第9話 真相
呪いの構造が、ようやく見えた。
五日間、研究室にこもった。食事はマルテが運んできてくれた。レオンハルトが何度か様子を見に来たが、邪魔はしなかった。扉を開けて、わたしが机に向かっているのを確認して、静かに閉める。それだけ。
術式図を壁いっぱいに広げて、呪いの全体像を描き出した。紫色のインクで本来の術式を。赤いインクで改変された部分を。そして黒いインクで、わたし自身が施した封印の構造を。
三つの層が重なって、一つの術式を形成している。
最も外側は、精霊の森を標的にした侵食型の呪い。霊木の生命力を吸い取り、精霊の居場所を奪う。これが三年前から森を蝕んでいた原因。
中間層は、ここがイレーネの手癖だった。呪いの矛先を「精霊の契約者」に向ける転換術式。森を侵食するだけでなく、契約師であるわたしを通じて、最終的にはわたしの契約精霊ネーヴェに到達するよう設計されている。
イレーネはネーヴェが欲しかった。高位精霊との契約を、わたしから奪いたかった。
そして最も内側の層。わたし自身の封印。
ここで、手が止まった。
封印の構造を読み解くほどに、あることが明らかになっていく。この封印は、呪いの流れ道を変えている。わたしやネーヴェではなく、レオンハルトの方へ。
術式をもう一度見直した。
呪いの本来の設計では、最終的な標的はネーヴェだった。精霊との契約を破壊し、イレーネが新たに契約し直す。それが狙いだった。
もしそれを許せば。契約が破壊されれば、精霊の森を守る手段がなくなる。森が滅べば、ヴィントヘルム公爵領の基盤が崩れる。レオンハルトの領地が。彼の家が。彼の民が。すべてが。
だから三年前のわたしは、呪いをネーヴェに届かせないことを選んだ。自分の身体を盾にして、呪いの流路を塞いだ。
けれど人間の身体が呪いを受け止め続けることには限界がある。だからわたしは、自分の中を通過させた呪いを、少量ずつレオンハルトの守護者の血に流した。守護者の血には精霊力への耐性がある。致死量に至らない程度なら、彼の身体が呪いを分解できる。
苦渋の選択だった。愛する人に毒を流す選択。けれど、ネーヴェとの契約が壊れれば、その毒は何十倍にもなって領地全体を飲み込む。
そしてその封印を維持するための代償として、記憶を差し出した。
レオンハルトを守るために。森を守るために。すべてを守るために、わたしは自分自身を手放した。
◇◇◇
研究室を飛び出した。走った。廊下を駆け抜けて、書斎の扉を叩いた。
「レオンハルト様」
扉が開いた。レオンハルトが立っている。わたしの顔を見て、何かを察したのだろう。表情が引き締まった。
「分かったのか」
「はい」
書斎に入り、術式図を広げた。説明した。呪いの三層構造。イレーネの痕跡。そして、わたしがなぜ記憶を失ったのか。
レオンハルトは黙って聞いていた。顎の筋肉が硬くなっていく。拳が膝の上で握られる。
「イレーネが仕掛けた、と」
「術式の手癖が一致します。学院の研究報告にある彼女の論文、わたしの論文を盗用した、あの論文と。同じ曲線の結び方です」
「……あの女は」
レオンハルトの声が低くなった。怒りが声を削ぎ落としている。
「呪いの代償が記憶だと? 違う」
声が震えた。
「代償は、私の妻の笑顔だ」
その言葉を聞いた瞬間、喉の奥がぎゅっと絞られた。瞬きが増えた。
わたしの笑顔。記憶を失ったわたしは、この人の前で笑えていただろうか。三年間、一度でも。
◇◇◇
夜、一人で精霊の森に入った。今回は迷わなかった。足が道を覚えていた。
ネーヴェが待っていた。銀色の霧が少女の姿を取る。
「すべて分かったのね」
「……ネーヴェ。あなたは知っていた。わたしがなぜ記憶を失ったのか」
「知っていた。でも、あなた自身が辿り着かなければ意味がなかった。わたしが教えたら、それは『思い出す』ことと同じ。封印を弱めてしまう」
精霊の声は静かだった。風の音と混じり合って、森全体がネーヴェの声になっているような感覚。
「三者契約について聞きたい」
「あなたの契約力。レオンハルトの守護者の血。そしてわたしの力。三つが揃えば、呪いの構造そのものを書き換えられる」
「記憶を取り戻す必要はない?」
「ない。呪いを構造から変える。封印を解くのではなく、呪い自体を無効化する」
別の道。記憶を犠牲にせず、レオンハルトを傷つけず、呪いを終わらせる方法。
「レオンハルトは精霊の声が聞こえない」
「だから、あなたが通訳になる。三者の力を一つに束ねるには、あなたの契約力が必要」
わたしは頷いた。
帰り道、ふと思い立って指輪を外した。暗い森の中で、霊木の淡い光に照らして内側を見る。
文字が刻まれていた。小さな、丸い文字。わたしの筆跡。
「忘れても、戻る」
指輪を嵌め直した。手が震えていた。
三年前のわたしは、忘れる前にこの言葉を刻んだ。忘れても、指輪だけは外さないと信じて。いつか目覚めると信じて。
夜空を見上げた。星が滲んで見える。涙のせいだ。
わたしはこの人を愛していた。記憶がなくても、指輪が証明している。わたし自身の言葉で。
森の出口で、レオンハルトが立っていた。外套を羽織って、門の前で。待っていたのだ。一人で森に入ったわたしを。
「……心配した」
「ごめんなさい」
「いや」
並んで邸に向かって歩いた。月明かりが石畳を照らしている。
「レオンハルト様」
「……何だ」
「わたし、三年前のわたしは、あなたを愛していました」
レオンハルトの歩みが止まった。振り向いた顔は、月明かりの下でよく見えなかった。けれど、呼吸が変わった。深く、震えるような息。
「……知っている」
短い言葉。けれど、その声には三年分の重さがあった。




