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白い結婚のはずでした。  作者: 九葉(くずは)


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第1話 知らない腕

 知らない腕が、わたしの腰に回っていた。


 温かい。それだけが最初に分かったことだった。毛布の下で、誰かの体温がわたしの背中にぴったりと寄り添っている。


 硬い胸板。長い指。微かに香る、松脂と革の匂い。


 誰。


 手首の内側で脈が跳ねた。身体が強張る。首だけをゆっくりと回すと、枕のすぐ横に、見知らぬ男の顔があった。


 端正、という言葉がふさわしい寝顔だった。高い鼻梁、薄い唇、長い睫毛。浅い寝息が規則正しく繰り返されている。深く眠っているのだろう、眉間に刻まれた皺が少しだけ和らいでいる。


 知らない。この顔を、わたしは知らない。


 なのに。


 薬指に、冷たい金属の感触。左手を持ち上げると、細い銀の指輪が朝の光を弾いていた。揃いのものが、わたしの腰に回された彼の左手にもある。


 悲鳴を呑み込んだ。代わりに、静かに腕の下から身体を抜こうとする。毛布がずれ、冷たい空気が首筋に触れた瞬間、ドアの向こうから声がした。


「……奥様?」


 落ち着いた、よく通る声。


「お目覚めでしょうか。朝食のご用意ができております」


 返事をする前に、隣の男が目を開けた。


 灰青色の瞳。深い色だ、と思った。覚めたばかりの目がわたしを捉え、一瞬だけ、ほんの一瞬だけ柔らかくなった。


 それから、わたしの顔を見て、凍った。


「……っ」


 わたしが怯えていることに気づいたのだろう。男は腕を解いた。ゆっくりと、壊れ物を扱うように。指先がわたしの髪に触れ、それは無意識の仕草に見えた。そして、離れた。


「すまない」


 低い声。たった一言。男はベッドから降り、背を向けた。


 わたしはシーツを胸元まで引き上げて、その広い背中を見ていた。何か言わなければ。何を言えばいいのか分からない。分からないのに、喉仏の下がつかえるのはなぜだろう。


◇◇◇


「旦那様ですよ」


 マルテと名乗った侍女長は、わたしの着替えを手伝いながら、穏やかに言った。五十代と思しき女性で、丸い眼鏡の奥の目が温かかった。


「レオンハルト・フォン・ヴィントヘルム公爵。奥様のご主人です」


「……公爵」


「はい。そして奥様はフィオナ・フォン・ヴィントヘルム。公爵夫人でいらっしゃいます」


 名前を聞いても、何も響かない。他人の名前を教えられたような感覚。


「わたしは……記憶を失っているのね」


「はい。長い眠りについていらっしゃいました。三年間」


 マルテの手が、髪を梳かす手つきを一瞬止めた。すぐに再開する。


「お倒れになってから、ずっとお目覚めにならなくて。お身体に関わる知識やお名前、読み書きなどは問題ないようですが」


「個人的なことが、思い出せない」


「……はい」


 鏡の中のわたしを見た。亜麻色の髪。緑がかった灰色の目。若い。二十四歳だと、マルテは言った。


「三年間……眠っていた?」


「ご病気の折に、そのまま。旦那様は毎日、お部屋の世話をなさっていました」


「わたしたちの結婚は、どのようなものだったのですか」


 マルテの指が止まった。数秒の沈黙があった。


「政略婚でございました。お二人とも、最初はそのように……割り切っていらしたと聞いております」


 政略婚。白い結婚。形だけの夫婦。


 なぜ黙ったのだろう、一瞬。なぜ、この家の使用人たちは、三年も眠っていたわたしにこんなに優しいのだろう。


◇◇◇


 部屋を見回した。広い。天井が高く、壁には淡い花模様の布が張られている。暖炉には火が入っていて、室温は程よく保たれていた。


 窓辺の花瓶に、白い小さな花が活けてある。まだ朝露が残っている。摘みたてだ。


「マルテ。この花は」


「……さあ、どなたでしょう。朝、お部屋にお持ちする前には、もう置いてございました」


 その言い方には含みがあるように聞こえた。けれどマルテはそれ以上語らず、「さあ、朝食へ参りましょう」とだけ告げた。


 廊下を歩きながら、壁に掛けられた肖像画に目が止まった。若い男女が並んでいる。女のほうに、少しだけ見覚えがある。鏡で見た自分と、同じ目をしている。


 隣の男はレオンハルト。今より少し若い顔。表情が硬い。けれど、女の肩にそっと添えられた手だけが、不思議に柔らかく描かれていた。


◇◇◇


 朝食の席に、レオンハルトがいた。


 着替えた彼は、先ほどの寝間着姿とはまるで違って見えた。黒い上着に包まれた広い肩、きちんと撫でつけられた暗い金の髪。居住まいが正しい。正しすぎて、息苦しい。


「……体調は」


「問題ありません」


「そうか」


 それきり、沈黙。


 パンを千切る音がやけに大きく聞こえる。向かい合っているのに、距離がある。テーブルの幅以上の、見えない隔たり。


 紅茶が出された。一口含むと、不思議な味がした。甘い花の香りと、微かな苦味。知らない味のはずなのに。いや、知っている。舌が覚えている。胃の底が、ほんの少しだけ温かくなる。


「この紅茶は」


「……料理長に聞いてくれ」


 レオンハルトは視線を窓の外に逸らした。耳の先が、少しだけ赤い。


 白い結婚の相手。触れることもなかった夫。なのに今朝、わたしを腕の中に抱いていた。


 矛盾している。


 わたしは紅茶のカップを両手で包んだ。陶器の温度がちょうどよかった。ちょうどよすぎた。まるで、わたしの好みを知っている人が淹れたように。


 不意に、黒麦パンに添えられたジャムの色が目に留まった。琥珀色。舌の上に乗せると、木の実の風味が広がる。これも身体が知っている味だった。どこかが、ああ、と小さく頷いている。


「……ごちそうさまでした」


 立ち上がるとき、レオンハルトがわずかに身を乗り出した。何か言いかけて、やめた。代わりに軽く頷いて、また窓の外を見る。


 あの癖はなんだろう。目が合いそうになると、すぐ窓を見る。


◇◇◇


 一人になった部屋で、指輪を見つめた。


 銀色の細い環。装飾は控えめで、小さな青い石が一粒だけ嵌め込まれている。内側に何か彫られている気がしたが、文字が小さすぎて読めなかった。


 外そうとして、やめた。


 理由は分からない。ただ、外してはいけない気がした。この指輪だけは。


 窓から風が入ってきた。北の風。冷たくて、でも清潔な匂いがする。松と、土と、何か甘い花の匂い。


 銀木犀だ、と思った。


 なぜ知っているのだろう。この花の名前を。


 三年間、わたしが眠っている間に、この人は何をしていたの。なぜ花を。なぜ、政略婚の相手を腕に抱いていたの。


 問いかけは、誰にも届かなかった。風がレースのカーテンを揺らし、朝の光が指輪の青い石を静かに照らしただけだった。

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