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白い結婚のはずでした。  作者: 九葉(くずは)


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第4話 銀霧の杜

 森が呼んでいる、と感じたのは、目覚めてから五度目の朝だった。


 窓の向こうに見える銀色の木立。風が吹くたび、葉が鳴る音がかすかに届く。耳を澄ませると、それはただの葉擦れではなく、何かの声のように聞こえた。


「精霊の森に行きたいのですが」


 朝食の席でそう切り出すと、レオンハルトのフォークが止まった。


「……一人では危ない」


「では、案内していただけますか」


 沈黙が落ちた。レオンハルトは食卓の向こうで何かを考えている。窓の外を見た。また窓だ。感情が動くと、この人は必ず窓を見る。


「……分かった。午後、馬を用意させる」


◇◇◇


 森の入り口に立った瞬間、空気が変わった。


 比喩ではなく、本当に変わったのだ。肺に入る空気の密度が違う。重くはない。むしろ軽い。けれど粒子が細かく、舌の奥に金属のような味がする。


「……つまり、これが精霊力の味」


 思わず口に出していた。レオンハルトが横で足を止める。


「覚えているのか」


「いえ。ただ、身体が知っている感じがして」


 霊木の森だった。幹が銀色に輝いている。通常の木とは明らかに違う。樹皮が滑らかで、よく見ると微かな紋様が浮かんでいた。自然にできたものではない。何かの力が宿っている証。


 ただ、奥に進むにつれて、異変に気づいた。一部の霊木が黒ずんでいる。銀色の輝きを失い、樹皮にひび割れが走っている。葉も枯れかけていた。


「この木……病気ですか?」


「呪いだ」


 レオンハルトの声が低くなった。


「三年前から、少しずつ広がっている。お前が」


 言いかけて、口を閉じた。


「わたしが?」


「……いや。先を急ごう」


 森の奥に進んだ。レオンハルトは道をよく知っていた。迷いなく木々の間を縫い、苔むした岩を避け、倒木を跨ぐ。わたしはその背中を追いかけながら、奇妙なことに気づいた。


 わたしも、この道を知っている。


 足が勝手に動く。次の角を曲がれば小川があることが分かる。その先の岩場に、大きな霊木が立っていることも。頭は覚えていないのに、足が覚えている。まるで何百回もこの道を歩いたように。


「ここだ」


 森の中心に出た。そこに、ひときわ大きな霊木がそびえていた。幹の太さは大人が五人で手を繋いでも足りないほど。枝が天蓋のように広がり、木漏れ日が銀色の粒子を含んで降り注いでいる。


 その幹の前に、霧があった。


 銀色の霧。周囲の空気より冷たく、微かに光を帯びている。ゆらゆらと揺れるその霧が、ゆっくりと形を成していく。


 人の姿。少女の姿。銀色の髪、透き通る肌、瞳のない白い目。


「ようやく来たのね」


 声は耳から入ったのではなかった。頭の中に直接響いた。風の音と、水の流れと、木の軋みが混じり合ったような声。


「あなたは」


「ネーヴェ。覚えていないのでしょう。でも、あなたの身体は覚えている。だからここに来た」


 奥歯の裏側が痺れた。この声を知っている。この気配を。


「あなたは、忘れたのね」


「……はい」


「三年前。あなたは自分で選んだ。代償を払って、あの呪いを封じた」


 自分で選んだ。代償を。


「わたしが、わたし自身が、この記憶喪失を?」


「そう。あなたの記憶が代償。それが契約の対価だった」


 足元が揺らいだ気がした。地面は動いていない。揺れているのはわたしの方だ。


「でも」


 ネーヴェの白い目がわたしを見つめた。表情はない。けれど、声に微かな温もりがあった。


「あなたは思い出そうとしている。それも、あなたらしい」


「……わたしらしい?」


「好奇心が強くて、諦めが悪い。いつもそう。どんなに危険でも、知りたいものには手を伸ばす」


 知らない自分のことを、精霊に教えられている。おかしな状況だ。でも、嫌ではなかった。ネーヴェの言葉は、鏡を覗くような感覚を与えてくれた。


 不意に、別の記憶が差し込んできた。暗い部屋。インクの匂い。机の上に広げられた論文。表紙に書かれた名前が、わたしの名前ではない。「イレーネ・ヴァイス」。


 けれど、中身はわたしが書いたものだ。この数式も、この考察も、わたしのノートにあったもの。なぜイレーネの名前が。


 怒りが胸の底から湧き上がった。理由は分からない。記憶は断片的なのに、感情だけが鮮明に蘇る。奪われた、という確信だけが残っている。


「ネーヴェ。あの人は」


「今は、それ以上踏み込まないで」


 精霊の声が、静かに遮った。


「急ぎすぎると壊れるものがある。あなたの記憶も。この森も」


 振り返ると、レオンハルトが少し離れた場所に立っていた。ネーヴェの声は聞こえないはずだ。精霊の声を聞けるのは契約師だけ。彼はただ、わたしが精霊と対話しているのを見守っていた。


 帰り道、レオンハルトが口を開いた。


「……何を聞いた」


「わたしが自分で記憶を手放したこと。呪いの代償として」


 レオンハルトの歩みが止まった。背中が強張っている。


「お前に伝えたいことが。いや」


 また、途中で止めた。言いかけて、呑み込む。


「レオンハルト様。言いかけたことは、最後まで言ってください」


「……無理に思い出さなくていい。ここにいてくれるだけで」


 そこで声が途切れた。続きがあるはずだった。「いてくれるだけで」の先に。でもレオンハルトは黙って歩き出し、わたしはその背中を追いかけた。


 夕暮れの光が木々の間を縫って、二人の影を長く伸ばしていた。

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