石山リサの気づきの智慧と光を照らすほっこり飯
伊豆の美しい弓ヶ浜を望む絶景のリゾート施設「全国休息村」。
白い砂浜と透き通るような青い海が広がるこの場所で、レストランエリアを仕切っているのは、20代半ばの石山リサだ。
高校を卒業してすぐにこの施設に就職した彼女は、今や現場のリーダーに次ぐ実力者としての地位を確立していた。
「ちょっと! 何回言ったらわかんの! この皿の向き、逆だって言ったでしょ!」
ガチャン! と激しい音を立てて、リサがテーブルの上に皿を叩きつけた。
目の前で震えているのは、春に入社したばかりの新人の女の子だ。
リサの勝ち気で鋭い視線に射抜かれ、後輩は今にも泣き出しそうな顔で立ち尽くしている。
「すみません……すぐに直します……」
「謝る暇があったら手を動かしなさいよ! ほんと、トロいわね。あんたみたいなのがいると、こっちの仕事が増えるの。迷惑なのよ!」
ドカドカと激しい足音を立てて厨房へ戻るリサの背中に、レストラン内のスタッフたちの冷ややかな視線が刺さる。
しかし、リサはそんな視線など一向に気に留めない。
むしろ、自分がこの場を支配しているという全能感に酔いしれていた。
入社したての頃は、彼女もそれなりに大人しかった。
しかし、自分に意見できる口うるさい先輩たちが次々と辞めていき、気が付けば自分が古株の立場になると、リサの態度は一変した。
年上に対しても礼儀を払うことなど一切なく、我が物顔で振る舞うようになったのだ。
「リサさん、そんなに怒鳴らなくても……彼女、一生懸命やってるし、まだ慣れてないだけだから」
20代後半の男性リーダーが、困り果てた様子でリサに声をかけた。
本来なら彼の方が役職は上だが、リサは鼻で笑って言い放つ。
「は? リーダー、甘すぎなんじゃないの? あんたがしっかりしてないから、私がこうやって教育してあげてんでしょ。ここでは私が一番動けて、私が一番ここのこと分かってんの。文句あるなら自分一人で回してみれば?」
リーダーは苦虫を噛み潰したような顔をして黙り込む。
逆らうと余計に話がこじれ、現場の空気が最悪になることを知っているからだ。
周りの年配のスタッフたちも、嵐が過ぎ去るのを待つように目を逸らす。
リサにとって、ここは自分が最強の女王として君臨する城だった。
休憩室に入ると、リサはドサリと椅子に座り込み、不機嫌そうにスマートフォンを操作する。
「あいつ、ほんと使えない。頭悪くて頭が使えないし。やってらんないさー。私が全部一人でやったほうがマシなんじゃないの?」
吐き捨てるように独り言をこぼし、リサは苛立ちを隠そうともしなかった。
自分の思い通りに動かない人間はすべて「無能」であり、自分が正しいと疑わない。
注意してくれる大人がいなくなった環境で、彼女の傲慢さは肥大化し続けていた。
しかし、リサはまだ気づいていない。
誰に対しても強気で、他人を平気で傷つけるその在り方が、長い時間をかけて築いてきたはずの自分の居場所を、少しずつ、けれど確実に根元から腐らせ、壊し続けていることに。
窓の外に広がる穏やかな弓ヶ浜の景色とは対照的に、リサの心には、自分では制御できないほど黒く濁った感情が渦巻いていた。
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ある日の早朝、レストランを開く前のミーティング中のことだった。
リサが眉間に皺を寄せ、今日の配膳の段取りをまくし立てている最中、フロントからの内線電話が鳴った。
すぐ側にいた後輩が受話器を取り、短く用件を聞く。
電話を切った後、リサの言葉の合間を縫って報告しようとした瞬間だった。
「うるせえな、今喋ってんだろうが! 空気読めよ!」
リサの怒声が狭いパントリーに響き渡った。
後輩はびくりと肩を揺らしたが、それ以上は何も言わず、ただ無表情でリサが話し終えるのを待った。
数分後、ようやく気が済んだ様子のリサが不機嫌そうに問いかける。
「そんで、電話はなんて?」
「……お客様の人数変更です。三名増えました」
後輩は淡々と、温度の無い声でそう告げた。
リサは「そんなことかよ、チッ」と舌打ちをして背を向けた。
その日は何とか無事に営業を終えたが、後輩たちの目はどこか遠くを見ているようだった。
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翌日の休日は、リサにとって最高の気分転換になるはずだった。
友人だと思い込んでいる女性を連れ回し、町で映画を観て、ブランドショップを梯子した。
途中、店員の対応が遅いことに腹を立て、友人の前で「ほんと使えない、頭悪いんじゃないの?」と激しく毒を吐く場面もあったが、リサの中ではそれも「自分の正義」だった。
友人が引きつった笑顔を浮かべていることにも気づかず、リサは自分の休日を完璧に満喫したつもりでいた。
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そして迎えた、翌日の出勤日。
早朝の静かなレストランエリアへ、リサはいつものように我が物顔で足を踏み入れた。
しかし、そこで彼女を待っていたのは、信じられない光景だった。
パントリーにも、ホールにも、共に働くはずの後輩や同輩の姿が一人もいないのだ。
代わりにいたのは、本来ならフロントや事務所にいるはずの社員たちが、不慣れな手つきでカトラリーの準備やセッティングに追われている姿だった。
「あれ? あの子らはどうしたの? なんでフロントの人がここにいんのさ」
リサが怪訝そうに尋ねるが、フロントの課長はリサと目を合わそうともせず、額の汗を拭いながら鋭く言い放った。
「後で話す! 石山、今はとにかく手を動かせ! オープンまで時間がないんだ!」
訳が分からないまま、リサも仕事に駆り出された。
不慣れな人間ばかりの現場は混乱を極めたが、リサが怒鳴る暇もないほどに忙しく、何とか朝のレストラン業務を乗り切った。
朝食のピークが過ぎ、ようやく静かになった頃、リサは課長に呼び出されて事務所の重い扉を潜った。
「なあ、石山。お前、レストランの従業員たちと何があった」
課長は机の上に積まれた数通の封筒を指差した。
それは、昨日リサが休んでいる間に、レストラン担当の全スタッフが持ってきた辞表だった。
「昨日、君が休みの時に、全員が辞表を持ってここに来たんだ。『石山が全部知ってるはずだし、知らないって言うなら、なおさらここにはいたくない』。そう言って、全員同じ意見でな……」
「そ、そんな、私は何も……。」
リサの声が微かに震える。しかし、課長は首を振った。
「昨日は、君が休みだったこともあって、俺たちが必死に頭を下げて一日だけ働いてもらったんだ。だが、今日は見ての通りの有様だ。全員、連絡もつかない」
課長は椅子に深くもたれかかり、溜息をついた。
「なあ、あの子たちと喧嘩でもしたのか? もしそうなら、俺も立ち会うから、みんなで一度きちんと話し合いたい。このままじゃ、人がいなくて営業できなくなることは、お前もわかるだろ?」
リサは何も言い返せなかった。
自分が守ってきたはずの「城」が、一夜にして無人になった事実。
そして、自分が必要とされていると思っていた場所から、自分という存在そのものが猛烈に拒絶されたという現実。
リサはただ、冷たい事務所の空気の中で、幽霊のように立ち尽くすことしかできなかった。
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翌日。
急遽、別の店舗や本社からの人員が派遣され、派遣会社との伝手もあったことで、何とかその日の業務を回せる人数が集まった。
その中に「派遣」というネームプレートを付けた、20代半ばほどの青年がいた。
リサより3歳ほど年上で、背丈は同じくらい。
優しそうで穏やかな風貌を見たリサは、瞬時に「こいつは弱そうだ」と格付けを済ませた。
そして、早速いつもの「洗礼」を浴びせるべく近づいていく。
「ねえ、私って何歳に見えると思う?」
リサは意地悪な笑みを浮かべ、値踏みするように聞いた。
青年は少し考え、「僕と同い年くらいですか?」と正直に答えた。
「はあ!? ふざけてるよねー」
リサが吐き捨てるように言うと、青年の眉がぴくりと吊り上がった。
「あーあ、ふざけてるよね、ほんと」
リサが畳みかけるように言うと、青年の空気が一変した。
「どうふざけてるか言ってみろ」
突然、青年は般若のような凄まじい形相になり、リサを射抜くように睨みつけた。
「え……?」
優しそうだった青年の予想外の反撃に、リサは一瞬、時間が止まったかのように硬直した。
そして、次の瞬間。
首筋を力強く掴まれ、そのまま背後の壁まで押し付けられた。
「ひぃ!?」
リサの喉から短い悲鳴が上がる。
「実年齢より若い年齢を言って欲しいなら最初からそう言え!!」
青年は腹の底から響くような怒鳴り声を上げ、周囲の派遣スタッフたちは驚愕して動きを止めた。
「僕がここに派遣された理由が、よくわかったよ」
青年は冷たく言い放ち、パッと手を放した。
リサは壁に背を預けたまま、腰が抜けたようにずるずるとその場にへたり込んだ。
青年は懐からスッと名刺を取り出し、リサの目の前に突きつけた。
そこには「全国休息村本社 人事課係長」という肩書きが記されていた。
「従業員が一斉に辞表を出したと本社に連絡があってね。それで、何事かと調査に来たわけだが……原因がよくわかったよ」
青年は恐ろしいほど無機質な表情で、震えるリサを見下ろした。
リサの脳裏に、ある噂がよぎった。
社長の親族でありながら、現場からしっかりと修行を積み、瞬く間に本社の役職と上り詰めた若きエリート。
特に人を見る目は確かで、若くして人事課の要職に就いたというやり手の社員、その人物こそが目の前の男だった。
自分より年上の上司、一店舗の従業員では到底太刀打ちできない本社の実力者を相手に、とんでもない失礼を働いたことを悟り、リサは全身の震えが止まらなくなった。
「なんだ、さっきみたいに僕に失礼なことをしないのか? それとも、相手を選んで、勝てそうだと勝手に勘違いした相手にしか偉そうに出来ないのか?」
青年は軽蔑を込めて吐き捨てた。
「君の処遇をどうするか、とても参考になる材料だったよ」
そう言い残し、青年は一度も振り返ることなく去っていった。
へたり込んだままのリサは、自分が積み上げてきた「女王」としての虚飾が、音を立てて崩れ去る音を聞いた。
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表舞台での仕事を禁じられたリサは、裏方である洗い場やリネンの仕分け作業に回されることになった。
かつての華やかなレストランエリアとは対照的な、湿気と洗剤の匂いが充満する場所で、リサは黙々と手を動かすしかなかった。
その間、人事課係長の青年は、辞表を出した従業員たちへの聞き取り調査を徹底して進めていた。
証言として浮かび上がってきたのは、リサによる執拗な「パワハラ」の数々だった。
洗い場や調理場の従業員達、リサと親しくしていたと思われるおばさんやおじさん連中からも話を聞くと、彼らも流石に庇いきれないと観念して実際にあったことを洗いざらい話した。
リサに恫喝された同輩や後輩達は、録音を取っていたわけではなかったので、証拠は不十分だった。
しかし、人事課係長自身が実際にリサの在り方を、その身をもって目の当たりにしているため、信ぴょう性ありと判断される。
人事課係長は、辞表を出した従業員達に戻ってくる意思はないかの最終確認をした。
だが、石山リサがいるなら絶対に戻らないという意志が固かったため、改めて退職を受け入れる。
その際、人事課係長は「パワーハラスメントの現場で、あなた方を傷つけてしまった事、深くお詫び申し上げます。本当に申し訳ない事を致しました」と一人一人に深く謝罪して回った。
本社の人事課係長が頭を下げて回る程の事態になった事に、リサも流石に大事だと思い、人事課係長が再び職場に顔を出した際、リサは彼に会いに行った。
「先日は、大変失礼なことをしてしまって、誠に申し訳ございませんでした」
リサは頭を下げた。
人事課係長は少しの間を置いてから答えた。
「……僕も壁に押し付けたのはやりすぎだったし、大人げなかった、申し訳ない」
係長も頭を下げた。
「ただ、君が後輩を恫喝していたという話は、報告の内容として含まれていたからね。自分がやられたらどうなのかを、君が身をもって知るために、僕が君に大声をあげた事は後悔していないし、僕がやるべきことだったと考えている。恨みたいなら恨んでくれて構わない」
人事課係長はさらに言葉を重ねる。
「そして、君が真に頭を下げるべきは、僕じゃない」
「……」
「ここに居づらいなら、別の店舗への異動も考えよう。この会社に残りたいなら、こちらも責任を持って手を尽くす」
リサは「はい……」とだけ答えて、寮に戻った。
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その後のリサは、暫く職場にとどまり続けた。
一度はレストランの業務に復帰したが、以前のように親しく接していたはずの洗い場のおばさん達とも、どこかぎくしゃくとした空気が流れてしまう。
向けられる視線は余所余所しく、かつてのように冗談を言い合える関係には戻れなかった。
居たたまれなさに耐えかねたリサは、再びリネンなどの裏方仕事へと自ら退いた。
誰とも目を合わせず、黙々とリネンを畳み、汚れを落とす日々。
気が付けばそれから1年ほどの月日が流れていた。
その間、リサは自分のこれまでの在り方を何度も問い直し、考え続けた結果、一つの決断を下した。
退職。
別の店舗への異動という選択肢もあったが、社内全体に自分のしでかしたことは広まっているだろう。
過去の自分を知る者がいない場所で、一からやり直したい。
リサは、この会社そのものから去ることを決めた。
寮住まいだったため、次の仕事と引っ越し先を同時に探さなければならなかった。
リサは課長に、次の行き先が決まるまでは今の仕事を続けさせてほしいと相談し、了承を得た。
そうして必死に職探しをした末、やっとの思いで寮付きの静岡県内にあるスーパーマーケットへの就職が決まった。
退職の手続きをすべて済ませた最後の日、リサは挨拶のために事務所を訪れた。
「あの、課長。本社の人事課係長さんに、最後の挨拶をさせてくれませんか?」
課長は少し驚いたような顔をしたが、すぐに本社に連絡を取り、暫くして受話器をリサへと替わってくれた。
リサは受話器を握りしめ、かつて自分が傲慢な態度を取った相手に向かって口を開いた。
「石山です。最初に失礼なことをしてしまってから、今日までお世話になりました。あんな失礼な事をしたのに、色々と守って下さっていたと、課長からも聞いています。……有難う御座いました」
電話の向こうで、係長は静かに、けれど重みのある声で答えた。
「今まで、会社のために働いて下り、有難う御座います、御疲れ様でした。新天地での活躍、応援してるよ」
「はい、有難う御座います」
リサは短く答えて電話を切ると、重荷が一つ降りたような心地がした。
課長に最後の手短な挨拶を済ませ、リサは事務所を後にした。
駐車場に停めていた自分の車に乗り込み、エンジンをかける。
バックミラーに映る職場の建物を一度だけ見つめ、リサは新しい生活が待つ寮へと向かって、ゆっくりと車を走らせた。
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新しい職場での初日。
リサは緊張した面持ちで挨拶を済ませ、まずは店舗の業務全般を教わり始めた。
品出しや陳列の仕方を一つずつ確認しながら、新しい環境に馴染もうと必死に身体を動かした。
一通りの説明が終わると、次はレジ業務を教わることになった。
幸い、店内はそれほど忙しくない時間帯で、操作を覚えるには絶好のタイミングだった。
「こちらへどうぞ」と、年上の男性主任に案内され、リサは従業員用のレジカウンターへと向かった。
主任の後をついてレジまで行くと、そこでリサは息を呑んだ。
自分と同じスーパーの制服とエプロンを身に纏った、見覚えのある人物とばったり顔を合わせたからだ。
「……!? 亜美子……」
リサは思わず目を見開いた。
亜美子は、かつての職場で、あの集団辞職が起きる前日に、リサが「うるせえな!」と怒鳴りつけた相手だ。
5歳年下で整った顔立ちをした彼女を、リサはこれまで何度も泣かせてきた。
まさか、新天地として選んだこの場所で再会するとは思ってもいなかった。
亜美子もまた、近づいてきたリサの存在に気づいたようだった。
しかし、彼女は顔色一つ変えることなく、淡々とレジの仕事をこなしていく。
目の前の客に対しては穏やかな笑顔を絶やさず、丁寧な手つきで接客を続けていた。
男性主任によるレジの指導が始まると、リサは必死に主任の言葉を頭に入れようと努めるが、意識はどうしても隣のレジにいる亜美子に向かってしまう。
かつての自分の醜態をすべて知っている後輩。
その彼女が、以前よりもずっと落ち着いた様子で働いている姿は、リサの心に言いようのないざわつきを生んでいた。
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初日が終わり、リサは足の疲れを感じながらも、職場の先輩たちに挨拶を済ませてロッカールームへと向かった。
扉を開けると、そこには既に着替えを終えた亜美子がいた。
「あ……」
思わず声が出たリサに対し、亜美子は冷淡だった。
「……お疲れ様です」
無表情にそれだけを告げ、亜美子は部屋を出ようとする。
「……ここに就職してたんだ」
背中に向けたリサの言葉に、亜美子は足を止めずに「ええ」とだけ答えた。
「……あの」
リサがさらに呼びかけようとしたが、亜美子は振り返ることなく去っていく。
まだ初日だ、これから話す機会はいくらでもある。
リサは自分にそう言い聞かせ、その日は寮へと戻った。
そして、勤務2日目。
新しい仕事を必死に覚え、何とか業務を乗り切った後、リサは副店長に呼び出された。
事務所に向かうと、年配の女性である副店長が腕を組み、困り果てた表情で待っていた。
「石山さん……リサさんでいいかな?」
副店長は椅子を勧め、リサを事務用の回転椅子に座らせた。
「リサさんって、亜美子ちゃんと顔見知り?」
唐突な問いに、リサの心臓が跳ねる。
「以前の職場で一緒でした」
「そう……その時から、仲が悪かったの?」
副店長の言葉に、リサはどきりとして言葉に詰まった。
「亜美子ちゃん、さっき『石山さんがいるなら、私はここにいたくないから、退職します』って言ってたのよね……」
その言葉を聞いた瞬間、リサの顔面はみるみるうちに真っ青になっていった。
「理由を聞いても『本人に聞けばわかる事で、わからなければ、なおさらここにはいたくありません』って。取り付く島もなくてね……。あの子、真面目で仕事も出来るから、手放したくないんだけど……」
副店長が溜息をつく。
リサの脳裏には、1年前に全く同じ理由で全員から辞表を叩きつけられたあの日の光景が、強烈なフラッシュバックとして蘇った。
逃げ出したはずの過去が、全く同じ拒絶の言葉となって目の前に立ちはだかっている。
「一度、話し合いの場を設けようか? 前の職場で何があったか知らないけれど、ここでまで引きずる事ないでしょ?」
副店長に諭されるように言われ、リサは震える唇を噛み締めた。
「……はい」
今の彼女には、それ以外の言葉を返す余裕など、どこにも残っていなかった。
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副店長が「これ食べて元気出してね」と言って、一本の棒状チョコレートスナック菓子を手渡してくれた。
リサはその一本の菓子を握りしめ、力なく事務所を後にした。
とぼとぼと寮への道を歩こうとしたが、今の自分にはあの静かな部屋がひどく居心地悪く感じられた。
何となく帰りづらくて、リサはあてもなく日が暮れた夜道を散歩し始めた。
時計を見ると、丁度夕食の時間帯だった。
家々の窓からは温かな明かりが漏れ、どこからか出汁や炒め物の香りが漂ってくる。
今頃はみんな、自分が働くスーパーで買った食材を調理している頃だろうか。
そんな当たり前の幸せの中に、自分だけが放り出されたような疎外感をリサは覚えていた。
ふと、前方から奇妙な視線を感じてリサは足を止めた。
街灯の下に、小柄な女の子が立っている。
女の子はまん丸な目をして、口を台形に開けたまま、じーっとリサを見つめていた。
その子は黒いベレー帽をかぶり、ズボンタイプのセーラー服という風変わりな格好をしていた。
手元には、リサが働くスーパーのレジ袋が提げられている。
中にはネギや豆腐のような、夕食の食材らしきものが透けて見えた。
沈黙の中、女の子が突然口を開いた。
「えらいこっちゃ」
「え?」
リサは思わず聞き返した。
女の子の視線を追うと、リサがずっと手に持っていたチョコレート菓子を、食い入るように見つめている。
「これが欲しいの?」
リサが力なく尋ねると、女の子は首を横に振った。
「晩御飯の前にお菓子食べたら、えらいこっちゃ」
「……そりゃそうね」
思わぬ正論に、リサの口元に微かな笑みが浮かんだ。
すると、女の子は表情を変えぬまま、自らを紹介するように胸を張った。
「ウチは、えらいこっちゃ嬢とか、えらいこっちゃんって呼ばれてる、えらいこっちゃ嬢や」
それから、リサの心臓を射抜くような鋭い視線を向けた。
「おねえやんは、『在り方』が、えらいこっちゃ」
びしっと言い放たれたその言葉に、リサの心臓がどきりと跳ねた。
図星を突かれたような、得体の知れない恐怖が背筋を駆け上がる。
リサが言葉を失って立ち尽くしていると、背後の暗闇から地響きのような音が聞こえ始めた。
遠くから、夜の闇を焼き切るような、燃え盛る何かが猛スピードでこちらへ近づいて来た。
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燃えるような何かは、轟音と共にリサの目の前に滑り込み、停止した。
「……な、なにこれ」
リサは目を疑った。
見ると、片方だけの巨大な車輪が燃え盛っている牛車だった。
しかし、その形状はどこか現代風に改良されており、牛車には不釣り合いな運転席まで付いているという、何とも奇妙な乗り物だった。
リサが驚いて立ち尽くしていると、運転席の扉が開いた。
黒い着物に黒いベレー帽という出で立ちの美女が、後ろで束ねた長い髪を揺らしながら降り立ち、にっこりと微笑んだ。
「えらいこっちゃん、凄くいい金目鯛、下田の道の駅でいっぱい見つけたで。これで金目鯛の煮物、凜華さんに作って貰おな」
方輪車と呼ばれた美女は、手に提げた大きな保冷バッグを誇らしげに見せた。
「方輪車ねえちゃん御疲れちゃん! えらいこっちゃな大漁や!」
えらいこっちゃ嬢はそう言って、リサの手を強引に掴み、牛車へと乗り込んだ。
「え!? ちょ、ちょっと!?」
リサが慌てて抵抗するが、えらいこっちゃ嬢は聞く耳を持たない。
「スペアリブ用の新鮮骨付き肉も仰山あって、えらいこっちゃな大収穫!」
えらいこっちゃ嬢は牛車の荷台に手際よく荷物を置くと、ちょこんと座り込んで脚をぶらぶらさせ始めた。
すると、突然リサの目の前に、にゅーっと長い手が伸びてきた。
その手には「お勘定」と書かれた古びた札がぶら下がっている。
「ひい!?」
リサは驚いて悲鳴を上げた。
「お、お勘定!? これ、タクシーなの? よ、よくわからないけど……」
リサは動揺しながらも、副店長から貰った棒状のチョコレート菓子を、とりあえずその手に渡した。
それから、リサはポケットを探った。
「あ、後、これ……」
店で従業員割引を使って買い物をした後、財布にしまい忘れていた千円札1枚と5百円玉1枚を、その手のひらに乗せた。
手が引っ込んでいくと、運転席に座った方輪車が振り返り、「毎度ー」と微笑んだ。
えらいこっちゃ嬢は、台形の口を開けて宣言した。
「えらいこっちゃな在り方迷子のおねえやん御一名、行先は摩訶不思議食堂」
「あいよー」
方輪車が短く応えると、牛車は再び轟音を立てて発進した。
リサは訳が分からないまま、ただ黙って、異界の乗り物に乗せられているしかなかった。
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「あの、これからどこに行くの?」
リサが不安げに尋ねると、えらいこっちゃ嬢は事もなげに答えた。
「えらいこっちゃな美味さの店」
「美味しい店? レストランか何かなの? まあ、晩御飯の時間だから、丁度いいけどさ……」
以前のリサであれば、相手が子供であろうと不遜な態度で怒鳴り散らしていたところだった。
しかし、あまりの得体の知れなさに本能的な恐怖を覚え、逆らえば何をされるか分からないという予感が彼女を沈黙させた。
今のリサにできるのは、ただこの異常な状況に身を任せることだけだった。
やがて、暗闇の向こうに一軒の建物が見えてきた。
牛車がその建物の前で停泊する。
見れば、そこには「摩訶不思議食堂」と書かれた看板が掲げられていた。
木造の、手入れの行き届いた綺麗な建物で、どうやら本当に食事を出す場所であるらしいことが見て取れた。
すると、牛車の到着を察知したかのように、食堂の扉が静かに開いた。
そこから出てきた人物を目にした瞬間、リサは再び驚愕に目を見開いた。
そこにいたのは、まるでファンタジー世界に登場するゴブリンを彷彿とさせる、人ならざる女性だった。
肌は鮮やかな緑色で、大きく尖った耳を持っている。
茶髪のショートヘアに白い三角巾を巻き、緑色の着物の上に真っ白な割烹着を身に纏っている。
異形ではあったが、その顔立ちは驚くほど可愛らしく綺麗で、穏やかな微笑みを湛えていた。
「お帰りやす、えらいこっちゃん、方輪車さん。それと、御新規さんも、ようおこしやす」
ゴブリンの女性、凜華は優しく微笑み、丁寧にお辞儀をした。
「凜華さんただいま。えらいこっちゃな大漁ちゃん!」
えらいこっちゃ嬢は食材の入った袋を抱え、牛車からぴょんっと飛び降りると、一目散に中へと入っていく。
方輪車も運転席から降り、保冷バッグを凜華へと差し出した。
「ただいま、凜華さん。これ、金目鯛ね」
「これはまた、上等な金目鯛どすなあ。有難う御座います」
凜華は嬉しそうに受け取り、中身を確認して感嘆の声を上げた。
それから凜華は、呆然と立ち尽くしているリサへと向き直った。
「御客様も、おいでやす」
その柔らかな声音に促され、リサは導かれるように車を降りた。
「ほな、私は駐車場にとめてから来ますさかい」
方輪車はそう言い残すと、牛車を運転して隣の広いスペースへと向かっていった。
リサは現実感を失ったまま、凜華に案内されるがままに「摩訶不思議食堂」の敷居を跨いだ。
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リサは中に入り、カウンター席へ座った。
すると、カウンターの向こう側から、お地蔵さんがひょっこりと顔を出した。
「ようこそ、いらっしゃいまし。私は当店の店長をさせて頂いております。皆さんは、地蔵店長と呼んで下さいます」
お地蔵さんは、慈愛に満ちたお地蔵さん笑顔で挨拶をした。
「は、はあ……どうも」
毒気を抜かれたように、リサは戸惑いながら挨拶を返した。
リサは何となく、自分についても言葉を添えた。
「私は……石山リサです」
「それでは、リサさん。本日は丁度、えらいこっちゃんと方輪車さんが、スペアリブ用の肉と金目鯛を買って来て下さいましたから、そちらを御用意致しましょうか」
地蔵店長はニコニコとした笑顔でそう言った。
「あ、はい、お願いします……」
リサは促されるままに頷いた。
金目鯛に、スペアリブ。
その言葉を聞いた瞬間、リサは南伊豆にいた頃の記憶を呼び起こしていた。
南伊豆の全国休息村にいた頃は、従業員食堂で何度も箸をつけた金目鯛の煮付け。
レストランの厨房で、まかない料理として出されていた骨付きスペアリブ。
「なんか懐かしいな……」
思わず独り言が漏れる。
すると、いつの間にか黒い着物にベレー帽をかぶり、着物の上に白い割烹着をきっちりと着込んだえらいこっちゃ嬢が、リサにおしぼりを差し出していた。
「金目鯛バーガーは、味もでかさも、えらいこっちゃ」
「ありがと。ふふ、ほんまに美味しかったわあ。えらいこっちゃん、また行こなー」
いつの間にかベレー帽を脱いで隣に座っていた方輪車が、楽しげに笑って答えた。
彼女はえらいこっちゃ嬢からおしぼりを受け取ると、丁寧に手を拭いた。
「ああ、道の駅にあった金目鯛バーガーのお店の事? 確かに、食べ応えあるし美味しいもんね」
リサは少しだけ強張っていた心を緩め、笑っておしぼりを受け取った。
その時、厨房の方から何とも言えない芳醇な香りが漂ってきた。
リサが首を伸ばして覗き込んでみると、凜華が流れるような動作で、実に見事な手際で料理をしているのが見える。
「ここって、なんなの? 人間じゃないのばっかり……」
あまりにも非現実的な光景に、リサは呆然と呟いた。
地蔵店長は、その問いに静かに手を合わせた。
「ここは、御客様が最も食べたいものであり、そして、御客様に最も必要な料理を味わって頂く店で御座います」
地蔵店長は合掌したまま、お地蔵さん笑顔を絶やさずにそう告げた。
---
「私に最も必要な料理が、金目鯛とスペアリブなの?」
リサは不思議そうに首をかしげた。
地蔵店長は、柔和な表情を崩さずにニコニコと答える。
「先程えらいこっちゃんが、リサさんは金目鯛に興味を示していらっしゃったと伺いましてね」
「……懐かしいなって、思って見ただけよ。昔いた職場では、レストランでもお客さんに出していた料理だし、賄いでも食べてたし。スペアリブもね」
リサの脳裏には、かつての活気ある、けれど自分が壊してしまった職場の光景が鮮明に浮かんでいた。
方輪車は、そんなリサを優しく見守りながら笑った。
「私も、凜華さんの煮物を食べてて、凜華さんが作ってくれる魚の煮付けも食べたいなあって言うたら、金目鯛の煮付けがええんとちゃうっていう話になってな。そのままひとっ走り、下田まで買いに行ったんよ」
「食材の買出しに便乗出来て、えらいこっちゃな楽ちん買い物!」
えらいこっちゃ嬢が、喜びを表現するように両腕をぶんぶんと振り回す。
「ふふ、えらいこっちゃん、またデートしよな」
方輪車が茶目っ気たっぷりにウインクを飛ばすと、えらいこっちゃ嬢は満面の笑みを浮かべた。
「方輪車ねえちゃんのデートは、えらいこっちゃな楽しさ満載!」
そう言って、彼女は一度厨房へと引っ込んでいった。
リサが何気なく厨房を覗き込むと、そこにはまた驚きの光景が広がっていた。
今度は、耳の長い兎の姿をした料理人が、優しい顔立ちで微笑みながらえらいこっちゃ嬢と何やら言葉を交わしている。
「今度は兎って……」
リサが呆然とする中、兎の料理人――ラビは、手際よく緑の葉っぱに衣をつけ、油の中へと投入した。
パチパチ、シュワワッ。
軽快な揚げ物の音が店内に響き渡る。
ラビは揚げたての葉を、木製の籠に敷かれた紙の上へ丁寧に並べていった。
それをえらいこっちゃ嬢が2人分、大事そうに抱えて持ってくる。
「前菜前菜、ラビさんの揚げ物は天下一品! 熱々は気を付けんと、舌がえらいこっちゃ」
丁寧にリサと方輪車の前に置かれたのは、鮮やかな緑色が透ける天麩羅だった。
「明日葉の天麩羅やね。最高の前菜やん」
方輪車は嬉しそうに合掌し、静かに目を閉じる。
「我ここに食をうく、つつしみて天地の恵と人々の労を謝し奉る」
美しい食前の言葉を唱えた後、方輪車は洗練された所作で箸を取り、明日葉の天麩羅を口に運んだ。
サクッ。
小気味いい音が店内に響く。
「うん、やっぱりラビさんの揚げ物は天下一品やわあ。天つゆとか何もなくても、そのまま味わえるで」
ほっこりと顔を綻ばせる方輪車。
リサはその横顔を眺めながら、目の前の料理を見つめた。
「明日葉の、天麩羅……」
リサは小さく呟いた。
明日葉の天麩羅もまた、南伊豆のレストランで客に提供していたメニューの1つだった。
金目鯛、スペアリブ、そして明日葉。
どうして、かつての職場で縁があった食べ物ばかりが、この奇妙な店で次々に現れるのか。
偶然にしては出来過ぎている。
リサの胸の奥で、言いようのない不思議な感情が渦巻き始めた。
---
リサは、明日葉の天麩羅を1枚箸で取り、サクッと食べてみた。
軽い衣の砕ける音が、静かな店内に小さく響く。
リサはそのまま、無造作に次の一口を運ぼうとした。
「急いで食べたら味に気づけんと、勿体なくってえらいこっちゃ」
えらいこっちゃ嬢が、たしなめるように言い出した。
「え?」
リサは動きを止め、箸の先の明日葉をじーっと見つめた。
何となく、今度は意識してゆっくりと咀嚼してみる。
飲み込むまでは次の明日葉に手を出さず、口の中の感覚に集中した。
素朴なのに、何処か優しい味がした。
かつての職場で何年も、それこそ毎日のように目にし、食べてきたはずのものだ。
なのに、その詳細な味わいを、自分は一度も感じてこなかったことに今更ながら気づいた。
「明日葉の天麩羅って、こんな味がするんだ……」
リサは、自分でも驚くほど小さな声で呟いた。
「それでは、明日葉の味を感じられた瞬間瞬間を、味わってみて下さいまし」
地蔵店長が、ニコニコとお地蔵さん笑顔で静かに語りかけてきた。
「え? 瞬間瞬間?」
リサは戸惑いながらも、残っている明日葉を再び箸でつかみ、口へと運んだ。
あ、少し苦みを感じる。
その苦みが衣の甘みと絶妙なバランスになった。
今、喉の奥へと飲み込んだ。
言葉には出さず、心の中でその瞬間に起こった変化と、それによって生じた感情をしっかりとかみしめる。
一枚の明日葉を食べ終えるまで、リサは全神経をその一片に注ぎ込んだ。
「……食事って、こんなにいろんなことを感じてたんだ」
リサは、空になった籠を見つめたまま呟いた。
ただ空腹を満たすためだけに作業のように流し込んでいた時とは違う、温かな感触が胸の奥に残っていた。
---
## 金目鯛の煮付けと、重なる記憶
リサが最後の一葉を名残惜しそうに飲み込み、ゆっくりと明日葉の天麩羅を食べ終えた。
えらいこっちゃ嬢が、空になった竹籠を「えらいこっちゃな名残惜しさや!」と言いながら手際よく下げていく。
その直後、厨房から食欲をそそる甘辛い香りが一層強く漂ってきた。
凜華とラビの2人が、リサと方輪車の前に、照りよく煮込まれた金目鯛の煮付けが乗った皿を静かに置いた。
「有難うさん♪」
方輪車が再び丁寧な所作で合掌し、お礼を言う。
リサも、その立ち振る舞いに導かれるように、自然と手を合わせた。
「あ……有難う」
凜華とラビは、互いの顔を見合わせて「ごゆっくり」と優しく微笑み、再び手際よく厨房へと戻っていく。
方輪車は、煮汁の染みた金目鯛の身を、驚くほど上品な箸使いで一口分取り分けた。
しっかりと咀嚼し、その身が解ける感触を確かめてから、ゆっくりと飲み込む。
「ああ、これこそが凜華さんの金目鯛の煮付けやわあ。ほんまに、ええ味出してはるわあ……」
方輪車の顔が、温泉に浸かった時のようにほっこりと緩んだ。
「ふふ、凜華さんの煮物は天下一品。煮魚は味は勿論、見た目も美しくて、私も大好きですからねえ」
ラビが長い耳を揺らし、ニコニコとした兎笑顔で賛辞を送る。
「有難う御座います。私かて、ラビさんの揚げ物には、いつもほっこり癒されてますさかい」
凜華もまた、嬉しそうに緑色の頬を緩めて、ニコニコとした笑顔を返した。
厨房の中には、職人同士が互いの技術を敬い合う、温かな空気が満ちていた。
リサは、目の前の金目鯛に箸を向けた。
身はふっくらとしており、煮汁が中心まで均一に染み込んでいる。
一切れを口に運んだ瞬間、リサの身体に電撃のような衝撃が走った。
「!?」
リサは驚きのあまり、目を見開いたまま固まった。
舌の上で広がる醤油の豊かなコク、味醂の深い甘み、そして生姜の微かな刺激。
「……これ、あの宿泊施設のレストランの……私がいたレストランの味がする……。それでいて、その上位版みたいな……」
それは、かつてリサが「女王」として君臨していた場所で、当たり前のように提供されていた味だった。
だが、当時のリサはその価値に気づこうともせず、ただ「商品」や「作業」としてしか見ていなかった。
今、この不思議な食堂で改めて向き合うその味は、かつての傲慢な自分を優しく、そして厳しく包み込むような圧倒的な説得力を持っていた。
リサは夢中になりそうになる自分を、必死に抑えた。
えらいこっちゃ嬢や地蔵店長の言葉を反芻し、箸を動かす速度をあえて落とす。
一口食べるごとに箸を置き、身の柔らかさ、煮汁の絶妙な塩梅、立ち上る湯気の香り……。
そのすべてを、一滴も逃さぬように丁寧に味わっていく。
パクッ、モグモグ。
静寂の中に、咀嚼する音だけが心地よく響く。
急がず、丁寧に。
リサは今、1年以上の時を経て、ようやく自分自身の過去と、その時陰で支えてくれていた人々の「真心」を噛みしめていた。
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ゆっくりと、一切れずつ。
リサは地蔵店長に言われた通り、自身の舌が感じる味の変化や、胸の奥から湧き上がる感情の一つ一つに、静かに向き合い続けた。
丁寧に食べ終えた金目鯛の煮付け。
その皿には、美しく整えられた骨だけが残っていた。
隣に座る方輪車も、同じくらいのタイミングで静かに箸を置く。
「ふう……美味しかったわあ」
彼女が満足げに息を吐くと、どこからともなくえらいこっちゃ嬢が現れた。
カチャリ、カチャリ。
えらいこっちゃ嬢が、空になった二人の皿を手際よく下げていく。
ふと、リサの口から自然と言葉がこぼれた。
「有難う」
それは、これまでの自分なら「仕事なんだから当たり前」と切り捨てていただろう、些細な感謝の言葉だった。
戻ってきたえらいこっちゃ嬢は、意外そうな顔をしてリサを見つめた。
次の瞬間、彼女は椅子の上にぴょんっと飛び乗り、リサの頭を小さな手でぽんぽんと撫でた。
「食べ方綺麗でお礼が言えて、えらいやっちゃなおねえやん」
「え……」
子供扱いされた気恥ずかしさと、素直に認められた喜びが混ざり合い、リサの頬が少しだけ赤らんだ。
えらいこっちゃ嬢は再び厨房へと消え、今度は凜華と一緒に大きな皿を運んできた。
そこに盛られていたのは、艶やかなタレがたっぷりとかかった、骨付き豚肉のスペアリブだった。
じゅわり、と皿の上で肉汁が踊っているのが見える。
「ゆっくり召し上がって頂いてたお蔭様で、じっくり煮込めました」
凜華は割烹着の袖を軽く整え、優しい微笑みを浮かべた。
そのスペアリブは、長時間火にかけられたことが一目でわかるほど、肉が骨から今にも外れそうな、柔らかな仕上がりだった。
「明日葉の天麩羅と、金目鯛の煮付けを、こんなにゆっくり味わったのって、初めてかも。スペアリブが煮込めるくらいに、時間が経ってたんだ……」
リサは壁に掛けられた古時計を見上げ、驚きを隠せなかった。
これまでの自分にとって、食事はただのエネルギー補給、あるいはスマホを見ながら胃袋に食べ物を入れるだけの退屈な時間でしかなかったからだ。
「現世では食事時間も大急ぎで終わってしまうから、ゆっくり味わう時間もありませんでしたやろに」
方輪車が、リサの心情を読み取ったかのように静かに微笑んだ。
「……確かに。それに、食べている時もスマートフォンを見ながらとか、ずっと『ながら食事』になってしまってた事を思い知らされるわ。食べ物の味なんて、二の次だった」
リサは自嘲気味に呟き、ナイフとフォークを手にした。
カチリ、と金属の触れ合う音が心地よく響く。
「頂きます」
丁寧にナイフを入れると、肉は抵抗なく、ほろりと骨から離れた。
一口、口に運ぶ。
「……っ!」
リサの目が再び見開かれた。
「これも、あのレストランの味で……それでいて、更にそれを上回る美味しさ……」
あの職場の味だ。
かつて自分がぞんざいに扱っていた、調理場のスタッフたちが必死に守っていたあの味が、より洗練された形で再現されている。
甘辛いソースの奥に感じるスパイスの刺激と、口の中で溶けていく脂の甘み。
「和食の店かと思ってたけど、洋物料理も美味しい店なのね」
リサは感嘆の声を漏らし、再びゆっくりと、一切れずつスペアリブを味わい始めた。
かつて自分が踏みにじった「日常」の中に、これほどまでに豊かな世界が広がっていたことに、今の彼女は少しずつ気づき始めていた。
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## 盃に映る、傲慢だったあの日の記憶
リサは、綺麗に骨だけを残して、ゆっくりとスペアリブを完食した。
「凄く美味しかった。明日葉の天麩羅も、金目鯛の煮付けも、スペアリブも」
満足感に浸りながらも、リサは一つの疑問を口にした。
「でも……これが、私の食べたいもので、私に必要な料理だったの?」
リサは不思議そうに首をかしげる。
すると凜華が、慈愛に満ちた表情で微笑んだ。
「御姿を拝見して、必要な御料理だと確信したんどす」
「え?」
リサが驚くと、地蔵店長が言葉を添える。
「先程話されていた、日常的に口にされていた料理を味わって頂いた事で、当時の事を体感的に思い出されたのではありませんかねえ」
地蔵店長はお地蔵さん笑顔で、優しくリサを見つめた。
「そりゃまあ、何年も食べて来たものだから、どうしたって思い出すでしょ」
リサがそう答えると、えらいこっちゃ嬢が至近距離で彼女をじーっと見つめていた。
「……どうしたの?」
尋ねた瞬間だった。
「えらいこっちゃ!」
えらいこっちゃ嬢がいきなり叫び、指をパチンと鳴らす。
ドォォォォォン!
リサの頭上で、激しい音を立てて爆発が起こった。
「ひゃあ!? な、なによ!?」
リサは悲鳴を上げて頭を抱える。
だが、えらいこっちゃ嬢は何事も無かったかのように、再び穏やかな顔で彼女を見つめていた。
「ちょ、いきなりなんなのさ!?」
驚きと恐怖で肩を震わせるリサに、少女は淡々と言い放つ。
「完全に思い出しとらへん、えらいこっちゃ」
えらいこっちゃ嬢はそう言い残し、タタッと厨房へ入っていった。
そしてすぐに、大きめの盃と1本のボトルを持って戻ってくる。
彼女は困惑するリサの手を取り、強引に盃を握らせた。
訳も分からずリサが盃を捧げ持つと、その中にトクトクと無色透明な炭酸水が注がれる。
「な、なにこれ?」
リサが盃の中、激しく弾ける炭酸水を覗き込む。
シュワシュワと立ち上る気泡の向こう側。
揺らめく水面に、一人の女性の姿が鮮明に浮かび上がった。
そこは、1年前まで自分がいた南伊豆のレストランだった。
光が差し込む店内に、当時の白い制服を纏い、緑のソムリエエプロンをキリリと締めたリサの姿があった。
「これ……私?」
リサは息を呑み、盃の中の光景を凝視した。
それは忘れようとしていた、けれど決して忘れられない「あの頃」の自分の姿だった。
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盃の中に映り込むリサ。
揺れる水面に、かつての職場の風景が鮮明に浮かび上がる。
そこに映っていたのは、後輩たちに威圧的な態度で仕事の説明をしている自分の姿だった。
そこへ、1人の女性が近寄ってくる。亜美子だ。
彼女が何かを言いかけようと口を開いた瞬間。
「うるせえな今喋ってんだろうが!」
水面のリサが、剥き出しの敵意を込めて怒鳴り声をあげた。
亜美子がビクリと肩を震わせ、俯く様子まで克明に映し出される。
その姿を目の当たりにしたリサは、血の気が引くのを感じた。
「これが……私?」
信じられないという思いで、リサは自分の震える声を聞いた。
客観的に見る自分の姿は、あまりにも醜く、傲慢だった。
すると、えらいこっちゃ嬢が指をパチンと鳴らすと、ちゃぷちゃぷと水面が揺れ出す。
波紋が広がり、景色が溶けていく。
波が消えた後、次に映し出されたのはプライベートの光景だった。
休日に一緒に映画を見に行ったりと、仲良く過ごしていたはずの友人の姿がある。
だが、そこでもリサは豹変した。
ほんの些細なことに腹を立て、友人にキレ散らかしている。
画面の中の友人は、愛想笑いを浮かべながらも、その瞳には明らかな呆れと諦めが滲んでいた。
「あの子、こんな顔してたっけ……?」
リサは呟いた。当時は気づきもしなかった友人の悲しげな表情が、今は刺さるように痛い。
「自分も相手も全く見えてへん、無明レベルマックスのえらいこっちゃ!」
えらいこっちゃ嬢が、吐き捨てるように言い放った。
そして、再びリサの頭上で指をパチンと鳴らそうと構える。
「や、やめて!」
リサは思わず叫び、頭を抱えた。
「自分はいきなりブチギレOK、他人様はNG、えらいこっちゃな身勝手さ!」
えらいこっちゃ嬢は慈悲のない言葉を叩きつけ、そのまま指を鳴らした。
ドォォォォォン!
またしてもリサの頭上で爆発が起きる。
「ひ……!?」
リサは短い悲鳴を上げ、その場に蹲った。
手元の盃では、激しい衝撃に揺らされた水面が、ちゃぷちゃぷと不気味な音を立て続けていた。
---
「な、身勝手って、えらいこっちゃんが身勝手だろ!? いきなり爆発させるとか、そもそもどうやって爆発させたの!? それに、むみょう? 何それ?」
リサは混乱と驚きに顔を歪め、捲し立てた。
理不尽な衝撃に震えながらも、その言葉の響きが胸の奥に冷たく居座っていた。
地蔵店長は、慌てふためくリサを優しく見つめ、静かに口を開いた。
「『無明』とは、仏教において、根源的な無知を表す言葉です。事実や真理を知らない、またそれを正しく理解していない状態の事を言います」
お地蔵さん笑顔を絶やさぬまま、その声は染み渡るように響く。
「物事をあるがままに観ない事、それによる愚かさについても、無明と言います」
地蔵店長はさらに言葉を重ねた。
「明かりを智慧とするならば、明かりが無い状態、つまり、智慧が無い状態と言えましょう」
諭すような、けれど一切の濁りがない言葉に、リサは毒気を抜かれたように聞き入った。
地蔵店長は、リサの持つ盃を静かに見つめる。
「えらいこっちゃんが『自分も相手も全く見えてへん』と仰いました。今、盃に映る御自身の過去の御姿を見られた上で、御自身を顧みられたら、その在り方は、相手も自分もしっかり照らしていて明るい状態であると言えましょうかねえ」
その問いかけは、優しくも鋭くリサの核心を突いた。
盃の水面に映る自分は、亜美子を怒鳴りつけ、友人に当たり散らしていた。
自分の感情の嵐に振り回され、周りで誰がどんな顔をしているのか、自分がどれほど醜い表情を浮かべているのか。
その時の自分は、確かに何も見えていなかった、いや、見ようともしていなかった。
リサは何も言い返せなかった。
客観的に突きつけられた過去の自分は、あまりにも暗く、濁っている。
反論しようと開いた口は、力なく閉じるしかなかった。
「……これが、無明……」
リサはただ一言、そう呟くのが精一杯だった。
暗闇の中で、自分が正しいと信じ込んで振り回していた拳が、どれほど空虚なものだったか。
その事実を噛みしめるリサの横で、盃の炭酸水が弾ける音だけが、やけに鮮明に聞こえていた。
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## 盃の告白と、デジタルの処方箋
「人権配慮無視とコンプライアンス無視で、おねえやんを一言で言うたら、えらいこっちゃな『デジタルヒステリー女』!」
えらいこっちゃ嬢が、まるで見透かしたような鋭い視線と共にびしっと言い放った。
リサは驚きのあまり、目を白黒させて固まった。
「デ、デジタル……ヒステリー?」
言葉の意味が追いつかず、ただ呆然と立ち尽くすリサ。
地蔵店長が、その様子を見て静かに口を開いた。
「ヒステリー、あるいはヒステリックとは、元々は精神医学用語として使われていた言葉ですが、現在は差別的な言葉として、ジェンダーの偏見という観点から言われなくなりました。えらいこっちゃんが、コンプライアンスや人権配慮について前置きされたのは、その事からです」
お地蔵さん笑顔を絶やさぬまま、歴史的な背景を丁寧に説明する。
「現在は、そういった言葉は差別的用語として問題視されていますから、無遠慮にぶつけたりすることは無いにしても、突如として感情が爆発する状態を最も的確に表した言葉であり、まさにえらいこっちゃんが仰る通りの状態と言えましょう」
地蔵店長は、優しい笑顔のまま、リサの脆い部分を鋭く、的確に指摘した。
「勿論、心療内科に通うべきレベルの症状である事も、現世においてはありましょう。その場合は、速やかに関係医療機関にて治療やケアを受けられることが肝要です」
一旦、医学的な観点からの配慮を前置きしてから、地蔵店長はさらに踏み込んだ。
「そして、己を顧みられて、それが症状では無く、己の煩悩や無明からなる在り方と思われるのであれば、気付いた今ここから、改めて行く事も出来ましょう」
優しくも厳しく、逃げ場を塞ぐような説法が店内に響く。
「……私は、どうすれば……」
盃に映った自分の醜い姿、そして地蔵店長の言葉が重なり、リサの目から涙がひと粒こぼれ落ちた。
うなだれるリサの肩が、小さく震える。
ふと、リサはえらいこっちゃ嬢の言葉が気になり、顔を上げた。
「あ、そういえば……えらいこっちゃんは、『デジタル』とも言ってたね。どういう意味? 私、スマートフォンばっかり触ってるとかそういう意味? そりゃ、これからは食事中はスマートフォンを触らないようにしようとは思うけど」
リサの問いに、えらいこっちゃ嬢が再び指を突きつけた。
「0か1かの両極端、隙間無さすぎて瞬間湯沸かし器、えらいこっちゃ!」
えらいこっちゃ嬢はさらに畳みかけるようにリサを指差す。
「白か黒か。敵か味方か。格上か格下か。その中間の『ゆとり』が無いから、沸点が低くてすぐに爆発するんや!えらいこっちゃ!」
そう言い放つと、えらいこっちゃ嬢は再び指をパチンと鳴らした。
ドォォォォォン!
またしてもリサの頭上で爆発が起きる。
「ひ!? また!?なんなのさ!」
リサは短い悲鳴を上げて頭を抱えた。
シュワシュワ……。
盃の中の炭酸水が弾ける音が、今のリサの心臓の鼓動のように、激しく、けれどどこか寂しく鳴り続けていた。
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## 己を焼き焦がす怒りの炎
えらいこっちゃ嬢は、さらに突き放すように言い放った。
「相手からしたら、いつ爆発するかわからん危険物体、存在そのものがえらいこっちゃ!」
地蔵店長は、その言葉を受け継ぐように静かに問いかける。
「そのような危険な方と、衆生は共にありたいと思われますかねえ。また、リサさんご自身は、そのような方と一緒に過ごしたいと思われますかな?」
お地蔵さん笑顔を絶やさぬまま、その指摘は優しくも冷徹なまでに真実を突いていた。
「あ……」
リサの脳裏に、あの日の光景が鮮烈に蘇る。
一斉に辞表を叩きつけて去っていった同僚たちの背中。
いつの間にか連絡が取れなくなり、疎遠になってしまった友人たちの顔。
当時は、一斉退職した連中を「根性なし」だと決めつけていた。
友人たちのことも、「どうせ忙しいんだろう」と気にも留めていなかった。
しかし、今ならわかる。
自分の振る舞いや在り方が、周りの人間を恐怖させ、遠ざけていたのだ。
リサは盃に映った自分の醜い姿をもう一度見返し、その事実を痛いほどに思い知った。
地蔵店長は、合掌したまま言葉を続けた。
「怒りの炎、煩悩という炎を周囲に散らす行為は、周囲の人達を傷つけます。そうなれば、誰も火傷したくないから、やがて近寄って来なくなるのは当然の事でありましょう。職場などでどうしても接しなければならない場合も、最大限の距離を取って接することになりましょうから、深い信頼関係を築く事も難しいもので御座います」
地蔵店長の言葉は、静かに、けれど重くリサの心に沈んでいく。
「そして何より。炎を発したその人自身が、その炎で御自身を焼き焦がして傷つけているのです。何時しかその熱さも感じられなくなるほどに神経まで焼き尽くし、己を顧みる感性すらも失い、御自身を顧みる事も出来なくなっていきます」
諭すようなその言葉に、リサは心臓を直接掴まれたような感覚に陥った。
自分が誰よりも自分自身を傷つけ、麻痺させていた。
地蔵店長は、逃げ場のない問いを最後の一撃として投げかけた。
「リサさんは、当時の御自身を、一度でも顧みられた事は御座いますか?」
「…………」
リサは何も答えられなかった。
頬を伝う涙が、ポタリ、ポタリと盃の水面に落ちて、静かな波紋を広げる。
ただ声を殺して涙を流し、うなだれたまま泣き続けることしか、今のリサには出来なかった。
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## 「求不得苦」と「瞋恚」の火
リサは、盃の淵に滴る涙を拭うこともせず、消え入りそうな声で呟いた。
「……別に、怒ろうと思って、怒ってるわけじゃなくて……」
絞り出すような弁明だった。
「それに、私が新入社員だった頃は、もっと厳しかったし。もっときつい事言われた事もあったし……」
それは、彼女が自分を支えるために縋り付いてきた、唯一の正当化という名の杖だった。
地蔵店長は、その杖をそっと取り上げるように、静かに、けれど逃げ場のない言葉を紡いだ。
「その『もっと厳しかった』とは、御自身の振る舞い、御自身が周囲の人にしてきた事と比較されての事でありましょうか? そしてそれは、遍く衆生、全ての人が一律に『リサさんの方がもっと厳しい事態を耐え抜いて来た』と言う評価をする事柄でありましょうか?」
お地蔵さん笑顔を絶やさぬまま、その問いは鋭いメスのようにリサの心の深部を切り裂く。
「それは……」
リサは言葉に詰まった。自分の苦しみが、他者を傷つけていい免罪符になるのか。その根源的な矛盾を突きつけられた。
「仮にそうだとして、リサさんはそのような事をされて、どのように感じられたでしょう? そして、そのような体験をしたリサさんは、同じような事を他者にぶつけても宜しいのでしょうかねえ」
優しく、けれど慈悲深い厳しさを含んだ地蔵店長の指摘が、リサの心に深く染み込んでいく。
「そもそも、どうして、盃に映った御自身の振る舞いをされたのか、御自身で理解できますか?」
お地蔵さん笑顔で問われ、リサは自分の内側を覗き込んだ。
「……自分の言った通りに、あの子達が動かなかったり、そのせいで自分の仕事が増えたり、ペースを乱されたり、御客さんに怒られたりするのが嫌で……」
それは、あまりにも自分本位な、剥き出しの本音だった。
「つまり、リサさんの思い通りにならない事が、気に入らなかったことに起因するのでありましょうか?」
柔らかな問いに、リサは抗う力もなく、ただ黙って小さく頷いた。
「なるほど」
地蔵店長は満足げに、静かな笑みを浮かべた。
そこへ、えらいこっちゃ嬢が待ってましたと言わんばかりに割って入る。
「自分の思い通りにならんからって怒り散らして自分に周りを合わせようとするなんざ、えらいこっちゃな傲慢さ!」
びしっと指を突き立てる彼女の言葉は、リサの胸に深く突き刺さる。
「思い通りにならない事、自分の欲しい環境や結果にならない事。仏教では『四苦八苦』と言う中の『求不得苦』と言う言葉で教えて下さいます」
地蔵店長は柔らかい笑みを浮かべ、静かに合掌した。
リサは、零れ落ちる涙を指の背で拭いながら、その言葉を反芻した。
「四苦八苦って、悪戦苦闘するとか、そういう意味かと思ってました」
教えを乞う子供のような、素直な響きがリサの声に宿り始めていた。
「確かに、現世では四苦八苦について、そのような意味でつかわれることが多々ありますね。そしてその中の一つ『求不得苦』について、仏様の教えとしては、今言った通り、自分の思い通りにならない苦を表した言葉と意味で御座います」
地蔵店長は、店内の空気を温かく包み込むような声音で続けた。
「そして、その求不得苦によって、思い通りにならない事に対して生じる感情や思い……リサさんの場合は『怒り』ですね。この怒りを仏教では三毒の煩悩の一つ『瞋恚』と言います」
お地蔵さん笑顔のまま、その煩悩の正体を説いていく。
「瞋恚……」
リサは、その聞き慣れない、けれど重々しい響きを持つ言葉を、噛みしめるように復唱した。
自分の内側で燃え盛っていた、あのコントロールの効かない熱い塊に、ようやく名前が付いた瞬間だった。
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## 怒りの炎を鎮める「気づき」の処方箋
「その、瞋恚……怒りを完全になくす修行をすればいいんですか?」
リサは、縋るような眼差しで地蔵店長を見つめた。
今にも消え入りそうな、けれど必死なその表情には、これまでの自分を捨ててでも変わりたいという切実な思いが滲んでいる。
地蔵店長は、柔和な笑みを絶やさず、静かに首を振った。
「心を持つ人という生き物、人間という生物である以上、怒りを無くすことは至極難しい事でありましょう」
その声はどこまでも優しく、リサの張り詰めた心を解きほぐすように響く。
「でも、凄い修業をしたお坊さんって、怒らなくなるんじゃないんですか?」
食い下がるリサに、地蔵店長はふっと目を細めた。
「そのような方もいらっしゃるかもしれませんが、リサさんは、そのような修行の果てに、成し遂げられるとお考えでしょうか?そもそもとして、そのような修行をしようと思われますか?勿論、やろうと仰るのであれば止めませんし、それはそれで宜しゅう御座います」
「……途方もなさすぎて、想像すらできません」
リサは正直に答えた。山に籠り、滝に打たれ、己を殺すような過酷な日々。今の自分には、そんな力も覚悟もない。
「正直な御感想だと思いますよ。そもそも、沸いて来る怒り自体を無くそうという事自体、土台無茶な話です」
地蔵店長は、カウンター越しにリサを見つめ、諭すように言葉を継いだ。
「肝要は、『怒りが沸いた時』に、気付く事が出来るかどうか、で御座います」
「怒りに、気付く……?」
リサが首をかしげると、地蔵店長はさらにお地蔵さん笑顔を深めた。
「このように思ったことは御座いませんか?同じような怒りを覚える場面に遭遇したのに、一方は激しく怒り、一方は穏やかにやり過ごす。このような違いがある事に」
「た、確かに……」
リサは、かつての職場の同僚たちの顔を思い浮かべた。自分が激昂するようなミスが起きても、眉一つ動かさずに対応していたスタッフもいた。
「激しく怒り出す人は、まさに、えらいこっちゃんが仰るように、瞬間湯沸かし器の如く、0か1か。己に気づく事無く、パッと感情が移り変わっています」
シュバッ、と地蔵店長が扇子を広げるような仕草を見せる。
「一方、穏やかにやり過ごす方は、方法は色々ありますが、怒り出す前に、御自身の状態に気づいて立ち止まり、怒りをあらわにするか、そのままやり過ごすか、それを御自身で決められていると言えます」
リサは目を見開いた。
怒りは勝手に爆発するものだと思っていた。けれど、そうではないのか。
「沸いてくる感情に流されるか、しっかり気付いて立ち止まり、次の一手を自身で選択して決めるか。その違いで御座います」
地蔵店長は、リサの心の揺らぎを優しく包み込むように、合掌した。
「立ち止まって、気付く……」
リサは、地蔵店長の言葉を丁寧に反芻した。
これまでの自分は、怒りが沸いた瞬間にその炎に飲み込まれ、周りを焼き尽くしていた。
けれど、もしそこに「気付く」というわずかな隙間、ゆとりを作ることができたら。
0から1へ飛び移る前に、一度立ち止まることができたなら。
シュワシュワ……。
盃の中で弾ける炭酸水の音が、今はリサを急かすのではなく、静かにその決意を見守っているように感じられた。
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怒りを手放す「気づきのスイッチ」
地蔵店長は、カウンター越しにリサを見つめ、にこやかに問いかけた。
「リサさん、『アンガーマネジメント』と言う言葉を御存じでしょうか? 怒り出す前に 6秒間立ち止まる、と言うお話です」
リサは記憶の断片を探るように視線を泳がせたが、すぐに力なく首を横に振った。
「……そんな言葉、どこかの自己啓発本で見た気がしますけど、読んだ事ありません」
「感情のピークが約 6秒だから 6秒ルールで、と言うお話もありますが、肝要は『アンガーをマネジメントする』……つまり、怒りを覚えた時にどう対応するか、と言う事に御座います」
「アンガー、マネジメント……」
リサはその言葉を、新しい呪文を覚えるように呟いた。
「そして、仏教においても、怒りなどの感情に飲み込まれずに、気付いて対応する手法が説かれています。私は、より伝わりやすくするために、これを『気づきのスイッチ』と呼んでおります」
「何ですか? その気づきのスイッチって」
リサは思わず身を乗り出した。今の自分にとって、それは暗闇の中に差し込んだ一筋の光のように思えた。
「これは、実際にタイの寺院などで教えられている手法ですが、『手動瞑想』と言うものがあります。瞑想とありますが、どうぞ身構えずに聞いて下さいまし」
地蔵店長はそう言うと、お地蔵さん笑顔のまま、ゆっくりと手を動かし始めた。
1. ぱっと右手を上げ、その手をお腹に当てる。
2. 次に左手をぱっと上げ、同じようにお腹に当てる。
3. 更に、右手をパッと上げてから、最初の一の位置に戻す。
4. 最後に、左手をパッと上げてから元の位置に戻す。
規則的な、けれどどこかユーモラスな動き。地蔵店長はそれを繰り返しながら解説を加えた。
「これを繰り返しながら、上げた右手にパッと気づく。お腹に当てた右手にパッと気づく。上げた左手にパッと気づく……。これを繰り返すのです」
リサは地蔵店長の動きを食い入るように見つめた。
「そして、途中で雑念が沸いたりしても、またパッと手に気づく事に戻ります。雑念が沸いても、それにとらわれなければよいのです」
地蔵店長の手の動きは、迷いなく、けれど柔らかい。
「集中系の瞑想もありますが、今はこういった手法もあるのだと知って頂ければ十分でありましょう。もし深く興味を持たれたなら、実際に瞑想を教えて下さる講座や瞑想会へ赴いて、専門の方から習われると良いでしょう」
地蔵店長は、そこで少しだけ表情を引き締め、大事な注意を付け加えた。
「瞑想は、きちんと教えられる方から教わる事が大切ですからね。独学だと、冗談ではなく『瞑想が迷走』になる危険もはらんでいますから」
その絶妙な例えに、リサは思わず少しだけ表情を緩めた。
「……はい」
深く、静かに。リサは地蔵店長の言葉を胸に刻み、大きく頷いた。
怒りの炎に飲み込まれる前に、一度立ち止まり、自分自身の「今」に気づく。
そのためのスイッチを、彼女は今、この不思議な食堂で手に入れようとしていた。
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## 気づきのリストバンドと再生の誓い
地蔵店長は、慈愛に満ちた眼差しでリサを見つめ、静かに言葉を添えた。
「この手動瞑想は、感情に流されそうになった時に、気付いて立ち止まる訓練としてとても有効です」
その声は、迷えるリサの進むべき道を照らす灯火のように温かい。
「肝要は、感情が沸いて来た時に、しっかりと気づくスイッチを備えているかどうかで御座います。今言った瞑想を習いに行って体にしみこませるも良し、感情が沸いてきたら、指先等、体のどこかに意識を一旦向ける事で『立ち止まる隙間』を備えるもよし、方法は多々御座います」
地蔵店長がお地蔵さん笑顔でそう締めくくると、横からえらいこっちゃ嬢が「ほいさ!」と声を上げた。
「道具に頼るのも、えらいこっちゃな有効技!」
彼女はどこから取り出したのか、黒いリストバンドをリサの左手首に力強く巻き付けた。
「……え?」
リサが手首を見ると、そこにはドカンと派手な爆発の絵が描かれており、その真ん中に「えらいこっちゃ」と力強い文字が躍っている。
「怒り出したら、こいつを見て、えらいこっちゃ状態にある己を知るべし!」
えらいこっちゃ嬢は、エッヘンと誇らしげに鼻を鳴らし、両手を腰に当てて胸を張った。
あまりに直球でユーモラスなそのデザインに、リサの口元からは自然と笑みがこぼれた。
「ふふ、何なのこれ……でも、そっか。最初はこれをスイッチにして自分を知るのもいいかもね。これだけインパクトがあると、嫌でも気になるもんね。有難う、えらいこっちゃん」
リサは、手首の「爆発」を指先でなぞりながら、柔らかな表情で微笑んだ。
心のトゲが少しずつ抜け、代わりに温かな決意が染み込んでいくのを感じていた。
リサは姿勢を正し、カウンターの向こう側にいる全員へと視線を向けた。
「有難う御座います、地蔵店長さん、えらいこっちゃん。それに、凜華さん、ラビさん。御料理、とても美味しくて……身も心も、栄養で満ち足りた気がします」
リサはカウンター越しに、一人一人の顔を真っ直ぐに見つめて感謝を伝えた。
すると、えらいこっちゃ嬢が「ぴょん!」と小気味よい音を立てて隣の椅子に飛び乗った。
彼女はリサの目線の高さに立つと、小さな手でリサの頭をよしよしと優しく撫でる。
「ちゃんと全部綺麗に食べてお礼が言えて、えらいやっちゃなおねえやん!」
思いがけない称賛と温かな手の感触に、リサの心に溜まっていた刺々しい何かが、音を立てて溶けていく。
「ふふ、ありがと」
リサは、自分でも驚くほど自然な、穏やかな笑みを浮かべて答えた。
リサは、自分の過去を映し出していた盃を手に取った。
シュワシュワと微かに音を立てる炭酸水を、一滴残らず一気に飲み干す。
喉を通る刺激が、停滞していた心に活力を与えてくれるようだった。
コツン。
丁寧に盃をカウンターへと置いたリサは、居住まいを正して静かに合掌した。
「御馳走様でした」
深く、心を込めてお辞儀をする。
立ち上がったリサの背筋は、店に来た時とは見違えるほど真っ直ぐに伸びていた。
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## 摩訶不思議食堂の灯火と新たな旅立ち
リサは立ち上がると、自分のバッグを引き寄せて財布を取り出した。
「それじゃあ、お会計、お願いします」
地蔵店長は、ふっくらとした顔に慈愛に満ちた笑みを浮かべ、静かに手を合わせた。
「当店では御布施形式にしております。決まった金額は御座いません。リサさんの、その時のお気持ちで宜しゅう御座いますよ」
「それじゃあ……今日の夕飯代にしようと思ってた金額だけだと、足りなさそうだから……」
リサは財布の中を覗き込み、少し考えた。
もともと使おうとしていた1000円札を取り出し、さらに2000円を追加してカウンターに置く。
今の自分にとって、この3000円は決して安くはないが、この店で受け取った「心の栄養」には代えられないと感じていた。
「確か、これも……」
リサは財布のポケットに折りたたんで入れていた、今自分が働いているスーパーのチラシを思い出し、えらいこっちゃ嬢にお金と一緒に手渡した。
「これ、下に割引券があるでしょ? それを使えば2割引きで買えるから。広告に書いてある指定の曜日しか使えないけどね」
えらいこっちゃ嬢は、チラシを受け取ると目を大きく見開いて、まじまじとその割引券を見つめた。
「毎度あり! 割引券ありがとちゃん!安く買えて、えらいこっちゃな大助かり!」
小柄な身体を弾ませるようにして喜びを表現すると、受け取ったものを持ってトテトテとレジの方へ駆けていく。
厨房の奥から、調理を終えた凜華とラビも顔を出した。
リサを温かく送り出すために、二人は並んでカウンターの前に立つ。
「また煮魚が食べたくなったら、いつでもお越しくださいまし。お待ちしておりますえ」
凜華は緑色の耳を揺らしながら、割烹着の裾を整えて丁寧にお辞儀をした。
「私は揚げ物担当やさかい、次も揚げたて熱々を御用意させて貰いますえ。サクッといい音、聞かせますさかいに」
ラビも兎らしい長い耳をぴこぴこと動かし、人懐っこい笑顔でリサを見つめた。
「はい、有難う御座います」
リサはもう一度、全員に向けて深々とお辞儀をした。
かつては他人に頭を下げることさえ屈辱だと思っていた自分が、今はこんなにも自然に感謝の言葉を口にできている。
ガラリ、と音を立てて木製の引き戸を開けると、夜の冷たい空気が流れ込んできたが、不思議と寒さは感じなかった。
リサは一歩、外へと踏み出す。
「お越しくださいまして、誠に有難う御座います。道中、お気をつけて」
背後から、地蔵店長の穏やかで芯のある声が聞こえてきた。
振り返ると、店の温かな明かりの中に、地蔵店長が合掌して微笑んでいる姿があった。
リサは小さく手を振り返し、夜の闇へと消えていく。
地蔵店長は、リサの背中が見えなくなるまで、その成長を願うような、暖かな眼差しでじっと見送っていた。
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## 摩訶不思議食堂からの帰路と気づきの誓い
店の外へ一歩踏み出すと、夜の静寂を切り裂くようなパチパチという火花の音が聞こえてきた。
見れば、あの燃える片輪を持つ不思議な牛車が、門の前で静かにリサを待つように停泊している。
「あ、そういえば、隣で食べていらっしゃったのに、いつの間にかいなくなったと思ったら、車を用意して下さってたんですか?」
リサが驚き混じりに尋ねると、運転席から身を乗り出した方輪車が、いたずらっぽく目を細めた。
「ふふ、御名答~。最初に往復運賃もろてましたさかい。今日は潮風に当たってましたからね、ちょっと早めにお店出て整備してたんですわ」
黒いベレー帽の縁に手を添え、彼女は柔らかに微笑む。
「あれって、往復料金だったんだ」
リサの口元に、自然と穏やかな笑みがこぼれた。
あの時の訳の分からない支払いが、自分を無事に家まで送り届けるための約束だったのだと知り、胸の奥がじんわりと温かくなる。
「ほな、静岡県は下田市のお住いの寮まで、きっちり送らせて貰いまっせ」
方輪車はそう言ってウインクを投げると、ベレー帽をきりっとかぶり直した。
「はい、有難う御座います。お願いします、方輪車さん」
リサは促されるままに、どこか居心地の良さを感じ始めた牛車の座席へと乗り込んだ。
ゴォォォ……という、火炎とエンジン音が混ざり合ったような独特の轟音が響き渡る。
牛車は夜の闇を滑るように走り出した。
窓の外を流れる景色は、現実のものとは思えないほど鮮やかで、それでいて夢のように淡い。
方輪車の鮮やかで無駄のないハンドル捌きに身を任せているうちに、牛車は瞬く間に見覚えのある景色の中へと入り込んでいった。
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やがて、リサが住む下田の寮の前に、牛車は静かに、そして正確に停止した。
「ほな、御達者でー。またお会いしまひょ」
方輪車は白い歯を見せて笑い、軽やかに手を振った。
リサが車を降りるのを待って、燃える車輪を再び回転させ、夜の闇の向こうへと猛スピードで走り去っていく。
その残像は、まるで尾を引く流星のようだった。
リサは、車が完全に視界から消えるまで、その場に立ち尽くしていた。
「不思議な人達に、不思議な体験……そして、大切な教え……」
周囲はいつもの静かな夜に戻っている。
しかし、リサの心の中には、これまでにないほど強固な「光」が灯っていた。
彼女は左手首を持ち上げ、そこに巻かれた黒いリストバンドをじっと見つめる。
派手な爆発の絵と、その中央に力強く踊る「えらいこっちゃ」の文字。
かつての自分なら「ダサい」と一蹴したであろうその道具が、今は何よりも頼もしい護符のように感じられた。
明日、亜美子と向き合わなければならない。
逃げ出したくなるような恐怖や、反射的に湧き上がるであろう「瞋恚」の炎。
けれど、このリストバンドが目に入るたび、自分は立ち止まることができるはずだ。
0か1かのデジタルな世界から抜け出し、相手と自分を正しく照らす「智慧」の明かりを灯すために。
リサは「えらいこっちゃ」の文字を指で優しくなぞり、深く、深く呼吸を整えた。
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##左手首の導きと過去への謝罪
翌日。
仕事前にリサは副店長の元を訪れた。
昨日、かつての後輩である亜美子と再会した事。
そして、1年前に自分が彼女に対してどれほど酷い仕打ちをしたか。リサは逃げずに、全てを正直に打ち明けた。
「……自分勝手な理由で、彼女を傷つけてしまいました。終業後、亜美子さんときちんと話をする場を設けていただけないでしょうか」
深々と頭を下げて懇願するリサに、年配女性の副店長は優しく微笑んだ。
「はい、確かに承りました。石山さんがそこまで覚悟を決めているのなら、私に異論はありません。それじゃあ、今日も張り切ってお客さんを御迎えしましょうか」
副店長の温かい言葉を背に、リサは仕事に入った。
午前中のレジ業務を何とかこなし、午後は売り場での品出しに精を出す。
商品を棚に並べていると、「あの、広告にあったカレールゥって、ここに無いんですか?」と背後から声をかけられた。
リサは手を休め、笑顔で振り返りながら答える。
「ああ、広告の品は、今日は店の入り口のところに……え?」
リサの言葉が止まった。
目の前に立っていたのは、1年前まで頻繁に映画を見に行ったり、共に時間を過ごしたりしていたかつての友人だった。
しかし、リサが一方的に感情をぶつけ続けた結果、最後の手紙やメッセージツールは全て着信拒否され、一切の連絡が取れなくなっていた女性だ。
声をかけてきた友人も、リサの顔を見て絶句した。
「……あ」
互いに固まったまま、沈黙が流れる。
リサの胸の奥で、かつての醜い感情が鎌首をもたげた。
『何で私の事をブロックしたの!?』
『勝手にいなくなるなんて、あんたの方が酷いじゃない!』
どす黒い怒りが喉元までせり上がり、リサが叫ぼうとして左手を振り上げた、その瞬間だった。
手首に巻かれた黒いリストバンド、「えらいこっちゃ」の文字がリサの視界に飛び込んできた。
どことなく、その文字がバチッと鮮やかな光を放ったように見えた。
(えらいこっちゃ!)
地蔵店長の穏やかな笑顔、えらいこっちゃ嬢の鋭い指摘、凜華とラビが作った滋味溢れる料理。
摩訶不思議食堂で体験した全ての出来事が、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。
すると、どうだろう。
沸騰しかけていた感情が、まるで魔法のようにスーッと引いていくのをリサは確かに実感した。
(ああ、これが……「怒りが沸いた瞬間」なんだ)
今までは気づく間もなく爆発していた自分の感情の動きを、リサは初めて、手に取るように冷静に捉えることができた。
これが、立ち止まるための「隙間」なのだ。
リサは振り上げようとした左手を静かに下ろし、スッと深く頭を下げた。
そのまま、震える声を絞り出す。
「……ずっと、不快な思いをさせて来てたんだよね。今まで、ごめん」
友人は驚き、目を見開いて立ち尽くしている。
リサは顔を上げ、かつての友人の瞳を真っ直ぐに見つめて言葉を続けた。
「あんたに、いきなり怒鳴りつけたり、そのくせ、次の瞬間には何食わぬ顔で接して……。そういうのをずっと繰り返してきてたって、昨日、思い知らされたの。本当に、すみませんでした」
リサはもう一度、今度はより丁寧に、心からの謝罪を込めて頭を下げた。
かつての自分がどれほど「無明」の中で他者を傷つけていたか。
手首のリストバンドは、今のリサを確かに正しき道へと繋ぎ止めていた。
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## 0か1かの間にある光
「……あたしも、いきなり何も言わずにブロックして……一度、きちんとあたしがどう思ってるかとか、ちゃんと話をしてみるべきだった。ごめん」
友人は小さく肩を震わせ、リサと同じように深く頭を下げた。
かつてのリサであれば「今更何よ」と切り捨てていたであろうその謝罪が、今は驚くほど素直に心へと染み込んでいく。
「ううん、私がそうさせたんだから」
リサの言葉に嘘は無かった。自分の在り方が、大切な友人から対話の機会すら奪っていたのだ。
「……驚いた。あんたから頭を下げた事なんて、今まで一度も無かったから」
友人は顔を上げ、信じられないものを見るような目でリサを見つめた。
その瞳には、かつての恐怖や諦めではなく、戸惑いと僅かな期待が混ざり合っている。
「自分の愚かさに気づかせてくれた人がいて、変わるきっかけをくれたんだ」
リサは左手首のリストバンドを無意識に指先でなぞった。
「もう、あんな横柄な態度にならないように変わるって約束する」
その宣言は、リサ自身に向けた誓いでもあった。
友人は暫くの間、リサの顔をじっと見つめていたが、やがてふっと息を吐き出した。
「……正直、まだ警戒してる。またいつキレられるか分からなくて怖い。……けど、信じてみる。あんたがちゃんと変わっていくかどうか、ちゃんと見てるから」
「うん、有難う……」
リサはもう一度、今度は感謝を込めて頭を下げた。
許されたわけではない。けれど、執行猶予を与えられたような、そんな温かな重みが胸に宿る。
「カレールゥだったよね、こっちだよ」
リサは気持ちを切り替え、キビキビとした動作で歩き出した。
カレールゥが陳列されている棚へと友人を案内していく。
スタスタと通路を歩きながら、リサは自分の内側に起きた劇的な変化を噛み締めていた。
確かに、怒りが沸いた瞬間に気づき、立ち止まる事が出来た。
かつてなら0から1へと一気に飛び移っていたはずの感情の裂け目に、今は確かな「隙間」が存在している。
(……有難う、えらいこっちゃん、地蔵店長、皆さん……)
視界が急激に潤み、鼻の奥がツンと痛くなる。
自分を救ってくれた摩訶不思議食堂の面々の顔が浮かび、リサは危うくその場で泣き出しそうになった。
「え? えらいこっちゃ? どうかしたの?」
独り言が漏れていたのか、友人が不思議そうに首をかしげる。
リサは溢れそうになる涙を必死に堪え、満面の笑みで振り返った。
「ううん、えらいこっちゃな御利益だなって思って!」
コロコロと鈴が鳴るようなリサの笑い声が、スーパーの店内に明るく響き渡った。
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##えらいこっちゃな再生と再会
終業後の事務所には、静まり返った空気の中に独特の緊張感が漂っていた。
背もたれ付きの椅子に座る亜美子と、その隣で見守るように座る副店長。
リサは二人の前で足を止め、深く息を吸い込んだ。
「……亜美子。ここでは亜美子の方が先輩だから、亜美子先輩って呼ぶべきかな?」
リサが遠慮がちに切り出すと、亜美子は感情の読めない瞳でリサを見つめ返した。
「……私の方が年下ですから、亜美子でいいです」
「そう……亜美子さん。1年前、以前の職場では大変失礼なことを繰り返して……何度も何度も傷つけてしまって、誠に申し訳ありませんでした」
リサは腰を折り、深く頭を下げた。
「今更だろうけど、謝らせてください。本当にすみませんでした」
もう一度、さらに深く頭を下げる。事務所の床を見つめるリサの視界に、自分の震えるつま先が映った。
「……『ヒステリー女』」
亜美子がポツリと漏らした言葉に、リサの肩がビクッと跳ねた。
「差別用語として注意されている言葉だし、当時はあなたに直接ぶつける人はいなかった。あなたが怖いというのと、差別用語を他人様にぶつけることは駄目だろうという、周囲の大人の配慮で」
亜美子の声は淡々としていたが、それゆえに言葉の重みが際立つ。
「リサさんの事、みんなは陰でそう呼んでました」
「ヒステリー女、か・・・うん。自分でもそう思う。私を言い表す、最高に的確な言葉だと思うわ」
リサは否定しなかった。昨夜、盃に映った自分の醜態を思えば、それは罵倒ではなく事実だった。
「ただ、陰口と言えば陰口だから……陰口を言ってすみませんでした」
亜美子が小さく頭を下げた。
リサは、左手首に巻かれた「えらいこっちゃ」のリストバンドをそっと撫でた。
「もし、当時にその事を知ったら、私は更に怒鳴り散らしてただろうね」
自嘲気味に笑い、リサは言葉を続けた。
「でも……みんなにそうさせたのは、他でもない私。みんな、凄いストレスだっただろうね」
リサは顔を上げ、亜美子の目を真っ直ぐに見据えた。
「もう二度と、あんな過ちは繰り返さないって約束します。そして、亜美子に赦して貰えるように、正しく変わると約束するわ」
「……変わる、か…もうすでに、リサさんは変わったと感じてます。ほんと、変わりましたね」
亜美子の声に、微かな驚きが混じった。
「あの頃は、絶対に頭を下げるような人じゃなかったのに。お客さんには形式上頭を下げても、後で『なんなのあのくそ客』とか毒づいてたのに……一体、何があったんですか?」
「それは……一言で言うと、えらいこっちゃ、な出来事があったから、かな」
リサが真面目な顔でそう答えると、亜美子の頬が不意に緩んだ。
「……ふふ、何ですかそれ」
再会して初めて見せた、亜美子の笑顔。
あの時、新入社員として入ってきた彼女を見て「凄く美人な子だ」と思った、あの眩しい笑顔だった。
それを見た瞬間、リサの目から熱い一筋の涙が溢れ出した。
「……私も、最初はよくわからなかったんだけど……話せば長くなるんだけどね。美味しい料理の店で、色々と私の駄目なところに気づかせてくれて、色々教えて貰って……これを貰ったの」
リサは左手首を差し出し、「えらいこっちゃ」と書かれたリストバンドを亜美子に見せた。
「何ですか、その『えらいこっちゃ』って? 不思議だけど、何となく可愛い」
亜美子は声を立てて笑った。
「うん、私もなんだか、とても可愛くて愛おしく思えてね。ふふ、「えらいこっちゃ」ってずっと言ってる女の子から貰ってね……」
リサは涙を拭い、摩訶不思議食堂で出会った地蔵店長や方輪車、人ではない可愛いくて美しい料理人達、そして風変わりでえらいこっちゃな少女の話をゆっくりと語り始めた。
窓の外では下田の夜が深まっていく。
事務所の明かりの下で向き合う二人の間には、昨日までは存在しなかった温かな「ゆとり」が、確かに芽生え始めていた。




