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一幕 焔牙戦 その一 霧島天晴

 風が吹いていた。

 山あいの峠道を、一人の男が歩いていく。背筋はまっすぐに伸び、足取りは恐ろしく静か。草を踏んでも音がしない。


 男の名は霧島天晴(きりしまてんせい)

 その名は、いくつかの街で静かに囁かれている。組織に属さず、礼節にも興味を示さず、ただ報酬のために刀を抜く侍。


 黒衣の裾が、強くなった風に揺れる。袴の布がひるがえり、長く伸びた影が地面をすべっていく。

 その足取りは、無音だった。

 刀を携えた者のそれとは思えぬほど静かで、歩を進めるたびに大地は震えず、気配すら波立たない。まるで、死そのものが歩いているかのような静けさだった。


 彼の向かう先には、焔牙(えんが)と呼ばれる反乱武士軍の拠点があった。

 山中に築かれた砦。堂々たる門構え。かつての武家屋敷を思わせる木造の壁が、陽に照らされていた。


 砦の門まで、あと数十歩。

 そこまで近づいたとき、ようやく中に動きがあった。門が開き、数名の男たちが姿を現す。肩に焔の紋。腰に太刀。武士だ。


「なんだ、ひとりか? ……あんた、誰に断ってここへ来た?」


 先頭の男が問いかける。声は荒く、しかしどこか探るようだった。天晴のただならぬ気配に気づいたのだろう。


 天晴は立ち止まった。笠の下で、わずかに首を傾ける。


「…赤城烈火(あかぎれっか)に、会いに来た」


「会いに来た? ふざけるな!」


 武士の一人が叫ぶようにして駆け出す。抜き放たれた太刀が光を帯びて振り下ろされる。

 だが、天晴は動かない。

 ただ、腰の刀を一部だけ引き抜き、腕を振る。太刀が宙を裂き、襲いかかった武士の手首をかすめた。

 それだけでよかった。


「う、ぐうっ…!」


 痛みに呻き、膝をつく武士の周囲に、残る者たちが散開する。互いに合図し、複数で包囲する構え。

 天晴の笠が、そこで風にあおられて飛んだ。黒髪が乱れることなく流れ、露わになった眼差しが、刺すように鋭い。

 一瞬、誰もが動けなくなった。


 静寂を破ったのは、天晴の刀の音だった。

 一閃目は見えなかった。二閃目は、音すらなかった。

 天晴の体が弧を描く。

 抜刀の音。地を蹴る音。斬撃の音。

 一拍の間に、三人の武士が倒れていた。いずれも深手ではないが、動けぬ場所を的確に斬られている。


 天晴は歩いている。歩を止めることなく、まるで景色を眺めるように敵を見下ろしていた。

 ひとり、ふたり、またひとり…次々に倒れる武士たち。皆、反撃の間もなく、ただ一撃で斬られている。

 刀の軌道は最小限、歩幅も無駄がない。流れるように、淀みなく。

 まるで、刀を振るっているのではなく、『斬るという結果』だけが先にあるかのようだった。


 武士の一人が、恐れを抱いた表情で後退した。


「…貴様、何者だ……!」


 天晴は返事をしなかった。ただ、血の付かぬ刃を一度払うと、静かに鞘へ戻す。

 そしてまた歩き出す。倒れた男たちを見下ろすこともせず、焦ることも、誇ることもなく。


 砦の奥から、重い足音が響く。


 周囲の空気が変わる。何かが近づいてくる気配に、残った武士たちは背筋を伸ばした。門の奥に佇む影…その姿が明るみに出ると、空気に熱を帯びたような圧力が辺りを包んだ。


 男の名は、赤城烈火。

 焔牙を束ねる反乱武士軍の頭領。威風堂々たる体躯に、肩まで伸びた乱れ髪。眉間に刻まれた皺は深く、黒く燃えるような眼光は、一瞥するだけで相手を戦慄させる。


 烈火は門前の様子を見渡した。地に伏した武士たち。呻き声。落ちた刀。血の臭いはわずかで、斬られた者も皆、命を奪われていない。


 そして、その中心に立つ黒衣の男……霧島天晴。


「…ふむ」


 烈火が唸るように息を漏らした。その声音は、怒りではなかった。むしろ、落ち着いてすらいる。


 すぐ傍らにいた武士が、おそるおそる進み出る。


「れ、烈火様。そいつ、『赤城烈火に会いに来た』と…」


 烈火は頷いた。


「なるほど…わかった」


 そして一歩、天晴の方へと踏み出した。足音が、地を叩く。


 天晴は応じるように顔を上げた。互いの視線が交錯する。

 天晴の目には情がなかった。ただ、任務を遂行する兵器のように冷ややかで、その中に一分の揺らぎもない。

 烈火は、そんな男を前にしても眉一つ動かさない。ただ、口の端だけが、わずかに持ち上がった。


「名は?」


「霧島天晴だ」


 その答えに、烈火は再び頷く。


「名乗るとは、思わなかった。…おれを斬るために来たか」


「雇い主の指示に従っただけだ」


 素っ気ない。だが、その言葉にこそ信があった。烈火は、それだけで天晴の在り方を理解した。


「…良い。ならば、こちらも武士として応じよう」


 烈火は腰の太刀に手を添える。その手には迷いがない。足を運ぶたび、砂利が跳ねた。


「おれと貴様、一対一で決着をつけよう。焔牙の名にかけて、他の者は手を出さん」


 天晴は、数歩前へ進み出た。手はまだ刀に触れていない。それでも、その動きだけで周囲の空気が研ぎ澄まされていく。


「……了承した」


 言葉を交わすだけで、周囲の風が止まったかのように思えた。

 ふたりの間に流れる空気が、まるで別の時空のもののように澄んでいく。


 焔牙の武士たちは息をひそめ、戦の準備をするでもなく、ただ見守っていた。誰もが感じていたのだ。この二人の戦いは、人間同士の戦ではない。


 霧島天晴。すべての情を切り捨て、ただ雇いを果たす刀。


 赤城烈火。武士の誇りを掲げて立つ男。


 されど、どちらも刀を振るうことにおいて、一点の曇りもない。



一幕その二に続く

世界観説明

時代は江戸時代後期で、1800年前後。

寛政の改革が終わった後の話である。

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