二幕 狸戦 その一 鋼
森を抜ける風が、葉を揺らしていた。
谷間を歩き続け、幾つもの小道を越えた先。目印も標もない、木立の中の奥深くに、それはあった。
小さな小屋。屋根は苔に覆われ、壁には乾いた蔦が絡まっている。だが、その佇まいはどこか穏やかだった。人目を避け、音から逃れ、ただ静かにそこに在る。
霧島天晴は、迷うことなくその扉を開けた。
中には、木の香りが満ちていた。
床も壁も天井も、すべて木材で組まれている。だが粗末ではない。隅々まで丁寧に手入れされ、必要な道具が丁寧に並べられていた。
壁際には鍛冶台。その上には何本もの小刀、槌、砥石が整然と置かれている。炉は鎮まり、煙の気配はない。今日の仕事は、もう終えていたのだろう。
窓のそばには、小さな鉢が並んでいる。
陶器に植えられた苗は、どれも繊細に育てられていた。中でも目を引くのは、咲きかけのさざんか……桃色の蕾をたたえたその一鉢は、特別な気配を放っていた。
「……帰ったか」
声がした。
奥の棚から、天晴と同じか少し低い背の男が現れる。鍛冶仕事に使われたであろう布を腰に巻き、煤けた手で前髪をかき上げる。
男の名は鋼。
無口ではないが、多くを語ることもない。目は穏やかで、どこか遠くを見ているようなまなざしをしていた。
天晴は黙って腰袋を外し、木の机の上に報酬金の入った袋を置いた。
じゃら、と硬貨が中で鳴る。
「……黒布の任務は終わった。報酬だ」
鋼は袋を見て、眉ひとつ動かさなかった。
天晴は袋から硬貨を出し、少しだけ貰っていく。
「……これはわしの分。あとの八割は、お前が使え」
鋼は一瞬だけ視線を上げた。
言葉こそ発さないが、その意味は察している。
これが初めてではない。天晴は、いつもこうだった。大きな報酬を得ても、必要最低限しか手元に残さない。
「……さざんかの棚、広げたくてな。鉢が増えすぎて、陽の当たりが悪くなってきた」
鋼が、冗談とも本気ともつかない口調で言う。
天晴は椅子に腰を下ろし、黙って窓の外を見やった。
山の向こうに日が沈みかけていた。
淡い橙色の空が、小屋の中にも温もりを運んでくる。
「……今回の相手、強かったか?」
鋼がぽつりと聞いた。
「赤城烈火。……薙刀が本分だった」
「なるほど。そいつは難しそうだな」
天晴は応えなかった。ただ、わずかに目を細めた。
「決着は……つかなかった。黒布が砦を爆破した」
「ふん。らしい話だな」
鋼は、机の上の袋を手に取りながら、笑った。
その笑顔に、天晴もわずかに口角を上げる。彼が笑うのは、鋼の前だけだ。
薪がぱち、と音を立てる。
炉に火を入れ直した鋼は、静かに言った。
「次の刃は、少し重みを増してみる。踏み込みと手応えが合っていない。……あれを凌ぐには、芯を変えねばな」
……天晴は、何も言わなかった。
ただ、椅子にもたれて、窓の外のさざんかを見ていた。
火の灯る炉の側で、鋼が袋を手にする。
袋の中から一枚ずつ金貨を並べる姿は、職人のように慎重で、それでいて無欲だった。
だが……その手元を見ながら、天晴がぽつりと口を開いた。
「……やはり、上質な鍛冶場が必要だな」
鋼の手が止まる。
「道具の数を増やすだけじゃ駄目だ。刃の芯にまで手を入れるには、火床と空気の流れが足りない。あの男を相手にして、思った」
鋼は無言で立ち上がり、焚き火の鍋に目をやった。
ぐつぐつと湯気を立てるそれを、木の杓文字でかき混ぜながら、静かに応える。
「……ああ。そうだろうな。あんたがそう言うなら、きっとそうなんだろう」
しばし、湯の音だけが小屋に響いた。
「夜も近い。……少し休んでいけよ」
鋼が、鍋の中の汁を椀によそいながら言った。
「味噌と山菜しかないがな」
天晴は黙って席に着いた。武器よりも静かな湯気が、鼻をくすぐる。
飯は白米と塩漬けの山菜、それに味噌汁。
簡素だが、味に無駄がない。鋼はこういうところも打ち込みが効いている。
「……今回行った街は、南の谷だった。砦の近くにしては整っていた。道も建物も、人間も」
食事の最中、不意に天晴が言った。
「黒布の計画がなければ、少し歩いてみたいと思った」
「へえ……珍しいことを」
鋼は微笑んで味噌汁を啜る。
「じゃあ、そういう相手と一緒だったら歩きたいと思ったか?」
天晴は箸を止めた。
「……そういう相手?」
「恋人。もしくは妻」
「……」
数拍、静寂が流れる。
「……あいにく、わしは金と血で動いている。そういうのは、向いてない」
「そうか?」
鋼はさらりと返した。
「あんた、情がないようで、俺には八割くれる」
「それは、お前が道具を作るからだ」
「それだけか?」
天晴は答えなかった。
だが、窓際に咲いた山茶花を、一度だけ目にした。
鋼は箸を置き、飯椀を下げながら笑った。
「昔、あんたが“信頼した相手と話すときだけ妙に声が低くなる”って、言われてただろ」
「……そんなことはない」
「いや、ある。気づいてないだけだろ」
「……」
そのまま、箸が動き続ける。
だが確かに……天晴の声は、少しだけ低かった。
二幕その二に続く
登場人物紹介
鋼
28歳の男性。天晴のために刀を作る。刀鍛冶としての腕前は相当で、天晴に合った刀を作れる。友好的な性格で、唯一天晴が信頼を寄せる。目立たない小屋でひっそり暮らしていて、癒やしのためにさざんかの苗木を育てている。幼いときから天晴と共にいて、天晴が親を失ったときを知っている。天晴が敵から鋼を守り、鋼が刀を作り、共にやっていくという一心同体の関係である。