表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/23

二幕 狸戦 その三 「細氷」

 街は、思ったよりも穏やかだった。

 木造の長屋が軒を連ね、道端では商人が声を張り上げる。味噌の香り、焼いた団子の煙、笛の音。

 ……町の音色は、どこか柔らかい。


 霧島天晴(きりしまてんせい)は、そんな雑踏の中を静かに歩いていた。

 その後ろを、きちんとした姿勢で酒倉大和(さかくらやまと)がついていく。


「こうして歩くのは……久方ぶりです」


 ぽつりと大和が呟いた。


「書状のやりとりばかりで、こうして街の空気を吸うことも少なくなりました。……あの、天晴殿は」


「……」


「協力という言葉、どうお感じになっているのですか?」


 天晴は返事をしなかった。

 ただ、道を進みながら、人々を眺めていた。


 果物を売る女将、はしゃぐ子供、柱に寄りかかる浪人風の男、瓦の隙間から飛び出す猫。

 通りを行き交う、平和に生きる者たち。


 誰かが、どこかで守っているからこそ、平和は存在する。


 だが、守るという感情は、天晴の中にはない。

 雇われているだけだ。依頼されたから動いている。それだけだ。


 協力とは、まだ分からなかった。


 だが、その時だった。

 天晴の足が、突然止まった。


「……ん?」


 大和が戸惑って足を止める。


 天晴の視線の先には……芝居小屋があった。


 瓦屋根に紅白の垂れ幕。

 中からは三味線の音、芝居の台詞、笑い声。

 人気のある芝居小屋なのだろう。入口では客が次の演目を待っており、草履を脱ぐ列ができていた。


 だが、天晴の目は、その華やかさの裏に向けられていた。


「この芝居小屋……」


 そう呟いた直後、天晴は背後の大和に言った。


「……今すぐ、ここの入口を封鎖しろ。誰も出入りさせるな。芝居中でも構わん。中に、(たぬき)がいる」


「なっ……!」


 大和は驚きの声を漏らしたが、すぐにその眼差しが真剣に変わる。


「し、しかし……中は満員の芝居中かと……!」


「構わん」


 天晴の声は、決して大きくはなかった。

 だが、反論を許さぬ強さがそこにあった。


「……奴らは狸と呼ばれているのだろう? なら、変装はできるはずだ。たとえ変装が上手くなくても、この人混みの中では気づかれにくい。……”木を隠すなら森の中”だ」


 吉房は、はっと息を呑んだ。


「……それに、客は芝居に夢中だ。だから、奴らのやることに気づく者はいない……“相手の注意をそらし、そのうちに仕掛ける”……道化の基本だな」


 大和の背筋に、冷たいものが走った。


 そこまで見ていたのか……

 いや、それ以上に、そこまで感じ取っていたのか。


「……急ぎ、入口を封鎖します! 守衛を呼び、騒ぎが起きぬよう人払いを……!」


「静かにだ。派手に動けば、やつらは逃げる」


「承知!」


 大和はすぐさま動いた。驚くほど俊敏に、無駄なく、的確に。


 芝居小屋の表口にはすぐに三名の守衛が配置され、出入りを厳重に制限していた。

 裏手の勝手口、そして役者用の通路にも同じく見張りが立ち、人の流れはぴたりと止まる。


 だが、客たちはそれに気づいていない。

 芝居は続いていた。


 舞台では、英雄が敵を討ち、見得を切る。

 客席では、拍手と歓声。


 その空気を割って、霧島天晴が小屋の中に足を踏み入れた。


 草履を脱がず、そのまま薄暗い回廊を歩いていく。

 異物の気配に満ちたこの空間。音も、光も、温度も……すべて芝居で覆い隠されていた。


 だが、天晴の耳は逃さない。


 「……動いたな」


 客席の中、目立たない着物をまとった30程度の男が、観客に紛れている。

 拍手も歓声もなく、時を待つかのように舞台をにらみつける。


 着物は、その体に対してぶかぶかで、刃物や盗んだ物を隠すのに向いている。

 構えも、いつでも対象に飛びかかれるようになっている。


 ……その瞬間。


 着物の影から、光る物が見えた。

 刃物だ。


 「そら、いただき……」


 叫ぶより早く、風が割れた。


 ……斬撃。


 観客は見えなかった。ただ、何かが風を切ったような音が響いた。


 影が吹き飛んだ。


 盗みにかかった狸の一人は、衣を斜めに斬られ、舞台板の上を転がった。


 歓声が一瞬で凍る。

 役者は悲鳴を上げて舞台袖に逃げ、客席に緊張が走った。


 天晴が、舞台の中央に立つ。

 光の加減で、刀にかすかな返り血が光る。


「……狸の者か。もう少し上手く紛れたらどうだ」


 倒れた男が呻きながら立ち上がる。

 手で着物を払い、獣のように笑った。


「……へぇ。これが“雇われ侍”か。思ったより鼻が利くじゃねえか」


 目元には、狸の文様を刻んだ刺青。

 間違いない、盗賊団の一員だ。


 客の一部が逃げようとするも、出入口はすでに封鎖されている。

 緊迫の空気が小屋全体に広がっていた。


「俺を仕留めりゃ、それで終いと思ってんなら……甘いぜ」


 狸の男が、袖から煙玉を弾く。

 ……が、すでに天晴は動いていた。


「逃がさぬ」


 一歩。

 たったそれだけで、空気が切り裂かれる。


 狸の男が跳び退り、舞台を滑る。

 天晴の刀が舞台板を抉りながら追う。


 舞台の上、斬られた狸の男は、衣を捨てて裏手へと逃げた。

 その背を追おうとした天晴だったが……


「うおおっ!」

「やっちまえ!」


 左右の幕が、同時に大きく捲られる。

 舞台袖から飛び出してきたのは、三人の狸。


 ひとりは鉤爪、ひとりは小刀、もうひとりは煙玉を構えていた。

 明らかに役者や観客ではない、刺客として鍛えられた動き。

 芝居小屋を混乱に巻き込んででも、天晴を仕留めようとする覚悟があった。


「孤高の侍も、多勢に無勢じゃねぇだろ!」


「囲めッ、舞台から落とせ!」


 観客席では既に悲鳴と混乱が起きている。

 大和が小屋の外から声を張る。


「中を封鎖!誰も入れるな!」


……しかし、内部の制御は効かない。


 だが、天晴の足は止まらなかった。


 踏み込む。


 一閃で鉤爪の男の手首を裂く。


 二手目を見越して、薙刀の軌道を肩の軸だけで避け……


 その場で小さく呟いた。


天ノ技(あまのぎ)・細氷」


 刹那、空気が変わった。


 寒い、と感じるほどの鋭気。

 それはもはや風ではない。氷の粒のように細く、見えない斬撃が周囲を駆ける。

 天晴を中心に、無数の斬撃が飛び交う。


 静かに、しかし確実に、すべてを断ち切る。


 次の瞬間、舞台の上にいた狸たちの武器が砕け、膝が落ちた。

 狸たちは声も上げずに倒れる。

 死んではいない。だが立ち上がる力は、もうなかった。


 大和が扉を蹴破って駆け込んでくる。


「天晴殿!」


「……そっちは任せた」


 それだけ言い残し、天晴はすでに走り出していた。

 逃げた狸の男を追って、小屋の裏手へと。



二幕その四に続く

登場人物紹介

酒倉大和

22歳の男性。涼川定平に仕える家臣の一人。まだまだ若いが、緊急時の対処など定平に仕えるに相応しい能力は持っている。格好いい男というよりは可愛らしい男の種類に分類される。江戸時代には良いとされなかったが、時が経ったならあるいは……

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ