三幕 紫尾金船戦 その一 約束の鍛冶場
山の麓、目立たない小道の先。
風に揺れるさざんかが咲き乱れるその先に、小さな木造の小屋があった。
夕闇が深まり、灯りがともる頃。
霧島天晴はいつものように、音も立てずその戸を叩いた。
「おう、戻ったか」
中から聞こえる低い声。
親友、鋼の声だ。
戸を開けると、火の落ちた炉の前に、鋼が座っていた。
手に油を含ませた布で、まだ温もりの残る鉄槌を磨いている。
「おかえり、天晴。遅かったな」
「少し、長引いた」
天晴は小屋に入り、いつものように囲炉裏のそばに腰を下ろした。
そして、横に置いた風呂敷包み……報酬の入った桐箱を差し出す。
「受け取れ。今回の分だ」
鋼は布を置き、片眉を上げながら包みを開く。
中身を見て、目を見開いた。
「……おい、これは……」
「八割はお前の分だ。取っておけ」
「そんなに要らん。あんたが命張ったんだろうが」
「言ったろ。お前の鉄がなきゃ、わしは戦えん。だから半分……いや、八割は持っていけ」
鋼は言葉に詰まりながらも、桐箱を受け取り、静かに蓋を開けた。
中には丁寧に詰められた金貨。火の揺らぎに照らされて、穏やかに輝いていた。
だが天晴は、火を見つめながら、変わらぬ調子で続けた。
「鍛冶場を建てる。最高のものを。場所も道具も、燃料も……全部整えてやる。定平が了承した。すぐに話が通るはずだ」
鋼の手が止まる。
「……定平って、あの大名の涼川定平か?」
「ああ」
鋼は火の灯る囲炉裏の奥に目をやり、しばし黙した。
そして、ふと肩を揺らし、笑った。
「……やれやれ。あんたが大名に頼みごとをする日が来るとはな」
天晴は返さない。
だが、火の揺らめきが映った横顔には、かすかに柔らかさが滲んでいた。
鋼は、槌を横に置いて天晴の方に向き直る。
「何かあったな?」
「何がだ」
「目つきが違う。前より、なんていうか……人をちゃんと見てる顔になってる。定平の器に、感心でもしたか? それとも、町でいい女にでも出会ったか?」
鋼の笑い混じりの言葉に、天晴は口元をぴくりと動かした。
「……どれも、たいしたことはない」
「へぇ。じゃあ何があったってんだ?」
天晴はしばらく黙っていた。
囲炉裏の火が、薪の割れる音を立てる。
そして、ぽつりと。
「……誰かのために動くってのは、慣れないものだな」
鋼は、火にくべた炭をつつきながら、ふっと目を細めた。
「でも、嫌じゃなかったんだろ?」
「……まあな」
その短い返事に、鋼は何も言わず、笑った。
天晴の言葉は少ない。だが、その一つひとつが重いのを知っていた。
ふたりの間に、山の夜風が吹き抜ける。
「……なら、しっかり鍛えさせてもらうよ。あんたの刀も、あんたの背中も、な」
「……頼む」
天晴は、囲炉裏に両手をかざした。
──────
翌朝、日の光が小屋の中に差し込み始めた頃。
霧島天晴は、静かに目を覚まし、身支度を整えていた。
黒い衣服を着て、鞘に収めた刀を背負う。
朝食を軽く済ませると、出発の準備が整った。
「今日はまた長い道を歩くことになるな」
天晴が道具を確認していると……
「ちょっと待ってくれ」
鋼が、煙が立ち上る釜の前から振り返った。
「どこに行くんだ?」
「街だ。依頼を探しに行く」
「……なら、俺も行きたいとこがある」
「……なんだ?」
鋼が言う。
「新しい鍛冶場、見に行きたいんだよ」
天晴はしばらく考えてから、うなずく。
「いいだろう。途中まで行こう」
鋼は満足げに頷き、工具を整えるための包みを持って立ち上がった。
二人は肩を並べて、小屋を出発した。
街までの道のりは、歩きやすく、長くもない。
昼下がり、太陽が高くなったころ、二人は街の入口に到着した。
街の門をくぐったとき、昼下がりの太陽がちょうど背中を照らしていた。
人通りは多く、行商人の声や子どもたちの笑い声が道に満ちている。
天晴と鋼は並んで歩いていた。
建設予定の鍛冶場を見に行くところだ。
「やっぱり、こっちの街は活気があるな」
鋼が周囲を見回して言う。
「人が多い。あまり落ち着かない」
天晴はやや不機嫌そうに眉をひそめていた。
そんなときだった。
群衆の中から、一人の少女がこちらに向かって猛然と駆けてきた。
「きゃっ! そこの人っ! 止まってくださいっ!」
唐突な叫びに、周囲の人々が振り返る。
少女は転びそうな勢いで天晴に向かって一直線に飛び込んできた。
反射的に身体を半歩だけ引いて、腕を受け止める天晴。
鋼が目を丸くした。
「なんだあんた……」
「ちょっと! お願いがあるんです! 助けてください!」
少女は目を潤ませ、必死に叫んでいた。
背丈は天晴の胸にも届かぬほど。
年の頃は十五、十六といったところだろうか。
着物の裾は泥で汚れ、草履の片方は手に持ったまま。
ひと目で、どこか遠くから来たと分かった。
「……何があった」
天晴が淡々と問うと、少女は息を整えながら答えた。
「紫尾金船っていう大名が、うちの町でまた酒飲んで暴れてて……!お侍さんたちも止められなくて……誰か、強い人を呼べって……!」
天晴はその名に微かに反応した。
紫尾金船……噂に聞く、だらしなく、酔えば暴れると評判の小大名。
地方に領地を持ち、支配も雑、政も投げやり。民の評判はお世辞にも良くない。
「ここじゃないのか、その町は」
「はい。ここから東に二里ほど……小さな町です。でも、町の人たちは真面目に働いてて、それなのにあの人が来ると全部めちゃくちゃに……!」
少女は、怒りと涙を混ぜたような目で訴える。
「お願いです……お金は、ちゃんと払います。だから、あの人を止めてください……!」
周囲の通行人たちも、天晴たちをちらちらと見ていた。
突然の場面に何があったかも分からぬまま、通り過ぎていく。
鋼がぽつりと呟いた。
「その顔……本気だな。……天晴、どうする」
天晴は黙って少女の手をそっとほどき、数歩だけ歩いてから振り返った。
「……案内しろ」
「えっ……?」
「俺が行く。話はその酔っ払いに直接つける」
少女の目がぱっと見開かれた。
そして……ぱあっと明るくなった表情で、深々と頭を下げる。
「……ありがとうございます!」
天晴はその声に応えず、ただ一歩踏み出した。
鋼が肩をすくめて言う。
「お前、結構こういうのに弱いよな」
「……子の叫びを黙って聞くほど、情がないわけでもない」
そう言って、天晴は振り返らずに歩き出し、鋼と別れる。
三幕その二に続く
登場人物紹介
美乃
天晴にぶつかってきた女の子で、地方の小さな街に住む娘。性格は控えめかと思いきや、意外と肝は座っている。小さな町には善良な民ばかりで争いも少ないが、夜に酒を飲んで町を荒らす大名がいる。大名の暴走を止めてもらうよう、天晴に頼む。この依頼は美乃の独断で、街の人は知らない。