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白い結婚のはずでした。  作者: 九葉(くずは)


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第3話 恩師の影

 お客様ですよ、と言われて、身構えた。


 記憶のないわたしにとって、来客は未知との遭遇に等しい。知っているべき相手を知らない。それがどれほど居心地の悪いことか、この数日で嫌というほど思い知った。


 応接間に通された女性は、五十代半ばだろうか。銀色の髪をきっちりとまとめ、品のいい紫の衣装を纏っている。落ち着いた微笑み。知性的な眼差し。


「フィオナ。久しぶりね」


 親しげな声だった。その声を聞いた瞬間、腰骨のあたりがすうっと冷えた。なぜだろう。この人は、わたしに優しく微笑んでいるのに。


「……申し訳ありません。お名前を……」


「いいのよ。イレーネ・ヴァイスです。王立精霊学院であなたの指導教官をしていました」


 恩師。その言葉に、身体がわずかに反応した。覚えているわけではない。ただ、「精霊学院」と聞いたとき、指先がぴくりと動いた。


「記憶の具合はいかが? 心配していたのよ」


「お気遣いありがとうございます。日常生活には支障がないのですが……個人的な記憶が」


「ええ、聞いています。だからこそ来たの」


 イレーネはわたしの手を取った。温かい手。けれど、袖口を辿るわたしの癖が、止まらなかった。


「あなたの精霊契約の状態を、少し確認させてもらえないかしら。学院の記録と照合したいの。あなたの回復に役立つかもしれないから」


「それは」


「その必要はない」


 声がした。振り返ると、レオンハルトが応接間の入り口に立っていた。いつからいたのだろう。壁に背を預け、腕を組んでいる。


「ヴァイス殿。妻の回復を急がせるつもりはない」


「まあ、レオンハルト公爵。私はただ、教え子の身を案じて」


「お気持ちはありがたい。だが、フィオナの身体に関わることは、こちらの判断で進めたい」


 穏やかだが、隙のない声だった。イレーネの微笑みが一瞬だけ固くなったのを、わたしは見逃さなかった。


 気のせいだろうか。次の瞬間にはもう、柔らかな笑顔に戻っていたから。


「もちろんですわ。焦ることはありませんもの」


 イレーネは持参した焼き菓子の箱を置いて、優雅に辞去した。去り際に「また来るわね」と微笑んだが、その視線が一瞬だけレオンハルトの方に向けられた。あの目は何を計っていたのだろう。


 マルテが紅茶を淹れ直してくれた。焼き菓子の箱を開けると、レモンの香りが漂った。口に入れると、舌の上で甘酸っぱさが広がった。


 知っている味だ。どこで食べたのだろう。思い出そうとすると、こめかみの奥がずきりと痛む。味は覚えているのに、場所が分からない。


「……レオンハルト様」


「何だ」


「あの方を、お断りになったのはなぜですか。わたしの恩師なのでしょう?」


 レオンハルトは答えなかった。ただ、窓の外を見ていた。顎の筋肉が硬くなっている。何かを噛み殺しているような表情。


「……あの人の前で、無理に思い出そうとするな」


 それだけ言って、出て行った。


 残されたわたしは、焼き菓子をもう一つ齧った。甘酸っぱい味が口の中に広がるたび、何かが引っかかる。この味を、暗い部屋で食べた記憶。薄い灯りの下で、誰かと並んで。でも、誰の隣だったのか。そこだけが、靄に覆われている。


 応接間の窓から、精霊の森の方角が見えた。銀色の木立が、午後の光を受けて微かに揺れている。あの森に行けば、何か思い出せるだろうか。


◇◇◇


 その夜、夢を見た。


 いや、夢ではない。記憶だ。


 白い教会。高い天井から七色の光が差している。ステンドグラスを透かした陽光が、石の床に模様を描いていた。香の匂い。甘くて、重い。列席者の衣擦れが、遠い波の音のように聞こえる。


 祭壇の前に立っている。白い衣装が肩に食い込んでいた。重たい。歩くたびにレースの裾が石の床を引きずる音がする。自分の足音だけが妙にはっきり聞こえた。


 隣に、男が立っていた。


 レオンハルト。今より少し若い顔。髪を後ろに撫でつけ、正装に身を包んでいる。正面を見ている。口元は引き結ばれ、冷たい表情。


 わたしも、おそらく無表情だったのだろう。政略婚。白い結婚。形だけの儀式。そういうものだと、分かっていたはずだ。


 けれど。


 誓いの言葉を交わすとき、レオンハルトがこちらを向いた。目が合った。灰青色の瞳。あの深い色。


 冷たいと思った。けれど、よく見ると。


 違う。冷たいのではなかった。


 怯えている。


 何かを恐れるような、何かを失うことを予感しているような。指先がわたしの手を取ったとき、微かに震えていた。硬い指。それなのに、触れ方だけは壊れ物を扱うように慎重で。


 あの人は、何を恐れていたのだろう。


 目が覚めた。暗い天井。耳の後ろが冷たい。


 枕に顔を押しつけた。銀木犀の残り香が、かすかに鼻をくすぐる。


 記憶の中のレオンハルトの目が、瞼の裏に焼きついていた。あれは冷淡ではなかった。冷たく見えたのは、感情を必死に押し殺していたから。


 怯え。あの表情に名前をつけるなら、恐れ。


 わたしは寝返りを打った。毛布の下で自分の身体を抱きしめる。今朝、イレーネの前でレオンハルトが見せた硬い表情。「無理に思い出すな」という言葉。あれもまた、怯えに似ていた。


 あの人は、わたしが何かを思い出すことを恐れている?


 分からない。考えるほど、こめかみの奥が重くなる。思い出せそうで、思い出せない。すぐそこにあるのに、霧に包まれたように掴めない。


 わたしは暗闇の中で、指輪の冷たさを確かめた。金属の表面を親指で撫でる。滑らかで、でも内側にわずかな凹凸がある。


 何か、刻んである。


 暗すぎて読めない。明日、明るい場所で確かめよう。でも、確かにそこにある。指先が辿った微かな凹凸。誰が、何のために、この指輪の内側に文字を刻んだのか。


 もしかしたら、わたし自身が、忘れる前に遺した言葉かもしれない。


 その可能性に思い至った瞬間、鎖骨の下がじんわりと温かくなった。

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