☆2かいめ☆ 猫と箸とカップ麺
大地は「はぁぁ……」と、特大のため息を吐き出しながら、自分の布団の上に寝かせた少女を見やった。
男の殺風景な一人暮らしの部屋。
そこに、場違いすぎる豪奢な漆黒のドレスを着た少女が、スースーと無防備な寝息を立てている。
「う~ん……結果的に見捨てられなかったとはいえ、客観的に見たら完全に誘拐、あるいは事案だよな、これ……」
彼はガシガシと頭を掻きむしり、どうにもならない現実から目を逸らすように、天井の照明を見上げた。
39歳、独身。この歳で前科持ちになるリスクを抱え込むとは、人生何が起きるかわからない。
(にしても、あんなに壮絶な腹の音、よっぽど腹が減ってるんだろうな)
スヤスヤと眠る小さな顔を見下ろすと、先ほどの生意気な態度はどこへやら、ただの子供にしか見えない。
(目を覚ましたら、とりあえず飯を食わせてやるか。まずは腹を満たして多少冷静になってからだな。その後、この途方もない問題をどうするか考えよう)
――数分後。
大地が無意味な脳内シミュレーションを続けていると、背後の布団からバサリと衣擦れの音がした。
「ハッ……!」
弾かれたように起きたラビリスは、乱れた銀髪の隙間から、輝く真紅の瞳で部屋の隅々を見回した。
「な、なんじゃここは……!余をどこへ連れ去った!?」
震える幼い声には、隠しきれない怯えと、それを必死に上書きしようとする虚勢の威厳が混じっている。
「あぁ、ここは俺の家だよ」
大地は、興奮してドレスの裾を握りしめる彼女を刺激しないよう、穏やかな声で答えた。
「急に君が倒れたから、とりあえずここに連れてきたんだ」
「……これが、そなたの『家』じゃと?」
ラビリスは軽蔑を隠さず、ふんと鼻で笑う。
「馬鹿にするのも大概にせい!余の衣装室より狭いではないか!」
「一体どんな家に住んでんだよ……」
大地はため息を吐き、諦めたように続ける。
「……あぁ、そうか。魔王の娘さんだから、お城とかなのか、君の基準は」
「ま、いいや」
大地はここで不毛な口論を続けても無意味と判断し、潔く思考を放棄した。
「それより、腹が減りすぎて死にそうなんだろ?なんか食うか?」
彼がそう問いかけながら、棚を指差した。
「と言っても、今ウチにあるのはカップ麺ぐらいだけどな」
「な、なんという屈辱……!」
ラビリスは、膝の上に乗せた小さな拳をプルプルと震わせ、真っ赤な顔で俯いたまま呻く。
(魔王の娘たるこの余が、下等な人間の施しを受けるというのか……!?し、しかし……このままでは、敵地で空腹のまま果てるという、魔族の歴史に刻まれるレベルの大恥をさらすことに……っ!)
彼女の小さな体は、魔王の娘としての「矜持」と、胃袋の底から突き上げてくる猛烈な「食欲」の間で、激しく火花を散らしていた。
「……ふっ」
激しい葛藤の末。
ようやく何らかの折り合いをつけたらしいラビリスが、フッと顔を上げた。
そこには、再び傲慢な、それでいてどこか無理のある「魔王の娘」の表情が張り付いている。
「よ、よし。ならば人間よ、その下等な食い物とやらを早々に献上するがよい!」
(……ったく、どの口が言ってんだか。この態度は一生直らなそうだな)
大地は心の中で毒づきつつも、反論する気力すら湧かないほど疲れ果てていた。
「はいはい、献上いたしますよ。お口に合うか知らんけど、すぐ作るからそこで大人しくしてろ」
彼はこれ以上の不毛な問答を切り上げるように重い腰を上げた。
狭いキッチンの隅で、ゴトンと音を立てて電気ケトルに水を注ぐ。
カチッ。
スイッチを入れる小さな音が、魔王の娘を迎え入れたばかりの静かな部屋に響いた。
――数分後。
ケトルの水がボコボコと沸き立つ音が響き始めた頃。
部屋の隅から、音もなく『漆黒の塊』がぬるりと這い出してきた。
大地が長年連れ添っている、カギしっぽがトレードマークの黒猫『リキ』だ。
リキは「新顔か?」とでも言いたげに、薄緑色の瞳を細めながら、迷いなく布団の上の少女へと歩み寄る。
「っ……!う、うわああああぁぁぁぁ!!!」
その存在に気づいた瞬間。
ラビリスは、さっきまでの態度が嘘のように、布団の上を転がるようにして壁際まで飛び退いた。
「な、なんじゃ!その漆黒の毛並み!この……底知れぬ邪悪なオーラを放つケダモノは!!」
叫び声は明らかに恐怖に震えている。
「……は?リキ……ただの猫じゃないか」
大地はケトルのスイッチを切り、あまりに大げさな反応に呆然と立ち尽くした。
「……え、待て。まさか……『猫』を見たことがないのか?」
彼はため息混じりに屈み込み、足元にすり寄ってきたリキの喉元を、慣れた手つきで優しく掻いてやった。
リキは満足げに目を細めると、「ゴロゴロ……」と高らかに喉を鳴らし、大地に全身を擦りつけ始めた。
(な、なんということじゃ……)
その信じがたい光景に、ラビリスは喉を鳴らして絶句した。
(この人間、あの闇の使いのようなケダモノを、いとも容易く懐柔しておる……もしや、只者ではないのか?)
彼女は再び威厳を装い、品定めするような厳しい目線を大地に向けた。
「君もやってみたら?」
「え……余も、このケダモノを支配下に置けるのか?」
威圧的な口調とは裏腹に、ラビリスは恐る恐る、人差し指一本をリキの鼻先へと差し出した。
それは、魔王の娘としてのプライドを懸けた、未知の生命体への初接触だった。
「シャーーッ!!」
瞬間、リキは背中の毛を逆立て、威嚇の咆哮を上げた。
薄緑の瞳が獰猛な三日月型に歪む。
「ひいぃぃぃっ!!」
ラビリスは情けない悲鳴を上げ、布団の端まで後ずさった。
その顔は、先ほどまでの「魔王の娘」の面影など微塵もないほど、涙目で引きつっている。
「きき、貴様ぁ!この卑怯者め!余を謀ったな!!」
ラビリスは、今にもこぼれ落ちそうな涙を必死に堪えながら、震える指先を大地へと突きつけた。
「いやいや、待てって。別に騙してないし、謀ってもないから!」
「黙れ!今、余の油断を誘って、亡き者にしようとしたであろう!!卑劣なり人間!万死に値するぞ!!」
「だから、そんな物騒なことしないって!」
妄想の翼を広げすぎる少女に、大地は天を仰いで深く、長いため息を吐き出した。
「おかしいな……リキは普段、誰にでも懐くんだけどなぁ」
彼は不思議そうに、未だ威嚇を解かない漆黒の猫を見やった。
ただの気まぐれか。あるいは、獣の鋭い本能が、目の前の『異世界人』を無意識に警戒しているのか。
「……ま、考えても無駄か」
気まぐれな猫の思考など、考えたところで答えがでるはずもない。
大地は頭を振って脳内をリセットした。
「とりあえず、飯の準備をしよう」
言いながら、湯気を上げるケトルを手に取り、カップ麺に熱湯を注ぎ込んだ。
「3分でできるから、ちょっと待っててくれよ?」
「さ、さんぷん?とはなんじゃ……?」
ラビリスは、未だリキへの警戒を解かぬまま、不思議そうに小首を傾げた。
「え、そこから……?時間の数え方から説明しないといけないのか……?」
大地は絶句した。
一事が万事これだ。自分の「常識」という土台が、一歩ごとにガラガラと崩れていく感覚に、軽い目眩すら覚える。
「う~ん……あ、そうそう!」
彼は壁にかかったアナログ時計を指差した。
「あの長い針が、3目盛り分進んだら3分だ」
ラビリスは、壁の上で規則正しく動く円形の物体から、一瞬たりとも目を離せない。
「なんじゃあれは……?あの針は何のために動いておる?」
彼女の真紅の瞳に、恐怖とは別の、子供らしい好奇心の色が宿った。
その横顔は、先ほどまでの高慢な魔王の娘ではなく、ただの「知らないことを知りたいだけの少女」のそれだった。
「あれは時計といって、今の時間を知る道具だよ」
「ほ、ほぅ……」
ラビリスの口から、隠しきれない感嘆の吐息が漏れた。
「あんな小さな円盤で時間が可視化できるのか。人間とは、感心するほど便利なものを作るではないか」
その真紅の瞳は、規則正しく進む秒針の動きに、純粋な輝きを宿らせていた。
——が、次の瞬間。
自分が人間に「感心」したという事実に気づいたのか、彼女は慌てて顔を赤くし、声を荒げた。
「ふ、ふん!勘違いするでないぞ!下等な人間に作れるものなど、我ら魔族の叡智にかかれば、容易く作れるのじゃからな!!」
ラビリスは時計から目を離さず、指折り数えていた。
「あの針はもう三つ動いたのではないか?」
「お、そうだな!」
大地はフタを開け、湯気と共に立ち上るカップ麺の匂いを嗅いだ。
「それじゃ、食べるとするか。はい、これ」
彼はテーブルの上にカップを置くと、手慣れた仕草でパチンと割り箸を割り、彼女の前に差し出した。
「…………。……この貧弱な棒は、一体なんじゃ?」
ラビリスは、左右の棒をどう扱うべきかわからず、不思議そうにそれを手に取り見つめている。
「なるほど、お城じゃ箸なんて使わないってか。……悪い悪い」
大地は納得したように頷くと、キッチンから一本のフォークを持ってきた。
「じゃあこれを使えばいい」
「くっ……!なめるな人間め!」
ラビリスは、差し出されたフォークをバシッとはね退けた。
「貴様らが扱える下等な道具なぞ、この魔王の娘たる余にも容易く扱えるわ!!」
彼女は宣言するように言い放つと、不器用ながらも箸を大事そうに握りしめた。
「そりゃ結構なこって……フォークが欲しかったら言うんだぞ」
大地はため息を押し殺し、完全にラビリスとの勝負を放棄した。
どうせ今はなにを言っても無駄だと、彼の人生経験が告げている。
ラビリスは箸を握ったまま、疑わしげに大地に視線を向けていた。
どうやらまだ信用できていないようだ。
しかし、そんなことは気にせず、大地は自分のカップ麺を豪快に掴み、ズズズッと音を立てて啜り始めた。
彼女は目の前で至福の表情を浮かべる男をひとしきり睨みつけた後、ようやく自分のカップ麺を覗き込んだ。
「こんな、白く煮えたぎった紐みたいなもので、本当に腹が膨れるのか? 」
「おう、美味いから食ってみろって」
大地は口いっぱいに麺を詰め込み、頬を膨らませながら自信満々に答えた。
「ほら、伸びる前に早く食ってみろ」
ラビリスは、厳かに両手でカップ麺を持ち上げると、猫のように鼻先を近づけ、「くんくん」と念入りにその香りを確かめた。
(ふむ……。確かに、匂いは美味そうじゃ。……毒物も入っておらぬようじゃし……よし!)
彼女の真紅の瞳に強い決意と、わずかな好奇心が宿る。
そして、プルプルと震える不器用な手つきで、湯気の結界に守られた麺の山に狙いを定めた。
そして、箸を「グー」でガシッと掴むという、およそ食事とは程遠いフォームで麺を掬おうと試みる。
――しかし。
ツルッ!
無情にも、その『紐』は水を得た魚のような滑らかさで、魔王の娘を嘲笑いながら滑り落ちた。
ラビリスは、ギリリ……と食いしばった奥歯を鳴らす。
何度も、何度も。
彼女は戦場に臨む戦士のような形相で挑みかかるが、琥珀色のスープを纏った麺は、彼女の威厳を完膚なきまでに無視し、その都度カップの中へと優雅に帰還していった。
「ぐぬぬぬぬぅ……!!」
ラビリスは幼い喉を震わせて唸り、悔しさのあまり小さな手でバンッとテーブルを叩いた。
「なんじゃこれは!!いつまで経っても余の口に入らぬではないか!!」
その真紅の瞳には、本気の悔し涙が滲んでいる。
「ほらな。言わんこっちゃない」
大地はやれやれと肩をすくめ、用意しておいた「銀色の救い」を彼女の目の前に差し出した。
「とりあえず、このフォークを使え」
ラビリスは屈辱に顔を歪ませながらそれを受け取り、意を決して、その忌々しい紐を小さな口へと運んだ。
ぱくっ。
その瞬間。
真紅の瞳が見開かれ、時間が止まったかのような沈黙が訪れた。
「……ッ、う、美味い!!なんじゃこれは!!!」
舌の上で爆発するのは、これまで経験したことのない、暴力的で、かつ完成された未知の塩味。
化学の粋を集めた琥珀色のスープが喉を通り抜けるたび、彼女の記憶にあった「魔族の宮廷料理」の記憶が、文字通り跡形もなく吹き飛んでいった。
(え?本当にどうなっておるんじゃこれ!?……複雑で深い、この濃厚な風味は……こんなものが下等な人間界に存在しているなど、誰も余に伝えなんだぞ!?)
彼女は感動と衝撃で体が震え、もはや威厳などどこへやら、貪るようにフォークで麺を頬張り始めた。
大地は夢中で麺を頬張るラビリスを、自然と口元が緩むのを感じながら見つめていた。
(ふふ、まるで野生動物だな……)
彼の胸に、じんわりと温かい感情が広がった。
(俺は独身だけど、子供がいたらこんな風に世話を焼くのかなぁ……)
その時、大地の視線に気づいたラビリスは、カッと頬を染めた。
「な、なんじゃ!他人の食事をじろじろと見つめるとは、なんたる無作法!」
彼女はぷいっとそっぽを向いた。
だが、咀嚼するたびに、その小さな頬が幸福そうに膨らんでいるのは、誰の目にも明らかだった。
(さて……とりあえず腹は満たしてやったけど。この後はどうしたもんかなぁ……)
大地は心の中でぼやき、空になったカップ麺から、ラビリスへと視線を移した。
彼女は襲ってきた満腹感と安堵に抗えなかったらしい。
いつの間にか、フォークを握りしめたまま、布団の上で無防備な寝息を立てていた。
「やれやれ……。寝ちゃったか」
大地の口元が、自然と緩む。
あれほど偉そうな口を叩いていた魔王の娘も、腹が満たされれば、ただの年相応な子供にしか見えない。
「色々と聞きたいことはあるけど。……この寝顔を見たら、叩き起こすのはさすがに可哀想か」
「ま、幸い、明日と明後日は休みだ」
彼は都合の良さに感謝した。
「二日間、考える時間がある。この問題は、明日この子が目を覚ましてから、じっくり向き合うとしよう」
ひとまず『保留』という解決策を見出した大地は、風呂を済ませ、最低限の寝る準備を整えた。
壁のスイッチに手をかけ、部屋の電気を消すと、小さな消灯音が深夜の室内に吸い込まれていった。
当然ながら、彼の布団は魔王の娘によって完全に占領されている。
大地は自嘲気味に苦笑いし、布団から少し離れた床に、薄いタオルケットを敷いて横になった。
「それじゃ、おやすみ。ラビリス」
彼は新しい家族のように、小さな声で少女に囁きかけ、非日常の始まりの夜を静かに受け入れた。




