第7話 代償
思い出した。そして、同時に失った。
ネーヴェとの三度目の対話だった。精霊の森の中心、古い霊木の前。銀色の霧が少女の形を取り、わたしの前に佇んでいる。
「もう少し深く。あなたの記憶の奥に、まだ封じられたものがある」
ネーヴェの声に導かれるまま、意識を沈めた。暗い水底に潜るような感覚。精霊力が身体の中を巡り、記憶の層を一枚ずつ剥がしていく。
夜。星が見える。寝室のバルコニーに二人で立っていた。
レオンハルトの横顔。北の空を見上げている。風が強い夜だった。外套を着るほどではないけれど、腕に鳥肌が立つくらいの冷たさ。
わたしの手を取った。
何も言わず、ただ手を繋いだ。彼の掌は硬くて温かかった。剣を握る手だ。けれど、わたしの指を包む力加減は驚くほど柔らかい。
「ずっと隣にいてほしい」
レオンハルトの声。低くて、震えていて、まるで自分自身に許可を求めているような。目はまっすぐ前を向いたまま。わたしの顔を見る勇気がなかったのかもしれない。
わたしは、記憶の中のわたしは、その手を握り返した。
記憶はそこで弾けた。
◇◇◇
目を開けた瞬間、遠くで音がした。
鈍い音。何かが倒れる音。重い。
駆け出していた。森を抜け、邸の廊下を走り、書斎の扉を開けた。なぜ書斎だと分かったのか。足が知っていた。
レオンハルトが倒れていた。
書斎の床に崩れるように。書類が散乱している。椅子が倒れている。彼は片膝をつき、右腕を押さえていた。
袖をまくったその腕に、黒い紋様が浮かんでいた。
樹木の根のように枝分かれした線が、手首から肘に向かって広がっている。呪いの兆候。精霊学の知識がそう告げた。頭は覚えていなくても、訓練された目が反射的に診断を下す。
「レオンハルト様っ」
駆け寄った。膝をつき、彼の腕を取った。紋様は冷たい。指で触れると、氷に触れたような感覚が走った。
「……大丈夫だ」
レオンハルトが顔を上げた。蒼白な顔。額に汗が浮いている。それでも、わたしの目を見て「大丈夫だ」と繰り返した。
嘘だ。大丈夫なわけがない。
ネーヴェの声が頭の中に響いた。遠くから、森から。
「あなたの記憶が代償。思い出すほど、封印が解ける。封印が解ければ、呪いがあの人を蝕む」
世界が傾いた。
わたしが記憶を取り戻すたびに、封印が弱まる。封印が弱まると、呪いがレオンハルトに向かう。
つまり。
思い出すほど、この人が死に近づく。
◇◇◇
マルテが呼んだ医師がレオンハルトを診ている間、わたしは廊下に座り込んでいた。
壁に背をつけて、膝を抱えて。
思い出したい。あの夕暮れの続きを。あの夜の続きを。「ずっと隣にいてほしい」の、その先を。
駄目だ。思い出したらあの人が。
でも。わたしの三年間は。わたしの記憶は。
違う、違う。あの人が生きていればいい。生きていれば。
本当に? 本当にそれだけで? わたしは自分の記憶を全部差し出して、この人の隣で空っぽのまま笑えるの? 笑えるのかと聞かれたら。聞かれたら。
分からない。分からない。考えがまとまらない。一つの答えを出す前に、次の問いが喉を塞ぐ。
術式の解析ができるはずだ。呪いの構造を調べれば、別の方法が。
でも、記憶が足りない。記憶を取り戻せば構造が分かるかもしれない。けれど取り戻せば。
堂々巡り。出口がない。
書斎の扉が開いた。医師が出てくる。「ご安静になさるべきです」と頭を下げて去っていった。
中に入ると、レオンハルトはソファに横になっていた。右腕に包帯が巻かれている。紋様を隠すためだろう。わたしの顔を見て、起き上がろうとした。
「横になっていてください」
「……すまない」
また、その言葉。謝ることで距離を取る癖。
わたしはソファの横に膝をついた。レオンハルトの顔を覗き込む。蒼白だった顔に、少しだけ血の色が戻っている。
「大丈夫だ」
三度目のその言葉を聞いたとき、身体が先に反応した。
涙が出た。
唐突に。前触れもなく。目の奥がじわりと熱くなって、次の瞬間には頬を伝っていた。止められなかった。止め方が分からなかった。
記憶にないこの人のために。名前と顔と、わずかな断片しか知らないこの人が「大丈夫だ」と嘘をつくたびに、身体の奥底から何かが噴き出す。制御の仕方を知らない。
「なぜ泣く」
レオンハルトの声が、かすれていた。
「……分からない」
本当に分からなかった。頭は理由を知らないのに、身体だけが泣いている。
レオンハルトの包帯の巻かれた手が、わずかに動いた。わたしの頬に伸びかけて、途中で止まった。触れることを、自分に許していない。
◇◇◇
その夜、わたしは決めた。
記憶を、取り戻さない。
これ以上思い出せば、封印が解ける。呪いが進行する。レオンハルトが倒れる。
だから、止める。
夕暮れの散歩も。星空の下の手も。「ずっと隣にいてほしい」の続きも。全部。
ベッドの上で指輪を見つめた。内側の凹凸。まだ読めていない文字。
読みたかった。読んだら、また一つ思い出してしまうかもしれない。
指輪を外さなかった。外せなかった。
枕元の銀木犀が、暗がりの中でほのかに香っていた。明日もこの花は届くのだろう。わたしが思い出すことを止めても、あの人は花を摘み続けるのだろう。
嬉しいはずの記憶が、こんなに痛いなんて。




