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白い結婚のはずでした。  作者: 九葉(くずは)


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第8話 別の道

 思い出さないと決めた朝は、不思議と静かだった。


 枕元の銀木犀を眺めながら、ゆっくりと身支度を整える。花弁に触れると、指先に朝露が残った。冷たい。けれど、その冷たさが今朝は心地よかった。


 記憶を追いかけていた日々は、常にどこかが緊張していた。次の断片がいつ来るのか。来たら何が分かるのか。身体の奥で精霊力が蠢いて、記憶の扉を叩いていた。


 今は、それがない。静かだ。空虚ではあるけれど。


◇◇◇


 食堂でレオンハルトと向かい合った。包帯はまだ巻かれているが、顔色は戻っている。黒麦パンを千切る手つきに力がある。


「レオンハルト様」


「何だ」


「わたし、記憶を取り戻すのをやめました」


 沈黙。フォークが皿に当たる音が止まった。


「……そうか」


「あなたに負担をかけるくらいなら、思い出さないほうがいい」


 レオンハルトは窓の外を見た。顎の筋肉が動いている。


「……すまなかった」


「謝らないでください」


「いや。俺が」


 言いかけて、深く息を吐いた。


「……お前が決めたことなら、それでいい」


 それでいい、と言った声が、少しだけ揺れていた。


◇◇◇


 午後、研究室にこもった。


 記憶を取り戻すのはやめた。だが、呪いの構造を調べることまでやめたわけではない。精霊契約の知識は残っている。技術的な記憶は失われていない。


 机の上に術式の図を広げた。ネーヴェから聞いた呪いの断片的な情報を、紙に書き出す。封印の構造。代償の仕組み。記憶と呪いが連動する因果関係。


 三時間かけて、呪いの術式を図に起こした。インクが指先にこびりつく。集中すると食事を忘れる癖がある。窓の外がいつの間にか暗くなりかけていた。


 そして、気づいた。


 呪いの術式の中に、見覚えのあるパターンが混じっている。


 精霊学院で習った基礎的な封印術とは異なる、独特の手癖。術式の接合部に使われている結び方。線の流し方。


 論文で見た。学院時代に。誰かの論文の余白に書き込まれていた、同じ曲線。


 イレーネの手癖だ。


 椅子から立ち上がった。足元がふらついた。長時間座っていたせいだ。


 呪いの術式に、イレーネの痕跡。恩師が、わたしの恩師が、この呪いに関わっている?


 まだ確証はない。術式の一部に似たパターンがあるだけ。偶然かもしれない。精霊学の術式には流派があり、同じ学院で学んだ者なら似た手癖を持つこともある。


 けれど、指の腹が痺れている。あのとき、イレーネが訪ねてきたとき、レオンハルトが見せた硬い表情。「あの人の前で、無理に思い出そうとするな」。あの言葉の意味が、今になって違う色を帯びてくる。


 ノックの音がした。


「奥様、お食事をお取りになっていないと伺いまして」


 マルテの声。ドアが開き、湯気の立つスープが運ばれてきた。山羊乳の、甘い匂い。


「もう、研究に没頭されるのは昔と同じでございますね」


 マルテは呆れたように、けれどどこか嬉しそうに言った。


◇◇◇


 夜。研究室の片付けをしていると、レオンハルトが来た。


 珍しかった。この人がわたしの研究室を訪れるのは、覚えている限り初めてだ。扉の前で一瞬立ち止まり、ノックをして、許可を得てから入ってきた。


 入ってきて、部屋を見回した。壁の術式図、散らかった机、積み上げた本。その目に、微かな光が揺れた。懐かしそうな、苦しそうな。


「……ここは変わらないな」


 独り言のような声だった。


「座ってください」


 椅子を勧めると、レオンハルトは窓辺の椅子に腰を下ろした。しばらく黙っていた。


「フィオナ」


「はい」


「……怖いんだ」


 声が低くなった。低く、静かに。けれど、いつもの感情を殺した声とは違う。殺しきれなかった声。


「お前が、思い出して、あの日のことを知って、俺を恨むんじゃないかと」


 わたしは黙って聞いていた。


「お前が記憶を失ったのは、俺のせいだ。お前は俺を守るために」


 そこで声が途切れた。レオンハルトの拳が膝の上で握られている。関節が白い。


「……それ以上は、今は言えない。まだ」


「言わなくていいです」


 わたしの口から、思いがけず穏やかな声が出た。


「でも、恨んだりしません。たぶん」


「たぶん?」


「記憶がないから断言はできません。でも」


 言葉を探した。正確な言葉が見つからない。


「……この部屋の埃を払い続けた人を、恨む理由がわたしには見つかりません」


 レオンハルトが顔を上げた。灰青色の瞳が、わたしをまっすぐに見た。


 沈黙が長かった。窓の外で、精霊の森が夜風に鳴っている。


「……風が強いな」


 レオンハルトが言った。感情を誤魔化す、いつもの天気の話。


 けれど、その声は少しだけ温かかった。


◇◇◇


 レオンハルトが去った後、術式の図を見直した。


 イレーネの痕跡。呪いの構造。記憶と封印の連動。


 そしてネーヴェが言っていたこと。「契約を書き換える方法がある。ただし、一人では無理。あの人の力が必要」


 記憶を取り戻す以外の方法がある。呪いの構造そのものを書き換えるという方法が。


 まだ何も分かっていない。分かっていないけれど、道がある。行き止まりではない。


 机の上のインクの染みを指で辿った。乾いたインクのざらざらした感触。三年前のわたしがここで研究をしていた痕跡。


 あの頃のわたしなら、きっとこう考えただろう。


 答えが一つしかないなんて、そんな術式は設計が悪い。


 口元が緩んだ。記憶にないのに、なぜか確信がある。わたしは、そういう人間だった。

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