第9話 私の手で、彼を“診たい”理由。
静寂な夜。白く塗られた病室の壁は、月明かりを受けて仄かに光を放っていた。
規則正しく鳴る機械音だけが響く中、ひとりの男がベッドに横たわっていた。目を閉じ、まるで静かに眠るようなその姿。
私は――いや、“かつての私”である麻里は、その枕元に立っていた。
白衣の袖口を握りしめ、足元には力が入らない。
「お姉ちゃん、何もできなかったね――ごめんね」
そう呟いた瞬間、視界が滲んだ。
ぽたり、と落ちた雫は、ベッドの白いシーツに小さな染みを作る。
その人は、私が命を懸けてでも救いたかった人だった。どんなに薬を調合しても、どんなに手を尽くしても、届かなかった命。
私の腕では、奇跡を起こすことはできなかった。
けれど――
涙をこぼしながら、それでも私は諦めきれなかった。
白衣の胸元を握りしめたその手は、あの時と同じように、強く震えていた。
* * *
「ハッ……!?」
荒い息を吐きながら目を覚ました私は、思わず周囲を見渡した。
ここは……ノエルの寝室。大理石の床に、織物の敷かれた机。広々とした空間の片隅、私は自分の実験道具が並ぶ机に突っ伏していたらしい。
「……いつの間にか寝ちゃった」
夢の残滓がまだ胸に残っている。けれど目の前にあるフラスコやメモ帳を見れば、現実へと引き戻された。
机の上には、化学構造式や薬草の絵が描かれた紙が山積みになっていた。中でも目を引いたのは、自分の筆跡で書かれた大きな見出し――『神獣化の抑制薬、予想される使用素材』。
「お兄様は『王子の妻には不要だ~!』なんて言っていたけど。こっそり持ちこんでおいて正解ね!」
腰に手を当て、堂々と宣言してみせる。紙の上にはいくつもの薬草の名が記され、そのひとつには、大きな赤いバッテンが付いていた。
「おかげであらかたの分析は完了したわ。……うん。やっぱりこの薬は変よ」
メモ用紙を手早くまとめ、椅子から立ち上がる。大きく伸びをしたあと、ふとベッドへ視線を向けた。
そこは空っぽ。ノエルの姿はどこにもない。
――昨夜のことが、脳裏に鮮やかに蘇る。
あの瞬間の彼は、まさに獣だった。
「俺に触れるな…!」
低く、鋭い声が室内に響いた。
月光に照らされた寝室の中央。ノエル様は上半身をさらけ出し、荒い息を吐きながら、こちらを睨んでいた。
鋭く伸びた犬歯、赤く光る瞳、汗に濡れた銀髪。
その姿は、まるで人の皮を被った獣。
「俺との婚姻を承諾したのは、侯爵家への資金援助が目的だろう?」
容赦なく投げかけられた言葉に、私は言葉を詰まらせた。
「そ、それは…」
本当は違う。そう言いたかったのに、喉の奥が塞がれたように声が出てこなかった。
ノエル様はそんな私を冷たく見下ろしながら、まるで突き放すように言い放つ。
「心配せずとも金は払う。――だから、余計なことはするな」
その言葉には、怒りでも軽蔑でもなく、どこか深い諦めが滲んでいた。
「……ふぅ」
小さく息を吐き、私は腕を組んだ。
「本当は直接、本人に事情を聞けたらいいんだけど……」
そう呟いても、ノエル様の仏頂面が浮かぶばかりで、これといって手段は思いつかない。
「あんな俺様な王子、放っておいてもいいけど……変な薬が使われてるとあっちゃ、黙ってなんかいられないわ」
そう呟きながら、私はゆったりとした足取りで廊下を進む。白衣の裾がさらりと揺れ、朝の光が窓から差し込んで私の足元を柔らかく照らす。
王城の中は静かで、天井の装飾も壁の絵画も、今は私の独り言の良き聞き手だった。
腕を組んで考えを巡らせながら、私はひとり頷く。
「まずはあの警戒心を解かないと……餌付けでも試してみる?」
声に出した瞬間、脳裏に浮かんだのは――
吠えつく銀の狂犬。デフォルメされたノエル様が、ヨダレを垂らしながら骨付き肉をじっと見つめる姿だった。
「ふふっ……」
唇の端がつい緩む。想像上のノエル様は、獣みたいでありながら、どこか不器用で可愛らしくて。
「でもまぁ、私たちは仮にも夫婦なんだし。診る機会はいくらでもあるわよね。どうせ夜は同じ部屋で寝るから……って、あれ?」
ふと、自分で口にした言葉に引っかかる。
昨晩の記憶が、頭の中で鮮やかに再生される。
月明かりに照らされた寝室、絹のシーツの上、そして――
半裸のノエル様が私に覆いかぶさるように迫ってきた、あの瞬間。
「っ~~~~!」
思い出した瞬間、顔が真っ赤に染まり、両手で頬を抑えた。
「ってことは、あの続きも……!?」
目の奥が熱い。心臓が、ずきん、と跳ねた。
「ど、どうしよう……そんなの、準備とか心の覚悟とか……いや、でも仮にも夫婦だし、王族の義務だし……」
口の中で言い訳のように言葉が転がるけれど、胸の高鳴りは止まってくれない。
視線を泳がせながら、くるくると考えが巡る。
王子のことなんて何とも思ってないはずなのに。なのに、どうして……?
そのとき――
「こんな所で何をしている」
「ひゃあっ!?」
低く落ち着いた声が背後から響き、飛び上がりそうになる。
ギギギ、とゆっくり振り返れば、いつものように不機嫌そうなノエル様が、廊下の奥に立っていた。
銀の髪が朝の光に照らされて煌めき、その赤い瞳はまっすぐにこちらを射抜いてくる。
――ああもう、なんでこんなタイミングで現れるのよ、ノエル様っ……!