表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR

出来損ない

作者: 間垣解
掲載日:2026/06/01

 畑仕事から戻ると、市蔵は家の周囲を囲む塀のペンキが剥がれているのに気がついた。ペンキは装飾の目的だけでなく、木造の塀が腐るのを防ぐ目的もある。市蔵は、次郎に、次の休みの日にペンキを塗るよう指示した。

 次郎は、えっー、と不服そうな声を上げた。土曜日には小学校の同級生と遊ぶ約束をしているのだという。嫌がる次郎を市蔵はしかりつけた。妻の浅代も姿を見せて「次郎、おまえ、お父さんの言うことが聞けないの」と言った。次郎は口の中でブツブツと呟きながら、「やるよ、やればいいんだろ」と答えた。

 幼稚園に通っている三郎がそのやり取りを聞いていた。三郎は、薄汚れた黒い顔に目だけを光らせて「おれもやる」と言い出した。市蔵は「おまえは刷毛の持ち方も知らねえじゃねえか」と言った。そして、続けて、「おまえなんかが手を出すとめちゃくちゃになっちまう。手を出すな」と言った。

 三郎は、いやだ、いやだ、とぐずった。「おれもやるんだ、絶対やるんだ」

 三郎がわがままを言い始めると手には負えない。市蔵は諦めて手伝わせることにした。「教えてやるから、丁寧に塗るんだぞ。いいか、いい加減に塗ったら承知しねえぞ」

 三郎は、浮き浮きした顔で、「うん!」と喜んだ。悪戯そうに喜ぶ顔を眺めながら、市蔵は、こいつが塗った後はきっと俺が塗り直すことになるんだろう、と思った。

 すると、長男の太郎も「おれもやる」と言った。市蔵は、あわてて、「おまえは体が弱いんだから、やらなくていいんだ。それより早く丈夫になれ」と言った。浅代も「太郎、お父さんの言うことが聞けないの。おまえはだめよ」と言った。それでも太郎は言うことを聞かなかった。どうしてもやるというのである。

 もうすぐ十二月である。木枯らしの吹き付ける季節を迎えていた。腺病質で感受性が強く、小児喘息の太郎が戸外のペンキ塗りなどをすれば、体を壊すのは目に見えていた。それでもやりたいと言う。なんでやりたいのか分からなかった。ペンキ塗りの手伝いなど嫌がるのが普通なのだ。それなのに太郎はやりたいという。なにがなんでもやりたいと我を張る。変な子だなと思った。

「しょうがねえ。少しだけやれ。少しだけだぞ。体調が悪いと思ったら、すぐに止めるんだぞ」

 浅代は強く反対したが、市蔵は押し切った。そして、もう一度、「いいか、少しでも変だったら止めるんだぞ」と念を押した。うん、分かった! と太郎は眼を輝かせ、張り切って答えた。

 土曜日になると、市蔵は三人を連れてペンキ塗りに出かけた。

 古い板塀を塗り直すにはいきなりペンキを塗るのではなく、下準備をしなくてはならなかった。実際には、下準備の方が重要だし、手間暇もかかるのである。古い板塀は傷んでいて、ところどころに破損した木の鋭い先端が飛び出していたから、まず、その先端を除去して安全にする必要があった。それから、塀の表面に付着した泥や埃を払う必要があった。貼り紙の痕が残っていることもあったし、剥がれかけて浮き上がったペンキの膜も剥さなければならないこともあった。

 それから、きちんと塗り直すためには、板塀の表面を掃除して薄い埃の膜を除去し、表面を平らにしなければならない。木の板には木目があって、風雨に晒されている間にこの木目に沿って凹凸が生まれるから、この凹凸を削って、板塀の表面を平滑にしておく必要もあった。そして、こうして平滑にした板塀の表面に目止め塗料や下塗り塗料を塗り、最後にいわゆるペンキを塗る。きちんと塗り直すためには、そんな多数の工程を踏む必要があることを説明した。

 次郎は熱心に市蔵の説明を聞いていた。次郎だけは経験したことがあったから覚えているはずなのに、一つ一つ確かめるように熱心に耳を傾けていた。長男の太郎は病弱で頼りにならなかったから、次郎は自分が長男の代わりをしなければという責任感と誇りとを持とうとしているのに違いなかった。

 太郎も市蔵の説明に耳を傾けていた。太郎は手伝ったことがないはずだった。太郎は新しい知識と仕事とを隅々まで学び取ろうと緊張して、あがっているようだった。熱を出して寝かされているだけで、何もできなかった今までの長い時間を取り返そうと焦っているようにも見えた。

 末っ子で幼稚園生の三郎は、ペンキ塗りを仕事とは思っておらず、新しい遊びと考えているようだった。三郎は、市蔵の説明にうん、うん、と生返事をしていた。

 市蔵は、とりあえず、箒やブラシを使って、板塀表面の泥を拭い、浮き上がった膜を剥がして除くように指示した。「必ず軍手を使い、素手で板塀に触ってはいけない」と市蔵は言った。「それから、泥がこびりついて落ちなかったり、インキの膜が剥がれにくかったりしたら相談しなくてはいけない。そういうときには軍手をはずしてこすりたくなるかも知れないけど、素手で触っては絶対にだめだ」と強調した。

 板塀表面が一見平らに見えるようになると、そこにペンキを塗るように指示した。板塀表面を磨くことや目止めや下塗りは省くことにした。いわば手抜きなのだが、この古い板塀はもう取り壊してもいいような古いものだし、子供たちにそこまで面倒なことを要求する気にもならなかった。

 市蔵は、三人に刷毛の握り方を教えた。それから、ペンキの付け方と量、塗り方についても細かく説明した。三人の顔を見ると、次郎は相変わらずしっかりと耳を傾けていたし、三郎は三郎で楽しくて仕方がないというやんちゃな顔をしていた。

 太郎だけはわずかに上気した赤い顔をしていた。その様子は、今までやりたくてもできなかったペンキ塗りを前にして緊張している姿にも見えた。その一方で、わずかに熱が出て上気しているようにも見えた。市蔵は心配になったが、本人がやりたいと言っているのに、その気持を抑え込んで止めさせることはできなかった。

 ペンキを塗る方法を一通り教えると畑のことが気にかかった。畑には、大根、ジャガイモ、白菜などを植えていたから、その出来具合を確認して、収穫の時期を考えなければならなかった。肥料や水、天候や気温、それに虫がつかないかというようなことも気に掛った。ペンキ塗りも大事だが、畑をおろそかにするわけにはいかなかった。市蔵はペンキ塗りを子供たちに任せて自分は畑に行こうと思った。

 自分が行ってしまった後のことは長男の太郎に仕切らせるべきだった。しかしすぐに思い直した。ペンキ塗りの経験があるのは次郎だけなのだ。だから頼りになるのも次郎だけなのだ。市蔵はその次郎に向って「太郎や三郎が分からないことがあったら、相談に乗ってやってくれ」と声を掛けた。その言葉を聞いた太郎の気持ちや次郎の気持ちが一瞬だけ頭をかすめたが、すぐに忘れて畑に向った。


 三郎には市蔵の説明は難しかった。それに、ばかに長いと思った。ペンキ塗りって、こんなにたくさんのことを覚えなくてはできないのかなあ? 長々と続く説明を聞いているうちに、三郎は飽きてしまった。それに、はじめの方の説明も忘れてしまった。その上、後を次郎に任せて、市蔵はさっさと畑に行ってしまった。はじめはなにをするんだっけ? 板塀の泥を落とすんだっけ? 板塀が湿っていたらどうするって言っていたっけ? あれ? 刷毛はどんなふうに持つと言っていたっけ? ……まあいいや。ペンキ塗りはどうせ遊びだし。ペンキ塗り遊び。ペンキ塗り遊び。

 当初、三郎は人差し指から小指までの四本の指で刷毛の柄を巻くように握った。そして、親指を載せるとひどく持ちにくく、刷毛の先端が思うように動かなかった。逆方向から刷毛の柄を巻くように握ってみると、切腹をするみたいに刷毛の先端が自分の体の方を向いてしまった。次郎に相談すると、次郎は三郎が訊ねることを待っていたかのようにニコニコと顔を綻ばせて教えてくれた。次郎の指導によると、親指と人差し指の間に刷毛の柄をはさみ、人差し指に並べるように他の指を軽く添えて持つのだった。力を入れてはならず、柔らかく持って、刷毛を自由自在に動かせるように持たなくてはいけないのだった。三郎には、そんなふうに詳しく、優しく教えてくれる次兄が頼もしく見えた。

 長兄の太郎を見ると、太郎も持ち方が分からず、三郎と同じようにああやったりこうやったりしながら首をひねっていた。太郎は次郎より二歳上の小学五年生だったが、病気がちで寝てばかりいたから、分からないのは仕方なかった。それに市蔵の説明は下手な上に長たらしくて難しかった。それなのに、太郎は次郎にも三郎にも相談しようとせず、一人きりであれこれ試しているのだった。三郎が次郎に相談すれば次郎はにこやかに丁寧に教えてくれるけれど、太郎が相談すると、次郎は太郎を侮蔑するような顔つきを見せて、それから、いかにもしょうがねえという雰囲気で教えるのだった。太郎はそんな弟に肩身の狭い思いをしているに違いなかった。太郎は誰にも相談できず、自分一人で工夫しようとしているようだった。しかし、そうやっていくら工夫しても次郎と同じ持ち方にはならなかった。そんな太郎の姿を見て哀れに思えた。三郎は太郎の気持ちを傷つけないように気遣いながら、次郎から教えられた握り方をさりげなく教えてあげた。

 それから、次郎のやり方を真似て、板塀に軽く押し付け、隙間ができないように、ムラができないように、慎重にゆっくりと刷毛を動かした。それでも、板塀に付着するペンキの量にはばらつきができて、ある部分ではべったりと厚く、別の部分では刷毛の毛の先端に隙間ができて、白いまま残る部分もできた。

 白い部分ができるとどうしたらよいか三郎には分からなかった。三郎は次郎に相談して、その白く抜けた部分を慎重に狙ってペンキで埋めた。太郎も同じようにどうしたらよいか分からないはずなのに、太郎は次郎にも三郎にも声をかけなかった。そして、おどおどした様子で次郎や三郎の様子をちらちらと盗み見ながら、一人でまごまごしていた。

 そんなふうに三郎も太郎もまごまごとしていたから、ペンキ塗りは一向にはかどらなかった。しばらくすると次郎が時間を気にし始めた。次郎は乱暴に刷毛を走らせたあげく、三郎に向って「今日は友達と約束があるんだ。もう行かなきゃならねえ。早くやれ」と命令するように言った。三郎がむっとして顔を上げると、そのとき、太郎が、けほっ、と咳込んだ。

 次郎と三郎は言い争いを止めて、ぎょっとして太郎を見た。太郎は、けほっ、けほっ、と繰り返した。

 次郎は、病弱な兄に、もうペンキ塗りを止めて、家に戻るようにアドバイスした。太郎は二人の方を振り返らず、固く緊張した横顔を見せて、「大丈夫だ」と答えた。その青白くやせ細った横顔はまるで命懸けの悲壮な決意を固めている兵士のように見えた。そんなふうに厳しい口調で答えてから、太郎はもう一度咳をした。

 次郎が三郎の方を向いて「雨が降って来そうだぞ。今日はこれくらいでおしまいにしねえか?」と提案した。三郎も賛成した。まだ半分も塗っていなかったが、三人は道具を片づけて家に戻った。太郎は不服そうな顔を見せたが、次郎も三郎も太郎の意見を訊こうとはしなかった。

 家に戻って、次郎が母の浅代に事情を説明すると、母は、やっぱり、と言った。

「やっぱり熱を出したんだ。わたしが言ったとおりじゃないか」

 そう言って母はチッと舌打ちをした。それから太郎に向って、

「おまえは体が弱いんだからそれを一番に考えて、無理しちゃだめなんだ。早く丈夫になることを考えた方がいいんだ。それだけを考えればいいんだ」

 それから、母は太郎に安静にして寝ているように言いつけた。太郎は顔に悔しさをにじませながら、それでも口答えせずに自分の部屋に帰って行った。浅代はそんな太郎の顔つきには気がついていないように見えた。三郎は太郎が気がかりだったが、だからといって自分にできることは思いつかなかった。ただ母に従うほかに方法が見つからなかった。三郎は黙って太郎の背中を見送った。


 夜になると、太郎の熱は四十度を超えた。

 熱がある間は眠り込んでいて太郎には記憶がなかった。熱が下がると、暗く音もない空虚な部屋で、一人きりで寝かされていた。あまりにも真っ暗で、天井の木目さえ判然としなかった。なにかを考えたり、空想したりすることのほかにできることがなかった。

 太郎は小学校で習った九九を暗唱した。九九は三年前の二年生のときに教わったもので、病床で何度も繰り返してきたから、ほとんど覚え込んでいた。記憶に怪しいところもあったが、覚えていないところは起きて灯りを点けてテキストやノートを確認しなければ分からないのに、それは禁じられていたから、病床で暗唱できるのは覚えている部分しかなかった。すっかり覚えている部分ばかりを繰り返して復唱するのは新鮮味がなくて詰まらなかった。

 太郎は、ビデオで見たドラマや漫画、あるいは物語を思い返した。ビデオで見たドラマはヒーロー戦隊の話で、勇ましく、ドキドキするものだったが、その時は楽しかったというだけのことで何も記憶に残らず、ストーリーも覚えていなかった。

 太郎くらいの年齢の子供が活躍するアニメもあった。主人公は学校の成績は悪いけれど明るく遊び好きの小学生で、いつも窮地に陥るのだが、その度に未来から来た友達が科学の成果を駆使して解決する。描かれた世界は身近なもので共感できる場面も少なくなかったが、主人公はいつも元気に飛び回っていて、暗い病室で一人きりで寝かされている孤独な場面はなかった。その主人公みたいにいつでも元気に遊んでいられたら毎日が楽しいだろうな、と羨ましかった。他にも子供を主人公とするアニメはたくさんあったが、どのアニメでも主人公は元気で活発でいたずら好きな子供で、病弱でいつも寝かされている主人公なんて一人もいなかった。

 太郎のこころに強く響いて忘れられない話は、戦争下でドイツに占領されたフランスの小さな村の物語だった。占領下のこの村ではドイツ語で話すことが強要された。小学校でもドイツ語の授業が始まった。小鳥たちもドイツ語で囀るのに違いなかった。主人公は優秀で成績もよい女の子だったが、ドイツ語にはなじむことができなかった。主人公は同級生の前でドイツ人の代用教員から激しくしかられ、陰に隠れて声を忍ばせて一人きりで泣いた。相談できる相手もおらず、愚痴を聞いてくれる相手もいなかった。一人きりでむせび泣くそのシーンを何度も思い出して、思い出すたびに一緒に泣いた。

 治って小学校に登校するときのことも想像した。学校に行っても、あのフランス人の女の子のように一人ぼっちなんだろうな、と思った。情けなかった。

 友達と遊ぶことは想像できなかった。病気がちで休むことが多い太郎には親しい友達ができず、小学校でも一人で過ごしていることが多かった。一緒に遊ぼうと約束してもその約束を守れないことが多かったから、友達と約束することもなかった。登校しても勉強や遊びのことで太郎に声を掛ける同級生はいないだろうと思った。自分が休んでいてもそれを気にかける友達が思い浮かばなかった。

 ペンキ塗りのやりかたについて父の市蔵は詳しく、丁寧に説明してくれた。とても詳細で、父のほかにこんなに詳しく教えてくれる人はいないだろうと思った。

 しかし、言葉で説明するのと実際にペンキを塗るのとは違うだろう。父にはそばにいて相談に乗って欲しかった。それなのに、父は説明するだけで、畑仕事に戻ってしまった。父が行ってしまってから刷毛を握ろうとすると、どうやって握ればよいのか分からなくなっていた。刷毛は以前から使用している古いものだったからその先端が不揃いなのだが、そんな刷毛を使用して均一にペンキを塗るためにはどうしたらいいのか分からなかった。刷毛を板塀に押し付けるときの力具合も分からなかったし、刷毛を滑らせるのもどうしたらよいのかも分からなかった。そんな具体的で細かなことの一つ一つが太郎には分からなかった。

 市蔵も専門家というわけではないのだから、そんな細かいことがきちんと分かっているとは思えず、適当にやっておけばいいような気がした。しかし、市蔵は、素手で塀に触ってはいけない、と言った。理由を説明しなかったが、絶対に素手で触ってはいけない、ときつく言い渡した。そうすると、他にもやってはいけないことがあるのかも知れない。適当にごまかしておけばいいことと、注意しなければいけないことの区別さえ分からなかった。

 分からないことは大量にあった。市蔵は詳しく説明してくれたが、それでも、実際にペンキを塗ろうとすると相談したいことはその何倍もあった。それなのに、市蔵は、相談に乗ってくれることなく、畑仕事に戻ってしまった。

 弟の次郎は何度もペンキ塗りを経験しているから、細かなことは次郎に訊けばいい、と市蔵は考えていたのかも知れない。なるほど次郎はしっかり者で、しかも、質問すれば丁寧に教えてくれた。しかし、次郎は、本当は弟の自分の方が兄の太郎より偉いんだという傲慢な雰囲気をさりげなく見せて――もしかすると、兄貴は寝ているばかりの役立たずで、自分はその代わりにいろいろなことをやっているから、自分の方が何でも知っているし、何でもできるし、父や母や三郎からも信頼されているんだ、というようなことを、言外に見せつけようとしているのかも知れなかった――そうして、その上で教えてくれるのだった。そんな弟の顔色を窺いながら、肩身の狭い思いで教えを乞うのは悲しかった。次郎などに相談せず、だれにも頭を下げず、自分の力だけでやりたかった。

 ペンキ塗りができないだけならたわいがない。気にする必要もないだろう。しかし、ペンキ塗りだけではなかった。太郎は何ごとにつけても次郎に敵わなかった。こころの奥でびくびくとおびえながら弟の次郎に教えを乞わなければ何もできなかった。長男なのに、兄弟の中で一番の年上なのに、弟の次郎の顔色を窺わなくてはなにもできないのだ。

 翌日は日曜日だった。朝には熱は下がったが、再び発熱する心配があった。

 さあ、行くぞ、と言う市蔵の声が聞こえた。その声を太郎は暗い部屋の寝床の中で聞いた。市蔵は「今日は俺も一緒に塗るから、二人とも怠けるんじゃねえぞ。しっかり塗れよ。全部塗るんだぞ」と言った。返事する次郎と三郎の声が聞こえた。それから、靴を履いてがたがたと出掛ける物音がした。三人でペンキ塗りに出かけたのだろう。熱から冷めた体はみんなと一緒にペンキ塗りをしたがっていて、妙にむずむずと疼くような気がした。

 今日は父の市蔵も一緒だから、三郎は分からないことは市蔵に相談することができるだろう。刷毛の握り方はもちろん、ささくれだった板の先端に塗る方法も、でこぼこの板塀の上端に塗る方法も、事細かに指導を受けることができるだろう。もしかすると、三郎はペンキ塗りのやり方をすっかり身に付けてしまって、自分は幼稚園児の三郎にさえ敵わないようになるのかも知れない。

 次郎や三郎と同じように自分もペンキ塗りをやりたいと思った。自分が確かに生きていると実感するためには、どうしてもペンキ塗りをやらなければならないような気がした。だれの力も借りずに自分一人の力でやりたかった。そうでなければ気が狂ってしまうようだった。

 ペンキ塗りだけではなかった。畑仕事もやりたかったし、炊事の手伝いもやりたかった。毎日きちんと学校に行って、友達と一緒に勉強もしたかった。山登りも水泳もしたかった。自転車にも一輪車にも乗りたかった。

 やりたいことは山のようにあった。父や母の言うように丈夫な体になったらなんでも好きなことができるのだろうか。丈夫な身体さえあれば、次郎のように、十一月末の寒い日でも小学校の友達と遊ぶ約束ができるのだろうか。早く丈夫になりたいと思った。飢えるように丈夫になりたいと思った。

 三人が出かけてしまうと、自分一人が取り残されるような焦りを感じた。この世の中のどこにも人がいないかのようにシーンと静まり返った。その静かで空虚な暗闇の中で太郎は一人きりで寝かされていた。心細かったが、その心細さを打ち明ける相手もいなかった。

 家族から仲間外れにされて、ただ待っているだけの長い時間が過ぎると、がたがたと物音がして、父の市蔵と次郎、三郎の三人が戻ってきた。市蔵は埃に汚れた手足をすすぐと、汗臭い体のまま太郎の枕元にやってきて、体調を尋ねた。「大丈夫だよ」と答えると、市蔵は「無理をするんじゃねえ。ゆっくり休め」と無骨な声で言った。

 市蔵の後ろから三郎がペンキで汚れた顔を見せた。三郎は、ペンキ塗りがすっかり終わったことを太郎に報告した。もうペンキ塗りのことを心配する必要はないよ、と三郎は言った。完璧に塗ったのだと言う。ムラなんか全然ないのだと言う。

「にいちゃん、すげえだろ。どうだ、やったね」と三郎は鼻高々にピースサインを出してみせた。その頭を市蔵が小突いた。

「ばかたれ、おめえが塗ったんじゃねえ」

 三郎は、痛てッ、とおどけて見せた。

 三郎は太郎を笑わせて励まそうとしているのに違いなかった。太郎はそれを有難いと思ったが、その一方で、自分が幼稚園児の三郎からも同情される存在なのだと考えずにはいられなかった。みじめで悲しかった。同時に、三郎の優しさに素直に応えられない自分がひねくれていて、ひどく醜いようにも感じられた。

 自分の気持ちをうまく整理することができなかった。三郎のおどけた姿に笑うこともできず、嘆くこともできず、どうしたらよいのか分からずに、ただ固い表情で唇を噛み締めた。

 市蔵はそんな太郎を眺めて怪訝そうに首を傾げた。しかし、市蔵が口に出して何かを言うことはなかった。

 太郎が寝こんでいる部屋に次郎はついに姿を見せなかった。姿を見せないことが、病で寝込んでいる兄に対する優しさのような気がした。他方で、何もできない兄に対する憤懣のような気もした。


 太郎は小学校のおよそ半分を休んだが、中学校に入ると少しずつ丈夫になっていった。熱を出すこともなく、学校を休むこともだんだん減って、高校に入学するころにはほとんど休むことがなくなった。頑健というわけにはいかず、貧相な体格はそのままだったし、スポーツも相変わらず苦手だった。成績も下から数えた方が早いような有様だったが、普通の高校生と同じようにきちんと高校に通って、高校生活を満喫しているように見えた。朝元気に登校する太郎を見送った後、浅代は昔を思い出してふと涙ぐむことがあった。こんな日が来ると思ったことがなかった。夢のようだと思った。

 あの頃、浅代は太郎のことを一番心配していた。次郎や三郎はどうでもいいというわけではなかったが、太郎の身体のことがなによりも気にかかった。次郎はしっかりしていたし、三郎はやんちゃだけれど元気で友達も多かったから、心配は要らなかった。しかし、太郎だけは青白い顔をして貧弱な虚弱体質で、小学校の授業が終るとどこにも寄らずに帰宅して、そのまま家の中でおとなしくテレビを見たり、本を読んでいたりして過ごしているだけだった。その小学校さえ、およそ半分を休むような有様だった。そんな太郎の様子にはいつも気を配っていたのだが、それでも気が付くと太郎はゼイゼイと喉を鳴らしていた。

 太郎が喉を鳴らすと、夜になってたいてい高熱を出した。夜半になると、ウーウー、というような、言葉にならないうめき声を洩らすのだった。その時刻には市蔵も眠ってしまっていて、うめき声を聞いているのはいつも浅代一人で、当の太郎でさえ自分のうめき声を聞いたことがないのに違いなかった。朝方が近づくと太郎はすっかり眠り込んで、うめき声も出さないようになるのだが、それまでの長い時間、浅代は胸がつぶれるような思いを抱えて一人きりで不安と孤独にひたすら耐えるのだった。

 太郎が小学校に入学する少し前、医者が深刻な顔つきで、「残念だけど、この子は大人にはなれないだろう」と言った。医者はその言葉に続けて「今のうちに楽しいことをいっぱいやらせてあげた方がいい」と付け加えた。

 その言葉を聞いた日には、太郎が眠り込んで静まった朝方になっても寝付くことができなかった。不安で不安でたまらず、不安にとりつかれてしまったような思いに苛まれて、頭から布団をかぶり、その布団にしがみつきながら声を殺して泣き続けた。

 医学的知識の乏しい浅代には、太郎のためにできることが限られていた。浅代は栄養のあるものを選んで太郎に食べさせた。脂肪分や炭水化物も大事だが、太郎の貧弱な体格を思い浮かべながら、さかなや肉などのたんぱく質を選んで食べさせた。卵もたくさん食べさせた。安い物は食べさせなかった。次郎や三郎に百グラムいくらの安い肉を食べさせても、太郎には地名のついた国産の高級肉を食べさせた。自分は食べずに我慢して、太郎に高い肉を食べさせたこともあった。

 晴れわたった暖かい日には、部屋に閉じこもりがちの太郎を促して、ポカポカと日差しを浴びながら、太郎と一緒にスポーツをやった。スポーツといっても、野球やサッカー、テニスのような激しいスポーツが太郎にできるはずはなかった。できるのはせいぜいラジオ体操か駆けっこくらいのものだった。そのスポーツともいえないスポーツを、太郎が丈夫になってくれたら、と祈るような気持ちで無我夢中で太郎の相手をした。

 太郎が元気に高校に通うようになると、その成績が気にかかって、市蔵に相談した。すると市蔵に「ぜいたくを言うんじゃねえ。バチがあたるぞ」とたしなめられた。

 そのとおりだと思った。浅代は成績についてとやかく言うこともなく、同級生やそのほかの高校生と比べることもなく、元気に高校に通う太郎をニコニコと笑って見守った。太郎の姿が見えなくなってから、気付くと目に涙が浮かんでいたりした。


 高校二年生の春、太郎は校舎の屋上から身を投げた。遺書はなかった。

 警察から帰ってきた太郎は、今まで見たこともないほど穏やかで安らかな寝顔をしていた。

 警察から帰って来た遺体を見下ろして、浅代は、太郎、太郎、と大声で叫びながら泣き崩れた。

 こんなはずではなかった。自殺するために育てたのではなかった。やっと丈夫になったのだ。これからなのだ。太郎は今までの時間を取り返さなくてはならなかったのだ。これから楽しい人生が始まるはずだったのだ。

 それなのに、太郎はその権利を放棄してしまった。どうしてだろう? と思った。中学生や高校生がビルの屋上から飛び降りて自殺したというニュースはときどき聞く。しかし、自分が巻き込まれるなどと心配したことはなかった。まさか太郎までが‥‥。太郎はなぜ死んだのだろう? どうして死を選んだのだろう? 浅代は繰り返して、どうしてだろう? と自分に問いかけた。

 高校生にもなれば生活空間の範囲は家や高校を含めて大きく広がっていて、浅代が知っているのは太郎の生活のほんの一部に過ぎなかった。しかし、浅代は、小学生だった頃の太郎に感じた違和感を思い出した。あの違和感は太郎の死とは関係ないのだろうか?

 そのとき、太郎はペンキ塗りをやりたがって市蔵や浅代の言うことを聞かなかった。ペンキ塗りなど楽しいはずはないのだが、太郎はまるでそれが一番大事なことであるかのように強硬にこだわったのだった。変な子だと思った。

 もしかしたら、太郎はペンキ塗りができなかったことが原因で自殺したのではないだろうか? ――そんなバカな話はないと思った。それは分かっているのだが、あの真剣な顔つきを思い起こすと、太郎はペンキ塗りができなかったことを思い悩んで、そのあげくに命を絶ったのではないか。どれほど突飛でもそう考えるのが一番自然で正確であるように思えた。

 ペンキ塗りだけでなく、なにごとであろうと太郎は市蔵を手伝ったことがなかった。浅代の家事を手伝ったこともなかった。「太郎を甘やかせるな」と言う知人もいたが、太郎が手伝いをいやがって怠けたのではない。手伝いたいと言ったのだ。しかし、手伝いたくてもできなかった。親が禁止したのではない。病弱な身体が許さなかったのだ。知人のあの言い方は、具体的な事情をなにも知らない部外者の無責任な放言のように聞こえた。

 幼少の頃はひ弱だったという大人は時々いるが、話を聞いても小学校を半分休んだ者などいなかった。野原を飛び回ったり、鬼ごっこをしたりということだってできたようだ。同じようにひ弱といっても太郎は並外れていた。いつもゼイゼイと喉を鳴らして苦しそうな咳を吐き、高い熱を出して室内で寝ているばかりで、外出したことさえほとんどなかっただろう。

 考えてみると、家族の中でも太郎は特別だった。次郎は中学にはいってバスケットボールを始めた。三郎は地元の少年サッカーチームに入ってレギュラーを目指していた。そんな二人はスポーツの話題で盛り上がっていることが多かった。しかし、太郎はスポーツなどやったことがなかったから、二人の会話には入れないようだった。

 次郎と三郎は連れ立ってサイクリングに出かけることがあったが、自転車に乗れない太郎に二人が声を掛けることはなかった。

 一年ほど前の夏には奇妙なことがあった。

 高校に登校する太郎に、手紙を郵便ポストに投函するように頼んだ。ところが、太郎は「ポストってどこにあるの?」と訊き返してきたのだ。

 ここから駅に向かう間にスーパーマーケットがある。そのスーパーの脇の露地を左に曲がって百メートルほど進めば個人経営の小さな郵便局があって、その前には郵便ポストが立っている。

「なによ、それ。たいした寄り道にはならないじゃない。そのくらいやってくれてもいいでしょ?」

 ――いや、そうじゃないかも知れない。と浅代は思い返した。信じがたいことだけれど、家の中で寝かされているばかりだった太郎は普通の子供と同じような教育を受けていなかったから、高校生になっても、自分の住むこの町の地理が十分に頭にはいっていなかったのかも知れない。あの質問は素直な質問で、実際に郵便ポストや郵便局の場所が分からなかったのかも知れない。

 どれもこれも取るに足りないささいなできごとに過ぎなかった。そう思って気に留めなかったのだが、それらがたくさん積み重ねられると、一つ一つのできごととは別の意味が生まれてくるような気がした。

 高校では一体どんな生活をしていたのだろう。高校から帰宅した太郎が友達を連れてきたことはなかった。友達と一緒に遊びに出かける姿も見た記憶がなかった。次郎と三郎は友達からのラインが来ると言ってスマホを手元から離さなかったが、太郎がスマホをいじっていることは珍しかった。太郎は、高校では同級生に溶け込んで、同級生と同じように楽しく過ごすことができていたのだろうか?

 そう考えると、高校の教室の中で、同級生たちから離れて、一人だけでポツンと過ごしている太郎の姿が目に浮かぶような気がした。

 幼い頃に病弱で、普通の子供たちと同じように学んだり遊んだりすることができなかった子供は、成長して丈夫になった後でも、同世代の子供たちが興味を持つことや話題に馴染むことができず、かれらに親しむことができないのだろうか? そんな仲間外れの孤独な生活はいつまで続くのだろう? 死ぬまで続くのだろうか? そんなひどいことがあるのだろうか。

 動くことのない太郎の身体を眺めながら、浅代は、ふと、こいつは何のために生まれてきたのだろうと思った。こいつは神様の手違いで生まれてきた出来損ないだったのではないだろうか。

 出来損ないのこいつには、生まれたときからこの世に居場所がなかったのではないだろうか。身体が丈夫になることを自分は願ってきたが、身体が丈夫になってもならなくても、この世のどこにも落ち着くことのできる場所がなかったのではないだろうか。

 もしかすると、太郎は死ぬことで始めて居場所を見つけることができたのかも知れない。こいつには、死ぬことだけが幸せになれるただ一つの方法だったのではないだろうか。

 そんな考えが頭をよぎる一方で、生まれつき居場所のない人間などというものがいるのだろうか、という疑念も胸に浮かんだ。幸せになるためには死ぬしかない……そんなことがあっていいのだろうか。

 自分は太郎のために精一杯のことをしてやったと言えるのだろうか? 自分にできることはほかになかったのだろうか? 

 普通の子供たちと一緒に泣いたり笑ったりすることができなかった出来損ないの子供たちは太郎のほかにはいないのだろうか? そういう出来損ないの子供たちは成長してからどうしているのだろう? 太郎と同じように自殺するのだろうか? ほかに方法はないのだろうか? 

 さまざまな思いが交錯して乱れに乱れ、堂々めぐりを繰り返して、いつまでもまとまらなかった。

 警察から戻ってきた太郎の顔を浅代は改めてつくづくと見直した。太郎はこの世のなにかから解放されて、何の不安もなく、何の屈託もなく、安心して眠り続けているように見えた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ