさい」
「 」
「お邪魔しています」
昼飯前に学校が終了し、お腹を空かせて帰ってきた俺を待っていたのは、峰子さんと、恵理香と、あと知らない女の人だった。
ゴスロリファッション、というのだろうか。黒を基調としたドレスのような服を着ている。一種のコスプレのようにも取れるその服を着ていても、あまり違和感がないのは、彼女が外国人だからだろう。パイナップルのように逆立てられた髪の毛は、金色だったし、白い肌と、緑色の瞳。それに北欧系を彷彿とさせる顔立ちは、どう考えても日本人のものでは無かった。
年齢は俺たちと同世代。あるいは少し上ぐらいに見える。しかし、傍らにいる峰子さんが『年齢詐称』という概念を擬人化したような人間だから、油断は出来ない。
「すみません。峰子さん、こちらの方は、どなたですか」
峰子さんにそう尋ねると、彼女は一度目を見開いてから、その方を俺に紹介してくれた。
「やあねぇ司くん。昨日、引ったくりから彼女を助けたんでしょ」
くつくつと笑いながら、そう言う峰子さん。彼女の言葉に触発されて、俺はもう一度彼女を眺める。なるほど。言われてみれば確かに、そう、見える。確かに昨日のあの人だ。しかし、この格好で気付けという方が無理な話ではないか。
「彼女、名前はノナさんっていうらしいわよ。昨日のお礼と、『お話』があるそうで」
「司さん、名乗るのが遅れてしまって申し訳ありません。ノナ、と申します」
――いろいろと言いたい事もあるが、兎に角、彼女が家に来てくれたのは、好都合だった。鞄も返さねばならないし。
と、そこで峰子さんが立ち上がり、両手を一度打ち合わせる。
「ま、とりあえずご飯にしましょ。ノナさんも食べていくでしょう」
提案と質問。
「いえ、流石にそこまでは」
あつかましい、といった具合に遠慮するノナさん。しかし峰子さんは軽く首を横に振る。
「いいのよ。三人分作るも、四人分作るも似たようなものだし」
そう言って峰子さんは、台所へと向かった。居間には俺たち三人が残される。
場を支配する沈黙。そこに響く茶をすする、音。
「えっと、よく、家が判りましたね」
「司さん、昨日、名乗られましたからね」
「ええ、まぁ」
「そういう事です」
どういう事ですか。普通、名乗っただけの相手の家は、判りません。電話帳にも載せてない筈だし。
「 」
何かを訴える恵理香。
彼女は立ち上がると、椅子を運び、俺の隣に腰を下ろした。四つあるテーブルの辺。その一つを俺たち兄妹二人が同時に占拠している形になる。
「仲が、宜しいのですね」
皮肉気に微笑むノナさん。相対的に見れば(絶対的に見ても。つまり、どう見ても)、彼女から距離を取った事になるのだから、何かしら思うところがあるのかもしれない。だがしかし、初対面の人間に懐け、という方がそもそも無理な話だ。俺も小さい頃は人見知りする性格だったらしく、親戚の集まりでもあまり他人に懐かなかったらしいし。
「ああ、あれ、取って来ましょうか」
そこで俺は思い出す。荷物を早めに返しておいたほうがいいかもしれない。彼女だって今日は恐らく、それを取りに来たんだろうし。
「あれ、とは何ですか」
「ハンドバッグですよ。――それと、勝手に中を見させて頂きましたけど、クリアファイルも、です」
「いえ、要りません。言ったでしょう、差し上げる、と」
「そうは言ってもですね、あのバッグだって高いものでしょうし」
「カバンは中身に比べれば、価値なんてまるで無いに等しいのですけどね――まぁ、どうしてもというなら、バッグは受け取りましょう。しかし【ぼうけんのしょ】は貴方に受け取ってもらいます」
「なんでそんなに意固地になるんですか。それに【ぼうけんのしょ】ってあのファイルの事ですよね。あれ、何に使うかもさっぱり解かりませんでしたよ」
「でしょうね」
そこまで言うと、ノナさんは一度言葉を切り、こう、宣言した。
「今日はその【ぼうけんのしょ】の使い方について、貴方に教えに来たんですよ」
ここまでの会話で俺が感じたのは、「もしかしたら、ノナさんって、――ゴニョゴニョ――な感じの人なのかなぁ」って事だった。
昼食の焼きうどんを食べた終えたノナさんとともに、二人で俺の部屋へと向かった。恵理香もついてきたがってはいたが、リビングで待っていてもらう。
部屋へ入ると、俺は片隅においてあったハンドバッグを「はい」とノナさんに渡す。彼女は中身を取り出し、俺に「はい」と返してきた。どうやら、梃子でも譲る気は無いらしい。
「では、使い方を説明しますね」
ノナさんはベットに腰掛け、そう切り出した。俺は彼女に向かって、疑惑の視線を向けてみる。
「ところで、割り箸はありますか。あと、ライター。説明に使いたいのですが」清々しいほどの無視。
……おーけー。解かった。どうしても説明をして、俺にその【ぼうけんのしょ】とやらを押し付けたい、らしい。こうなったら、もう、とことん付き合うしかないだろう。彼女の目的も、行動理由も何もかも不明なままだが、半ばやけくそ気味に、俺は彼女の説明を聞くことを決意する。
自分の鞄の中のコンビニ袋から、割り箸を取り出して、彼女に差し出す。そしてポケットからライターを取り出して、同様に。
「あら、ライターをポケットから取り出すなんて、意外と不良なんですね」
「別に、煙草を吸いたくて持ち歩いている訳では、ありませんよ」
「でしょうね。煙草の匂いがしませんから。では司さん、その割り箸に、名前を書いて頂けますか」
筆箱からサインペンを取り出し、言われた通りに割り箸に自分の名を、記す。不安定なためか地震のときに書いたように振動している、ミミズがのったくったような『つかさ』という字を彼女に見せた。
「これでその割り箸は、世界でただ一つの割り箸となったわけですね」
ノナさんは、カードにサインさせたマジシャンのような科白を言う。俺はその言葉に「はぁ」と曖昧な返事を返した。別にサインを書く前だって世界で唯一つの割り箸だろう。他の物と見分けがつくかどうかは別として。
「では、次にこの紙を使います」
ノナさんは【ぼうけんのしょ】から、あの使用用途のよく解からない紙を一枚取り出すと、を俺に渡した。
「中央に、記入欄がありますね。そこに未来の時刻を――今はなるべく早いほうがいいので、今から一分後の『十三時十五分』にしましょう。そこに今日の日付。そして『13:15:00』と書いてください」
言われたとおりに書く。
「書いたら上にある1~3の数字、どれでもいいので丸で囲んで下さい」
言われた通りに囲む。
「では、その時間まで、待ちます」
紙を置いて、俺は床の上に正座をして、待つ。胸の奥から湧き上がる、「俺、何やってるんだろう」という疑問を、必死で押し殺して。
僅か四十秒程度でも、ただ待つ、という作業は、結構な長さを感じるものだ。
部屋の時計の秒針に注目する。
『10』の文字を通り過ぎ、『11』の文字も通り過ぎ、
やがて、
それが
『12』の文字と、重なった――
「はい。これでセーブが完了しました」
ノナさんが、俺の手にしている紙を指差す。それにつられて俺も紙に目を落とす、と、その変化に気付く。
「あれ、こんな判子、押して無かったですよね」
そうなのだ。俺が書いた時刻の上に、被せるように、少し傾いて、赤い《SAVE》の文字が浮き上がっていたのだ。
彼女が、押したのだろうか。いや、俺がずっと持っていた訳だし、それは、無い。
と、いう事は始めから、浮かび上がるような仕掛け、が、この紙に施されていたのだろう。
「では、先ほどの割り箸。これを『折って』ください」
そういって割り箸を俺に差し出す。『割って』ではなく、『折って』なのか。俺は一旦割り箸を二つに割り、さらに折った。これで割り箸は四分割された事になる。『つかさ』の文字も左右に真っ二つと、なった。
「はい。大丈夫です。効果を解かりやすくするために、また五分ほど、待ちます」
またですか。それも今度は、五分。
「その前に、ロードの手続きを済ましておきましょう。紙の下部に線がありますね。そこに司さん。あなたのフルネームを、お書きください」
この線は、名前を書くためのものだったのか。要求通りに俺は『時田司』と、名前を書いた。
これでこの紙は上の方に印刷された数字が丸で囲まれ、中央の欄には今日の日付と時刻。下部には俺の名前が記載された状態と、なった。
ここまで来ても、この紙を何に使うのか、とんと見当がつかない。
いや、まぁ、勿論、性質の悪い悪戯の可能性が高いが。
ふと、目線を前にあげると、ノナさんが俺をじっと見ている。――そう表現すると、好意的な印象を受けるが、実際には、なんといったらいいのか、動物園の白熊を見る目、いや、蛙の解剖を見る目、というのだろうか。そんな感じが、した。
「そういえば、ノナさん」
流石に五分間も黙ったままでいるのは、俺の神経が、持たない。適当な世間話でも、持ち掛ける事にしよう。
「なんでしょうか」
「ノナさんって、普段は何をやってる人なんですか」
「秘密です」
秘密と来たか。
「ああ、でもこの説明が終わった後には、お話しますよ。“百聞は一見に如かず”と言いますから。今、私がここで何かを言っても、無駄に貴方の猜疑心を高めるだけですから、ね」
もう既に猜疑心はマックスですよ。――とは、当然、言わなかった。
「さて、五分経ちましたね」
結局そのあとは、特に話もせず、ほとんどど黙ったまま、過ごした。かなり気まずかった。
「ではこれで、最後です。司さん。ライターと、今記入した、その紙を持って、庭へ向かって下さい。そして私が合図をしたら、その紙を燃やして下さい」
最後の要求は、かなり注文が多いな。彼女を一人にすることに僅かな不安を感じたが、もっとも、この部屋に盗って得するものなど無いだろうから、要求通りに、外へと向かう。
庭に出る途中、恵理香が俺に気付いて、付いて来る。シャツの端をぎゅっと捕まれてしまったので、振り払うなどと無下に扱う事は出来なかった。二人で、庭へと出る。
まるで森の様な景観を持つ、庭。
その中央に俺と恵理香は立ち、俺の部屋の方を見上げる。
その窓からノナさんが、顔を出して、こちらを確認した。
「はい、大丈夫です。燃やして下さい。ところで司さん、今、何時何分ですか」
言われて、俺は自分の腕時計で時刻を確認する。十三時二十一分、三十秒を少し回ったところだった。
答えようとして、再び視線を戻すと、ノナさんは、もう、部屋に引っ込んでいた。
「何なんだよ、本当に」
そう独り言ちる俺を、恵理香が不思議そうな目で見てくる。
しかし、燃やせとの合図が出たのだ。さっさと燃やして、部屋へと戻ろう。
そう考えて、
俺は、
ライターで、
紙に、
火を点けた。
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