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白い結婚のはずでした。  作者: 九葉(くずは)


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第5話 夕暮れの記憶

 研究室の窓から、夕日が差していた。


 この部屋を見つけたのは三日前のことだ。マルテに案内されたのではなく、廊下をさまよっているうちに辿り着いた。邸宅の東棟、二階の突き当たり。重い樫の扉を開けた瞬間、インクと羊皮紙の匂いが鼻を満たした。


 わたしの研究室らしい。


 書見台の上に、研究途中の論文が広げてある。インクが乾ききった筆が置かれたまま。精霊契約の術式を解説した図が、壁一面に貼られている。


 三年前のまま、時間が止めてある。


 書見台の表面には埃がなかった。本来なら積もるはずの場所なのに。中身には触れず、埃だけを払い続けた人がいる。


◇◇◇


 暖炉の温度。わたしが部屋にいるとき、いつも心地よい温度に保たれている。マルテに聞くと、「旦那様がご指示くださいます」と言った。


 書庫の精霊学の棚に、新しい本が一冊加わっていた。出版されたばかりの研究書。わたしが目覚めて読むかもしれないと、誰かが買い足していた。


 食事に並ぶ料理も、少しずつ変わっている。昨日はパンに添えるジャムが三種類に増えていた。料理長に聞くと、「奥様のお好みを探っております」と困ったように笑った。


 ひとつひとつは些細なことだ。けれど積み重なると、息苦しい。善意が。温かさが。受け止めきれない。


◇◇◇


 夕方、研究室の窓辺に座って外を眺めていたとき、記憶が来た。


 唐突に。前触れもなく。


 夕暮れの森。銀色の霊木の間を、二人で歩いていた。


 レオンハルトが半歩先を歩いている。黒い外套の裾が風に揺れる。わたしはその背中を追いながら、霊木の枝に実がなっているのを見つけた。


 手を伸ばしたが、届かない。つま先立ちになっても、指先がかする程度。


 レオンハルトが振り返った。何も言わず、高い枝に手を伸ばして実を二つ取った。一つをわたしに差し出す。


「……食べてみろ。甘い」


 実を受け取ったとき、指先が触れた。彼の指は冷たかった。でも、実を手渡す仕草は丁寧で、落とさないように、わたしの掌にそっと乗せた。


 笑っていた。


 レオンハルト。あの無表情に見える人が、ほんの少しだけ口角を上げていた。笑い方を知らない人が、精一杯笑おうとしているような顔。


 記憶はそこで途切れた。


 わたしは研究室の窓枠を握ったまま、息を整えた。舌の付け根が酸っぱい。あの夕暮れの空気の温度まで、肌が覚えている。


 白い結婚のはずだった。形だけの夫婦のはずだった。


 なのに、あの記憶の中のわたしたちは。


◇◇◇


 夜。自室に戻る途中で、レオンハルトの書斎の前を通りかかった。


 扉が少しだけ開いていた。灯りが漏れている。足を止めたのは、声が聞こえたからだ。


 レオンハルトの声。独り言。低く、途切れ途切れに。


「……忘れてくれて、構わない」


 息が止まった。


「ただ……隣にいさせてくれ」


 声が震えていた。いつも低くて平坦な声が、微かに、砕けていた。


 わたしは廊下の壁に背をつけたまま、動けなかった。


 泣きそうだ。わたしが。なぜ。


 この人のことを覚えていない。名前と顔と、いくつかの記憶の断片しか持っていない。好きだったのかどうかも分からない。


 なのに、膝の裏に汗がにじんでいる。立っていられない。


 理屈では説明できない。術式の組み立てを間違えたような、辻褄の合わない感覚。鎖骨の下が熱くて、目の奥が滲む。


 泣いてはいない。涙は出ていない。ただ、身体が泣こうとしている。記憶がないのに、身体だけがあの人の声に反応している。


 音を立てないように、その場を離れた。


◇◇◇


 自室に戻って、ベッドの端に座った。


 指輪を見つめる。銀色の環。青い石。内側の小さな凹凸。まだ読めていない文字。


 記憶の中のレオンハルトは笑っていた。今のレオンハルトは、書斎で独り言を呟いている。


 この人は、わたしのことを覚えている。


 当たり前のことだ。記憶を失ったのはわたしだけで、レオンハルトは三年間、すべてを覚えたまま隣にいた。花を活け、暖炉の温度を整え、紅茶の銘柄を指示し、研究室の埃を払い、夜ごと部屋の前で足を止めて。


 覚えていない人間の隣で、三年間。忘れられた側は、どんな気持ちで毎朝を迎えていたのだろう。


 袖口の縫い目を辿った。指先が震えているのは、寒いからではない。


 窓の外で風が鳴っている。北の風。松の匂いと、微かな銀木犀の残り香。


 明日もこの部屋に花が届くのだろう。わたしが覚えていようと、いまいと。

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