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白い結婚のはずでした。  作者: 九葉(くずは)


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第6話 迷子と笑顔

 一人で行ける。そう思ったのが間違いだった。


 精霊の森は、入り口までは覚えている。門を出て、石畳の道を北に十五分。霊木の銀色が見えたら、獣道に入る。ネーヴェに会いたかった。聞きたいことが、まだたくさんある。


 ところが獣道に入って五分もしないうちに、右に曲がるべきか左に曲がるべきか分からなくなった。


 苔の生え方が左右で違う。北向きの面に多いはずだから。いや、そもそもどちらが北なのか。木の影の角度で判断できるはずだが、霊木は独自の光を放っているせいで影が二重になる。精霊力の粒子が空気中に漂っていて、方角を示す鉱石の針すら狂うのだ。


 言い訳にしかならない。精霊契約師のくせに、精霊の森で迷子。


「……わたし、前もこうだったのかしら」


 独り言が漏れた。足元の倒木に腰を下ろす。焦っても仕方がない。ネーヴェに念話で助けを求める手もあるが、契約が半減状態の今、不用意に精霊力を使うのは避けたい。


 足元に、見慣れない苔が群生していた。薄い紫色で、霊木の根元にだけ密集している。触ってみると、微かにひんやりとして、湿っている。精霊力を吸って育つ種類だろうか。


 つい、しゃがみ込んで観察してしまった。茎の断面を指で潰すと、甘い匂いがする。この苔、薬効があるかもしれない。ポケットに手を入れて採取用の袋を探す。当然、持っていない。研究者の性分だけ残って、道具は持たずに森に入る間抜けさ。


「フィオナ」


 頭上から声がした。


 顔を上げると、レオンハルトが立っていた。息が少しだけ上がっている。走ってきたのだろう。外套の裾に葉がついている。


「……また迷ったのか」


「また、ということは、前も?」


「月に一度は」


 その言葉を聞いた瞬間、レオンハルトの口元が動いた。


 笑った。


 ほんの微かに、唇の端が持ち上がった。目元の皺が和らぎ、灰青色の瞳に光が差す。笑い方を知らない人の、不器用な笑顔。


「なぜ笑うんですか」


「……いや」


 レオンハルトは顔を背けた。耳の先が赤い。


「前と同じだ。苔を見つけると、すぐしゃがみ込む。方角など忘れて」


 前と同じ。記憶を失くす前のわたしと、同じ。


 後頭部がじんと温かくなった。くすぐったいような感覚。この人がわたしの方向音痴を笑うのは、たぶん初めてではない。何度もこうやって迷子のわたしを探しに来て、呆れながら迎えに来てくれたのだろう。


「帰るぞ」


「……はい」


 並んで歩き始めた。レオンハルトの歩幅が、わたしに合わせて少し狭くなっていることに気づいた。無意識だろう。身体に染みついた習慣。


◇◇◇


 邸に戻ると、見知らぬ来客があった。


 正確には、見知らぬわけではない。レオンハルトの異母弟、ディートリヒ・クラウス。柔和な顔立ちの青年で、にこやかに微笑んでいた。


「義姉上、お加減はいかがですか」


「ありがとうございます。おかげさまで」


 丁寧な挨拶。穏やかな物腰。けれど、何かが引っかかった。彼の目だ。口元は笑っているのに、目が笑っていない。というのは不正確だ。目も笑っている。ただ、その笑みが顔の表面に貼りついているように見える。


 わたしは人の嘘を目の動きで察知する癖がある。以前の自分がそうだったらしく、身体が勝手に観察を始めるのだ。ディートリヒの目は、わたしと話すとき微かに左上を見る。記憶を探る動き。構えている。


 昼食後、ディートリヒはレオンハルトと書斎に入った。廊下を通りかかったとき、扉の隙間から声が漏れ聞こえた。


「兄上。義姉上の記憶が戻らないほうが、安全ではありませんか」


 足が止まった。


「記憶が戻れば、呪いの封印にも影響が出ます。無理に思い出させて何かあったら」


「ディートリヒ」


 レオンハルトの声は低く、静かだった。感情を殺した声。


「フィオナのことは、俺が判断する」


「もちろんです、兄上。ただ、お身体のことを考えると」


「十分だ」


 沈黙。


 わたしは音を立てずにその場を離れた。


 親切な助言だったのかもしれない。弟として、兄の妻を心配しているのかもしれない。

 けれど「戻らないほうが安全」。その言葉の温度が、おかしかった。心配しているなら、もう少し声が揺れるはずだ。あの言葉には、計算の匂いがした。


◇◇◇


 夜。日記を見つけた。


 研究室の引き出しの奥に、古い革表紙のノートが入っていた。わたしの日記だろう。癖のある丸い文字。精霊の観察記録や、日々の出来事が綴られている。


 読み進めるうちに、一ページだけ異質な箇所を見つけた。


 わたしの文字の下に、別の筆跡で一行だけ書き足してある。角ばった、硬い文字。


「大丈夫、明日も晴れる」


 レオンハルトの字だ。書斎で見た書類の筆跡と同じ。


 日付を確認した。記憶を失った後の日付。三年前の秋。わたしが眠りに落ちた、すぐ後の時期。


 ページを捲った。何日かおきに、同じ筆跡の書き込みがある。


「今日は天気がよかった」


「銀木犀が咲き始めた」


「庭の猫が子供を産んだ」


 どれも一行。どれもささやかな報告。目覚めない妻の日記に、毎日手紙を書いているような。


 ノートを閉じた。


 手が震えていた。インクの褪色具合から見て、最新の書き込みは一週間ほど前。わたしが目覚める直前まで。


 三年間、レオンハルトは眠り続けるわたしの日記に、一行ずつ、世界の様子を書き足していた。目覚めたときに読むかもしれないと。読まれないかもしれないと知りながら。


 窓の外を見た。月が出ている。北の空に星が散っている。


 眼球の裏側がじわりと熱い。身体がレオンハルトの方に傾きたがっている。


 日記を引き出しに戻した。指先に、インクと革の匂いが残った。


 この人のことを、わたしは知りたいと思っている。記憶としてではなく、今のわたしとして。


 それだけは、確かだった。

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