第6話 甘い結婚生活?そんなもの、どこにもなかった。
夜、ノエル王子の寝室前。
しんと静まり返った廊下に、私の心臓の音だけが響いている気がする。
寝室の扉の前で、私はシュミーズ姿のまま立ち尽くしていた。薄い布越しに感じるひんやりとした夜の空気が、ますます緊張を煽る。
(うぅ、緊張する!)
拳を握りしめ、目をぎゅっと瞑る。
貴族の義務とはいえ、恋愛経験ゼロの私に“夜枷”なんて、あまりにもハードルが高すぎるのでは!?
思い悩むうちに、どんどん不安が膨れ上がってくる。
「どうしよう、最初ってやっぱり痛いのかしら……? もしや痛み止めに止血剤が必要? それから鎮静薬……いや、むしろノエル王子に睡眠薬を……」
「お前は人の部屋の前で何をやってるんだ?」
「ひゃっ!?」
突然、背後から低く落ち着いた声が響き、飛び上がりそうになる。
慌てて振り返ると、そこには風呂上がりらしいノエル様が立っていた。濡れた銀髪が艶やかに輝き、薄く開いたガウンの隙間からは精悍な鎖骨と鍛え上げられた胸板がのぞく。
――近い。しかも、予想以上に色気がある。
「俺に何か用?」
「え、えと……」
(気まずい、すっごく気まずい!)
目のやり場に困りながら、なんとか言葉を探していると、ノエル様は深く息を吐き、軽く首を振った。
「……まぁ入れよ」
私の隣を通り過ぎると、ノエル様はポケットから鍵を取り出し、静かに鍵穴に差し込んだ。金属が擦れる音が微かに響き、カチリと錠が外れると、扉を押し開いた。
「し、失礼しまーす……」
蚊の鳴くような声で呟きながら、おずおずと足を踏み入れる。
そっと視線を巡らせると、意外なほど質素な調度品が並ぶ部屋が目に入った。
(思ったより……飾り気がない?)
王族の寝室だからもっと豪奢なのかと思いきや、余計な装飾はほとんどなく、落ち着いた色合いの家具が並ぶだけの広い部屋だった。唯一、無駄に大きなベッドだけが場違いなほど存在感を放っている。
「ところで殿下は、どうしてこんな時間に外へ……?」
何気なく尋ねると、ノエル様はタオルで髪を拭きながら、肩をすくめた。
「それはこっちのセリフ……夜の訓練だけど」
「王族が……訓練を……?」
「別にいいだろう。俺は軍の人間だ」
ムッとした表情を浮かべ、無造作に髪を拭きながら、ノエル様は乱暴にタオルを肩へ放る。
「それで?」
その問いに、私ははっと顔を上げた。
「ここに来た用件」
「え……えっと……その……」
いざ聞かれると、何をどう言えばいいのか分からない。貴族の義務とはいえ、いきなりこんな場面で説明するのは気まずいにもほどがある。
ノエル様の鋭い赤い瞳がじっとこちらを見つめ、まるで逃げ場をふさがれているような感覚に陥る。
(怖い……でも、何か言わなきゃ……)
だけど、舌が思うように回らない。
震える手をぎゅっと握りしめ、どうにか声を絞り出そうとするが、結局、かすれた音しか出てこなかった。
しばらく沈黙が続いたのち、彼はふっと息を吐いた。
「薬にしか興味を示さない変わった女と聞いていたが……」
「え?」
彼の声が聞き取れず、首を傾げた次の瞬間。
「……所詮はお前も他の女と同じか」
それは呆れと落胆が混ざったような、諦めに近い溜息だった。ノエル様が一歩、二歩と近づいてくる。
その迫力に思わず後ずさろうとした瞬間、腕を引かれ、ふわりと視界が揺れた。
「えっ……?」
何が起こったのか理解する間もなく、私は大きなベッドの上に押し倒されていた。
息を呑む。心臓が耳元で激しく鳴る。
目の前には、鋭く光る赤い瞳。獲物を狩るような視線に、背筋がぞくりと震える。
「じ、地味顔で貧相な体ですし、食べても美味しくないですよ? 狼に食べられる赤ずきんじゃあるまいし!」
「……赤ずきん?? お前は何を言ってるんだ?」
自分でも意味不明なことを口走ってしまったと気づいた瞬間、猛烈な後悔が押し寄せる。思わず涙目になっていると、彼が静かに身を乗り出してきた。
「ひゃっ!?」
髪に触れる温かい吐息。近すぎる距離に、思考が停止する。
「……逃げないのか?」
背筋に冷たいものが走り、手足がこわばる。逃げたいのに、身体が動かない。
喉が詰まって息が浅くなり、鼓動が耳の奥でうるさいほど鳴り響く。視線を逸らそうにも、目の前の赤い瞳が釘付けにする。
「やっぱりお前も、俺が怖いんだな」
ノエル様の低い声が、静かに落ちる。
彼の表情は冷たく無機質に見えるのに、どこか寂しさを滲ませたような気がして、私は息を呑んだ。
けれど、その寂しさを追い払うかのように、ノエル様は小さく息を吐きながら視線を外し、ベッドから降りた。
「……」
彼は無言のままゆっくりと寝室の中を歩いていく。
「呪われたこの体、抑えきれない衝動。周囲の噂はどれも本当だ」
どこか遠くを見るような目。冷たく響く声とは裏腹に、彼の横顔には深い影が落ちていた。
「……今なら、傷モノになる前に引き返せるぞ」
静かな拒絶の言葉が、鋭い刃となって突き刺さる。
「そんな、引き返すなんて――」
「何でもいいが、俺に甘ったるい結婚生活なんて期待するな」
それは冷酷な宣告のようでありながら、どこか私を遠ざけるための言葉のようにも聞こえた。
私はベッドの上で体を起こしながら、ギュッとシーツを握りしめる。
(なんなの、この人? 本当に冷たい人なの? それとも……)
私の心の中に、ほんの少しの疑問が芽生える。
ノエル様は背を向けたまま、窓の外の闇をじっと見つめていた。
その背中はどこか、孤独に見えた。
自分の唇をそっと噛みしめる。
「わ、私は……」
私が何か言いかけた時、ふと彼の肩が小さく震えた。
「――っ!」
突然、ノエル様は呻き声を上げ、右腕を強く押さえた。
「どうしたんですか!?」
私は思わずベッドから飛び降り、彼の元へ駆け寄る。
ノエル様の額には玉のような汗が浮かび、爪が伸びかけ、目が紅く光っている。
――まるで獣に変わる直前のような。
「近寄るな……!」
ノエル様は苦しげにそう言ったが、私は足を止めなかった。