第10話 裏切りと成長
弟は、笑っていなかった。
正確には、笑ってはいた。ディートリヒはいつものように柔和な表情を浮かべ、応接間に座っている。けれど、わたしがこの数日で学んだことがある。この人の笑みは、顔の表面だけで完結している。
レオンハルトが書斎に証拠を広げた。
ネーヴェの証言。精霊は嘘をつかない。三年前、呪いが仕掛けられた時期に、ディートリヒが精霊の森の奥に何度も出入りしていたこと。その時期、イレーネとの間で精霊便のやり取りがあったこと。
そして使用人たちの証言。ディートリヒが公爵邸を訪れるたび、フィオナの研究内容や精霊契約の進捗をさりげなく聞き出していたこと。料理長が「弟君は奥様の日課をよくお尋ねになっていました」と困惑しながら語ったこと。
「ディートリヒ」
レオンハルトの声は低く、静かだった。怒りが声を限界まで削り落としている。
「説明しろ」
「兄上、何のことでしょう。わたしは義姉上のお身体を心配して」
「イレーネ・ヴァイスとの書簡が見つかった。精霊便の記録は精霊が覚えている」
ディートリヒの笑みが、ようやく消えた。
代わりに浮かんだのは、虚無に近い表情だった。諦めとも解放ともつかない、空っぽの顔。
「……そうですか」
沈黙が落ちた。
「兄上は、何もかも持っている」
ディートリヒの声が変わった。柔和さが剥がれ落ちて、硬い声が残った。
「爵位。領地。精霊の森。そして、あの方を」
わたしのことを見た。目が合った。そこにあったのは憎悪ではなかった。もっと厄介なもの。飢えている目。自分にはないものを数え上げてきた人間の目。
「フィオナ義姉上が精霊の森の管理を始めてから、わたしの存在意義はどんどん薄れていきました。商人たちも、領民たちも、わたしではなく義姉上を信頼した。兄上ばかりではなく、兄上の妻にまで」
「だから裏切ったのか」
レオンハルトの声が、さらに低くなった。
「イレーネに情報を流し、呪いの手引きをした。フィオナが記憶を失い、精霊の森が弱っていけば、お前の出番が増えるとでも思ったか」
ディートリヒは答えなかった。ただ、目を逸らした。その横顔に一瞬、幼い男の子の面影が重なった。兄の隣でいつも二番目だった子供の。
◇◇◇
処分は速やかだった。
ディートリヒの領地管理権を剥奪する旨が、その日のうちに通達された。
翌日、商人たちの態度が一変した。ディートリヒが管理していた交易の件で邸を訪れた三人の商人が、レオンハルトに面会を求めた。
「公爵閣下。今後のお取引につきましては、公爵夫人にもお立ち会いいただけませんでしょうか」
「奥方様がいらした頃の取り決めが、一番うまく回っておりました」
「弟君には申し訳ないのですが……正直なところ、帳簿の数字が合わないことが何度かありまして」
レオンハルトがわたしを見た。わたしは頷いた。
◇◇◇
その午後、妹が来た。
リーゼロッテ・リンドグレーン。子爵家の次女。わたしより四つ年下の、栗色の髪の娘。
「姉さん!」
玄関で飛びつかれた。小さな身体が腕の中に飛び込んでくる。知らないはずなのに、この体温が懐かしかった。身体が覚えている。妹の匂い。洗い立てのリネンと、干し草の匂い。
「マルテさんから手紙を受け取ったの。呪いのことも、ディートリヒさんのことも聞いた」
リーゼロッテの目は赤かった。泣いた跡がある。
「姉さん、大丈夫? 一人で抱え込んでない?」
「……大丈夫よ。呪いの構造は分かったし、解決の方法も見えてきた」
「それ」
リーゼロッテが指を突きつけた。
「それが問題なの。姉さんはいつもそう」
「え?」
「『大丈夫、自分で何とかする』。昔からそう。学院にいたときも、こっちに嫁いでからも。全部一人で背負い込んで、一人で解決しようとして、結局自分を犠牲にする」
耳の後ろがかっと熱くなった。
「三年前だってそうでしょう。呪いを一人で封じて、記憶を一人で差し出して。レオンハルト様に相談したの? ネーヴェと一緒に考えたの?」
「それは」
「してないでしょう。姉さんは自分を犠牲にすることだけ得意で、助けてって言うのが世界で一番下手な人なんだから」
リーゼロッテの声が震えていた。怒っているのではない。怒りの形をした心配だ。
「助けを求めることは弱さじゃないの。姉さん」
反論しようとした。口を開いて、閉じた。
できなかった。
反論が。言葉が出てこない。図星を突かれると人はこうなるのか。胸の中が散らかって、どの引き出しを開けても正しい言葉が入っていない。リーゼロッテの目が真っ赤で、鼻の頭も赤くて、こんな顔をさせたのは、わたしだ。三年前のわたしが、この子に何も言わずに消えたから。
「リーゼロッテ」
「何」
「……ありがとう」
妹の目が丸くなった。
「姉さんが素直にありがとうって言ったの、初めて聞いた」
「……そう?」
「そうだよ。いつもは『大丈夫だから心配しないで』って言うの」
リーゼロッテが持ってきた焼き菓子を食べた。実家の味だという。バターの風味が濃くて、口の中でほろほろと崩れる。食べながら、なぜか涙が出た。
「あ、泣いてる」
「泣いてない」
「泣いてるよ。焼き菓子で泣く人、初めて見た」
「……味が懐かしいだけ」
嘘だ。懐かしいのは味ではなく、こうやって誰かにまっすぐ叱られる感覚のほうだった。
◇◇◇
夕方。レオンハルトの書斎を訪ねた。
扉の前で立ち止まった。深呼吸をした。
ノックした。
「レオンハルト様」
「入れ」
書斎に入った。レオンハルトが書類から顔を上げる。
「三者契約の件です」
「ああ」
「わたし一人では無理です」
レオンハルトの目が、わずかに見開かれた。
「あなたの力が必要です。守護者の血、精霊の森を守ってきたヴィントヘルム家の力が」
「……ああ」
「だから」
言葉を探した。喉の奥に引っかかる。こんなに短い言葉なのに、こんなに難しい。
「……助けてほしい」
口に出した瞬間、肩から何かが降りた。重かったのだと、降りてから気づいた。
レオンハルトは黙っていた。長い沈黙。それから、深く息を吐いた。
「……ずっと、その言葉を待っていた」
声が震えていた。目の縁が赤くなっていた。
それで十分だった。
「明日から準備を始めましょう」
「……ああ」
レオンハルトが頷いた。灰青色の瞳に、光が戻っていた。




