Hygge 〜あるいは貝紐ではなくてよかったという気持ち〜
猫路地は何も言わなかった。
いつもなら騒がしい奴が、何も言わなかった。
でもそれは一般的に静寂を意味する「何も言わない」とは少し違う。
いうなれば当社比というやつだ。
確かにいつものような騒ぎは起こしたし、行動だってうるさかった。
だけれども、隣にある熱は何も語らず、ただ「ここにいる」という事実だけを私の肌に綴っていた。
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「貝はどうして貝にこもるか知ってる?」
バシンと叩きつけられるドアもそろそろ怒りを覚えるくらいの今日この頃、本日もうるさいアイツ、猫路地はやってきた。
本日も天気は雨、だがそれほど強くなくて、音はない。
既に教室にも誰もおらず、静かな時間を堪能したい私としては、この不穏分子はうるさすぎる。
その上、阿呆な質問に脳のリソースを無駄に持っていかれるのも好ましくはない、はず。
特にこんなにもどうでもいい質問ならなおさら。
貝はどうして貝にこもるか?
幼子のような飽くなき探究心に、関心すら覚える。でもそのくらいならスマホで調べろ。
だが、調べずとも答えは決まっている。
防御のためだ。
身を守るために彼らは硬い殻を纏ったのだ。
あんなプヨプヨの体を晒したままでふよふよ海を漂っていれば、食物連鎖の最下層に叩きつけられるのは至極当然。外敵から身を守るため彼らは引きこもっている。
そのくらいわかる。
人が身を守るために布を纏ったのと大体一緒。
ただ、少しばかり殻の中に長居しているだけで。
「防御のためだろ」
「あ〜、そういう見方もあるか」
奴は口元に手を添えて、悩むように眉をひそめた。
「外敵から身を守るための正統な進化だろ。それ以外にあるか」
「いやいや斎岡さん。そんな単純なものじゃないかもしれないじゃないっスか〜」
「じゃあ何があるのよ」
「ネトゲにはまって出てこないとか」
「一族全員引きこもりじゃ生活成り立たねえだろ」
「んじゃあ、株?」
「そんな知能あるなら人類に勝てるだろ」
「斎岡さん、それは貝を買いかぶりすぎだよ」
「うまいこと言ったつもりか?」
「貝は美味しいからしょうがないね!」
初動からすでにうるさい奴に、私はそっぽを向いた。
窓の外に降り続く雨を見て、教室という貝殻に飛び込んできた外敵への対処法がないかと貝に思いを馳せた。
これで奴に裏表がないなんて、私からすれば考えられない。
意味もなくここに現れて、中身のない会話を綴っていく。勝手な奴。
しかし奴はただ本当に、ただ楽しいからこうしているらしく、その天真爛漫なテンションの暴力にため息をついた。
すると、ぽすん、と前の席へ何かが乗せられた。
奴の体重にしては軽すぎる音に目を向ける。
そこには奴の代わりに、いつものリュックサックとも違うパンパンに肥えたトートバッグが置かれていた。
「なにそれ」
「猫路地のトートバッグだよ」
「それはわかるよ。中身だよ」
猫路地は顎に手を当てた。
しかし今回の口元は自信ありげに笑みを浮かべている。
「う〜ん、貝で言えば『貝』がはいっている、かな」
「ちょっと意味が分からない」
「貝でいう貝だよ?」
「だから意味がわからないって」
「貝の貝は貝のことで、貝の貝の方は貝の貝だよ?」
「余計にややこしくするな」
「も〜...噛み砕いて言うならば、貝の貝は貝自身。後者の貝の貝は貝殻のこと!」
「だったら最初から貝殻って言え」
「猫路地ったら噛み砕くの上手〜、さながらクロダイだね」
「別にうまくも何ともないぞ?」
「クロダイが?あ、貝の方」
「君がだよ」
「貝は美味しいもんね〜」
ひとつの話題をやけに引き延ばすクセのある奴は、私のツッコミさえ気にせずにトートバッグに手を突っ込んだ。
すると出てきてものは、茶色い布切れ。
いや布切れどころではない、それはそれは大きな一枚だった。
ゆうに人ひとりは余裕で包めるサイズの薄手の毛布だ。
「こんな季節に毛布って」
「いいでしょ?」
「こんな季節って言ったの聞いてた?」
「でも猫路地のだよ?」
「ああ、うん。そうだね」
「欲しい?」
「いや別に」
「そこまで言うならかけてあげようか?」
「話、聞いてる?」
私が言い終わる前に、猫路地は毛布をマントのように纏うと教室の隅っこ、掃除用具入れのある窓際へととんで行く。
そんな姿をゆっくり目で追っていくと、奴はドヤ顔で丸まった。
まるで歪ないなり寿司。
奴はパタパタと毛布の端を上下させた。
まるで手招きのようなその動きは、明らかに私を誘っている様子だった。
しかしながら私はその手に乗る気はない。
なぜか。
まず第一に暑い。
今は6月。その上梅雨。この蒸し蒸しの空間で毛布に包まるほど阿呆ではない。
汗もかくし健康に悪い。
第二に、近い。
毛布の大きさからして多分一人用。その具材として阿呆が包まっている限り、接近するのは当然のことで、私がそこに割り込めば必然的に奴との物理的距離はゼロ。
それはもはや同席ではなく同化であって、私のパーソナルスペースという独立国家が無血開城することを意味する。
私には、自分の輪郭を明け渡す気なんてない。
そして第三に──、
「斎岡さん」
「んー?」
「ほれほれ」
「んー」
彼女の意図は読み取れない。
毛布をかぶってこちらを見つめて、小さく手招きをするその姿、私は何がしたいのかさっぱりだった。
目線を逸らす。
彼女の姿を見ないように努めたが、視界の端にはパタパタと床を叩く毛布の端が映る。
やはり、さっぱりわからない。
...と、自分を納得させていた。
気づかない振りをした生返事にも、来てほしいという合図はめいいっぱい。
けれどもそれこそが私が近づきたくない要因でもあった。
第三の理由、それは単純で、ただただ恥ずかしかった。
視界の端の茶色が大きく動いた。
私はそれにも気づかない。
だから目線を正面に戻す。
とたとたと、まるでこの世界の汚れも何も知らない子猫のような足音が近づいてきた。
続いて椅子を引く音がして、すぐ真横で止まった。
そして、柔らかな布が背中から右腕までを包んで、左手と頬に人の温かさが伝わった。
「......。」
私は何も言わなかった。
「......。」
猫路地も何も言わなかった。
いつもなら騒がしい奴が、何も言わなかった。
でもそれは一般的に静寂を意味する「何も言わない」とは少し違う。
いうなれば当社比というやつだ。
確かにいつものような騒ぎは起こしたし、行動だってうるさかった。
だけれども、隣にある熱は何も語らず、ただ「ここにいる」という事実だけを私の肌に綴っていた。
雨が強くなったのか、音の鮮明さが増した気がする。
例えようのない甘い香りがした。
遠くで鳴った吹奏楽部の練習音が、薄く耳に残った。
時計の針が一分を刻む震えを、初めて聞いた。
猫路地の熱さが、空気を通さず直に伝わる。
それほど静かだった。
いつもなら耳を傾けるに値しない音たちが、味わったことのない空気が今だけはその存在を主張する。
......いや、そんなことはない。
彼らは何も変わっていないはずだ。
だったら、何が変わったのか?
変わったのは私なのだろう。
さも当然だと思っていた微細なものが、毛布になって私と猫路地を包んでいく。
6月の空気に構わず、この毛布の中だけが今だと言うように。
貝はどうして貝にこもるか知ってる?
奴の素っ頓狂な質問の答えが、今なら少しわかる。
彼らもきっとこうしたい。
こうやって誰かと近い距離で、パーソナルスペースなんて取っ払って、寄り添っていたいのだろう。
だけれども、少し恥ずかしいのだ。
だから貝には、貝がある。
私は少しだけ思った──、
「あっっっっっっっっっっつい!!!!」
「うお!」
「あっつい!むしむしする!」
突然の慟哭とともに、猫路地は毛布を引っ剥がした。
「くわ〜...こんなに暑いと思わなかった。猫路地にとっては毒だよ...」
「自分で蒔いた種だろ」
「あせも出来ちゃうよこんなの...。斎岡さんに触れてたとこなんか痒いし...」
「それは私のせいじゃないだろ!?」
「あー、かいかい。かゆいかゆい」
妙な歌を歌いながら、奴は手提げ鞄の奥を漁る。
そこからはひとつ、しわくちゃになったパッケージが姿を現した。
「斎岡さん。ヒュッゲって知ってる?」
「しらないが」
「んじゃいいや」
「なんだそりゃ」
私の言葉と同時に、奴はしわくちゃのパッケージを破って、細長い薄茶の何かを差し出した。
「...何これ」
「貝ひも!美味しいよ!」
奴はそれを無造作に咥えて、噛みちぎった。
奴にとって、やっぱり貝は貝。ただの食料源に過ぎなかったようで、私は改めて思った。
──私は貝じゃなくてよかった。




