表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/23

二幕 狸戦 その四 「雷撃」

 狭い通路を抜け、道具部屋を蹴り抜け、背後の勝手口へ。

 開け放たれた扉の先に、すでに影は遠ざかっている。


 ……逃がさぬ。


 霧島天晴(きりしまてんせい)の足が、さらに加速した。


 裏手の石畳を踏み越え、小道に差しかかる。


 逃げた狸の男は、肩で息をしながらも、なお走っていた。

 だが……その先に、人影があった。


 着物を纏った若い女性。

 手には三味線を持っている。

 (たぬき)の男は、その場に立ち尽くす彼女の腕を、乱暴に引き寄せた。


「動くなよ、嬢ちゃん。てめぇも舞台の役になってもらうぜ」


 刃物が女性の喉元に突きつけられる。

 恐怖に目を見開く彼女。


 その場に天晴が現れたとき、空気は既に凍っていた。


「一歩でも動いてみろ……この女ァ、どうなっても知らねぇぞ」


 狸の男は、汗と焦りに塗れながらも、女性を盾にして距離を取る。

 人通りの少ない裏通り。ここに守衛も大和もいない。


 だが、天晴は怯まず、わずかに首を傾けて呟いた。


「……女を盾にするのが狸のやり口か」


「チッ、うるせぇ……!てめぇだって手ぇ出せねぇだろ!」


 天晴は、抜刀すらしていなかった。

 それが、狸の男の油断を生んだ。


 その瞬間、天晴が左手をわずかに振る。


「天ノ技・雷撃」


 ズン、と空気が唸った。

 まるで雷鳴が至近で鳴ったような、衝撃音。


 その瞬間……狸の男に向かって、天晴が勢い良く突撃してくる。

 それは雷の如く速度で接近し、強力な斬撃を与える技。


 狙いは刃を握る手、そして、足元。


「がっ…あ……!」


 雷鳴に晒された男の身体が揺れ、ひざまずく。

 刃が落ち、女性を掴む力が緩くなる。


 女性の身体が揺れたその瞬間、天晴が一歩で間合いに入る。

 抱き起こすように引き寄せ、安全圏へと下げた。


「無事か」


 呆然としていた女性が、小さく頷いた。


「……はい……」


 その間にも、狸の男が呻きながら逃げようとする。

 ……が、既に遅い。

 天晴の足がその肩を踏みつけ、動きを止める。


「……動くな。次は、意識ごと斬る」


 呻きながら動きを止めた狸に、大和の声が近づく。


「天晴殿!」


 程なく、数名の守衛と共に駆けつけた酒倉大和(さかくらやまと)が、倒れた狸の男を縄で縛り上げた。


 動けぬまま地面に伏した男の顔には、技を受けた恐怖と、失敗の悔しさが滲んでいた。


「……クソ…誰が、こんな……」


 天晴はそれに何も答えず、ただ振り返り、女性の方を見やった。


 彼女は、着物を握りしめ、まだ震えながらも立ち上がる。


「……助けてくださって、ありがとうございました」


 震える声だったが、はっきりとした言葉だった。


 彼女は、落としてしまった三味線を拾い、天晴に頭を下げた。

 道端の塵が風に舞う中、着物の裾がかすかに揺れる。


 天晴は、目の前の女性をしばらく見ていた。

 頭を下げられることには慣れていた。……だが、それはたいてい恐怖か、取引の形式に従っただけだった。


 礼を言われる。

 それは、妙に距離が近く、温かい。

 だから、少しだけ困った顔になる。


「……気にするな。俺は、ただ逃げた奴を追っただけだ」


「それでも……私、死ぬかと思いました。見ず知らずの私を、あんな風に助けてくれるなんて……」


 彼女は、少しだけ笑った。

 その笑みは、どこか柔らかく、肩の力が抜けている。


 「あなた、お名前は……?」


 「……霧島天晴」


 「霧島……天晴さん」


 その名を、初めて呼ばれたような声音だった。

 芝居小屋の喧騒がまだ遠くに響くなか、ふたりだけが切り取られたような静けさの中にいるようだ。


 「……お前は?」


 「(こと)といいます。こう見えて、遊郭で働いてるんです。今日は、たまたまお使いで……」


 笑いながら話す琴の声は、柔らかい日差しのようだった。

 戦いの痕が残る路地裏には、場違いなほど優しい音だった。


 「霧島さん……冷たい人なんだと思ってましたけど、違うんですね」


 「……そうか」


 「はい。ありがとうございます、本当に」


 もう一度、深く頭を下げる琴。


 その時、後方から足音が近づいてきた。


 「天晴殿! 拘束完了しました」


 大和と、数名の守衛が、縄を打たれた狸の男を引き連れて戻ってくる。

 天晴はそちらを一瞥し、頷いた。


 琴もその様子を見て、何かを察したようだった。


 「お仕事……なんですね」


 「……ああ」


 「じゃあ、もう行かれるんですか?」


 「……そうなる」


 しばしの間……琴は唇を少し噛み、それから微笑んだ。


 「……また、どこかでお会いできたら嬉しいです」


 「…………」


 言葉を返す代わりに、天晴はほんのわずかだけ頷いた。

 それで琴は満足したのか、深くお辞儀をして、そっと道を離れていった。


 後に残されたのは、縄付きの狸と、これから進むべき任務だけだった。


 「……大和。屋敷に戻るぞ」


 「はい」


 天晴は、風の吹くまま歩き出した。

 ほんの少し、背後の気配が気になったが……振り返ることはしなかった。



二幕その五に続く

登場人物紹介

22歳の女性。貧農の生まれで、遊郭で働いている。生活のために芸者をやっていて、ときに遊女もやる。だが、あまり芸者の素質はない。実は文書の才能がある。今回は、業者に壊れた三味線を修理してもらった帰りに襲われることとなってしまった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ