9 ありがとう
「ガッ……!?」
ナナシさんは、何が起きているのかわからないようだった。
俺はその足を殴りつける。
全力を振り絞ったためか、再びめきょ、と音がした。
「ガアアアアアアアアアアア!!!!」
獣のようにうめきながら、ナナシさんがのたうち回る。
俺は足元に、水筒のフタを放り捨てた。
こんなことがあるかと思って、部屋で着替えた時に、お茶を入れたフタを、ジャージのポケットに隠しておいたんだ。
ナナシさんはやたらと、俺にお茶を飲ませようとしてきたから、疑って仕込んでいた。
お茶がこぼれないように、慎重に歩いたり、転ばないようにするのは大変だった。不自然じゃないかと、ずっと不安だった。でもそのおかげで、どうにかごまかせるくらいの量が残っていた。
俺は湯呑みのお茶をジャージに吸わせて、代わりに手で隠しながら水筒のお茶を、飲んだんだ。
「イコと約束したんだ。俺は、ヨモツヘグイはしない」
「クソ、死にぞこないが……!! ふざけやがってェ……ッ!!」
「ちょっとナナシさ~ん、何やられちゃってんの~?」
「うっせぇ! 黙ってろ!! こいつらは殺す、俺が殺す!!」
ナナシさんの怒鳴り声が、地下室に反響する。でも足を折ったから、すぐには動けないはずだ。
俺は急いでイコに駆け寄った。
「イコ! 立てる!?」
「……っ、ごめん、サンちゃん……」
イコを起こそうとして、気がつく。
全身が傷だらけだったけれど――特に、右足がだらんと力を失ったまま、動かなくなっていた。
(この足じゃ……走るどころか、歩くことも……)
今、座敷牢の中にはナナシさんがいて、外には彼の仲間が10人近くいる。
俺はナナシさんを人質にとろうと思っていた。でも、歩けないイコを連れて、どこまで粘れるかはわからない。
「サンちゃん、ぼくを、おいて、にげて……」
「嫌だ――それだけは絶対に、嫌だ!!」
俺はイコに肩を貸す。
鉄パイプをしっかりと握り、目を閉じた。
そして、一心不乱に繰り返す。
(俺は座敷牢なんて知らない。俺は座敷牢なんて知らない。俺は座敷牢なんて知らない……!)
ナナシさんは言っていた。
――『嘘を信じさせるには、本当のことに混ぜるのが、一番効果的ですからね』
――『この世界は、観測する君自身の思い込みや意思の強さによって、形を変える』
――『理論上は、この世界では空を飛んだり水の上を歩いたりすることだってできるはずです』
ナナシさんは多分、嘘は少ししかついていない。
だからあの説明は本当だったと――そう信じて、そして、俺は思い込む。
「俺の世界に、こんなものはない!!」
イコを助けたい。
そのためなら俺は、常識だって曲げてみせる。
「俺たちがいるのは、座敷牢なんかじゃなくて――外だ!!」
俺は叫ぶ。腹の底から、心の奥から、全力で。
すると――景色がゆらぎだした。
座敷牢の風景が、ぼやけていく。
「は……? ふざけんな、クソガキがぁ!!」
ナナシさんが、腕だけで這いずって、近づいてくる。
「逃がすわけねえだろうが!!」
大人の長い腕が伸びてきて、俺のジャージをぐっと掴んだ。
「あ、だめ! そこは……!!」
俺は思わず声を上げる。
ナナシさんが掴んだのは、俺がお茶を染み込ませた部分。
そこを大人の握力で掴むと、どうなるか――
――水はけのいいジャージから、お茶のしぶきが、飛び散った散った。
しぶきはナナシさんの顔にかかる。
ナナシさんが怒鳴るために開けていた口の中にも、何滴も。
「は? なんだこれ。うぐ……おい……嘘だろ……!?」
ナナシさんは愕然とする。自分の口に、何の水滴が入ったのか、理解してしまったようだ。
「ふざけんな! なんで俺が! ふざけ――……」
その声は、途中で途切れた。
ナナシさんが、愕然とした顔のまま固まっている。
声が出なくなったんだ。
ヨモツヘグイは動けなくなると――ナナシさん自身が、言っていた。
それが、俺たちが最後に見たナナシさんの姿だった。
「あ……」
ふいに、頬に風を感じる。太陽が真上にあって、眩しさに目を細めた。
地下室じゃない。見回すと、駅に続く道だとわかった。
公民館から近くはないけど、遠くもない。
「イコ、急いで逃げよう! 俺がおぶるから……!!」
俺はイコをかつぐ。
自分よりも身長が高い筋肉質の男の体は、かなり重かった。でも火事場の馬鹿力というんだろうか、俺はその状態で、ゆっくりだけど走ることができた。
駅にたどり着き、駅員室に潜り込んでイコを下ろす。幸い、死者の姿は近くにはなかった。
「すぐに手当するからね! 救急箱とかないかな……」
俺は駅員室の棚を手当たり次第に開ける。
ヨモツヘグイのお茶がしみこんだジャージは、危ないからすぐに捨てた。
「あった!」
救護室とかはない小さな駅だからか、大きめの救急箱を見つけた。
消毒液や包帯を取り出して、手当する。あの人たちが普通に缶詰を食べていたところを見ると、地獄にあるものでも問題なく使うことができそうだ。
「サンちゃん……」
「あごめん、染みた?」
消毒液をかけると、イコが俺の方に右手を伸ばしてきた。
その手が、俺の頭を、ゆっくりと撫でる。
「サンちゃん、よくがんばったねぇ……いいこ、いいこ」
一つしかない黒い目は、俺を優しく見つめていた。
ナナシさんとは違う、心からの優しい目。
「ありがとね、サンちゃん」
「…………ッ!」
俺はぐっと言葉に詰まった。
泣き出しそうだ。
感謝とか、助かった安堵とかで胸がいっぱいで、ぐちゃぐちゃだった。
「お、お礼を言うのは、俺の方だよ」
こらえようとしても、声に涙が混じってしまう。
俺は肩を震わせ、しゃくりあげながら、とぎれとぎれに告げた。
「ずっど、守っでぐれで、ありがどう……っ!!」
ぼたぼたと床を濡らしながら、俺はありがとうと繰り返した。
そんな姿にイコは慌てながら、何度も「だいじょうぶ、だいじょうぶだよ」と言ってくれる。
イコの右目があるはずの場所に、あのくろぐろとした闇が見える。
でも今はもう、恐ろしいとは思わなかった。




