第41話 君が何者でも、構わない
「兄上──これを見ても、そんなことが言えるのか?」
モルト殿下は懐から一枚の報告書を取り出し、ノエルの目の前に突きつけた。
……その紙が視界に入った瞬間、私は息を呑んだ。
(やっぱり……)
スラム時代の記録。違法調合。拾い子。
すべて──私の“過去”。
「兄上は、この女の正体を本当にご存じなのか? この経歴を知って──それでも王族の傍に立たせると?」
胸の奥が、きゅう、と凍りついた。
でも……逃げない。
私はただ視線を伏せ、言葉を失ったまま立ち尽くす。
ノエルが報告書を受け取り、無言で目を通す。
そして──
「……どうして正直に言ってくれなかった?」
静かな声が、胸に突き刺さる。
「そんなに……俺を信じられなかったのか?」
「それは……!」
言い訳なんてできなかった。怖かった。拒絶されるのが、嫌だった。
私の唇が震えたその瞬間──
「ほら見ろ!」
モルト殿下が吐き捨てるように声を上げた。
「君のような者が、兄上の傍にいること自体が間違いなんだよ!」
広間に響き渡る冷たい声。
だがその直後──
ノエルは報告書を静かに閉じ、鋭い眼光でモルト殿下を睨みつけた。
「……だからなんだ」
空気が、一瞬で凍りつく。
「マリーが何者であろうと、離縁するつもりはない」
「っ……!」
驚いて顔を上げた私に、ノエルはちらりと優しいまなざしを向けてくれた。
その一瞬で、胸の奥に溜まっていた恐怖が少し溶けていく。
彼は報告書を机に置き、モルト殿下へと向き直る。
「お前がマリーに、どんな薬を作らせようとしたか──全部知っている」
「……なんだって?」
「ニケが、お前とのやりとりを全部見ていた。精霊魔法で姿を消して、最初から」
思わず私の呼吸が止まる。
「命令に従わせ、感情を鈍らせる薬。それを“首輪”だと喩えたお前の意図もな」
ノエルはそっと私の手を握った。
温かい掌が、心の震えを包み込む。
「俺は信じてた。お前がそんな薬を作るわけがないと。それに……黙って耐えていたと。今のマリーの態度も見て、納得した。なぜ何も言わず、自分の判断で進んだのか──それがお前なりの戦い方だったんだな」
モルト殿下が驚愕に目を見開く。
ノエルの静かな声が、静謐な広間に落ちる。
「それで? 言いたいことは、それだけか?」
「兄上、これは国のために──」
「黙れ」
冷たい響きが、広間に鋭く跳ねた。
「誰かの過去を晒してまで、何を守ろうというんだ」
ノエルは私の肩に手を置き、まっすぐに告げた。
「俺は彼女と共に生きる。それが俺の選択だ」
「そんな女のせいで、神獣人の血筋が──」
「その“神獣人”という名の呪いに、俺はもう縛られたくない」
ノエルの目は静かで、揺るがなかった。
「国を守るのは俺の役目だ。だが、その形を変えることは俺の責任でもある。神獣の力にすがらずとも、人が人として立てる国に──」
そして私の手を、もう一度ぎゅっと握る。
「彼女となら、それを目指せる」
その言葉を聞いた誰もが口を開かず、誰も動けずにいた。
広間を包む静謐は、まるで時間そのものが止まったかのようだった。
モルト殿下もまた、報告書を手にしたまま、ただ立ち尽くしていた。
その指先はわずかに震え、握りしめた紙がかすかに軋む音を立てる。
だがゆっくりと──本当にゆっくりと顔を上げる。
ノエルと視線を合わせた殿下は、ひとつ乾いた笑いを漏らした。
「……兄上は、やっぱり愚かですね」
けれどその笑みには、いつもの優雅な余裕はなかった。
初めて見る──年相応の、不器用な、どこか寂しげな表情。
ノエルは何も言わない。見返すだけだった。
その静けさに耐えきれなかったのか、モルト殿下は息を吐き、視線を逸らした。
「……僕はね、ずっと周囲の人間を憐れんでいたんです」
その声は、さきほどの怒りとは違い、どこか遠い記憶を思い返すような響きを帯びていた。
「平民も、貴族も、皆同じ。誰も逆らえない。上から支配され、下を支配する。そうやって生きるしかない、哀れな存在だと思っていた」
殿下は手にする報告書を見下ろし、肩を震わせて小さく笑う。
「僕は“王子”。生まれた瞬間から、人を支配する側だと決めつけられた。……それはまるで運命という鎖のようでしたよ」
その言葉は、皮肉でも傲慢でもなく──ただ静かな告白だった。
「国や王が変わっても、民の本質は変わらない。神でもない限り、この鎖から誰も逃れられない。だったらせめて……“被支配者”たちを救ってやろうと思った」
殿下は目を伏せ、唇を噛む。
「多少の犠牲が出ても仕方ない。そう思っていた。運命に抗う者も、皆可哀想な奴だとしか見えなかった」
その先の言葉が、僅かに震えた。
「……神獣人という“呪い”を背負って生まれ、努力しても報われず、救った人々から恐れられる。そんな兄上を救えるのは、僕しかいないと──本気で思っていたんです」
私は思わず息を飲んだ。
殿下の胸の奥にこんな想いがあったなんて、想像もしていなかったから。
モルト殿下はゆっくりと顔を上げる。
その瞳には、悔しさとも寂しさともつかない揺れがあった。
「でも……兄さんは違った。マリーという存在に救われている」
私の名が出た瞬間、胸がぎゅっと締めつけられた。
「そこに支配はない。ただ、愛情がある。人の心など脆くて当てにならないと決めつけた僕とは……真逆の道を歩いている」
殿下は私とノエルを見比べ、唇を震わせた。
「愛なんてまやかしだと思っていた。でも……目の前に、確かに“本物”が存在している」
その声は、ほんの少し掠れていた。
報告書を握りしめる殿下の指先が、力なく緩む。
彼はそれを捨てるでもなく、ゆっくりと懐に戻した。そして背を向ける。
「……兄さん。あなたはずっと、自分を偽らずに生きてきた」
広間の出口に歩みを向けながら、殿下はかすかに言葉を落とす。
「そんな生き方、いつか後悔すると馬鹿にしていた。でも……」
小さく笑った。その背中は、先ほどまでの威圧感が嘘のように静かだった。
「まさか、自分が羨ましく思う日が来るなんて」
その一言は、痛いほどの本音だった。
「生まれや肩書きを恨んでいた。──でもその“しがらみ”に、一番囚われていたのは……僕だったみたいだね」
そう呟き、殿下は静かに広間を去っていった。
足音だけが、ぽつり……ぽつり……と遠ざかっていく。
ノエルはその背中を追いかけなかった。ただ静かに見送った。
広間に静寂が戻る。
「……分かり合えたとは言えない」
ノエルの声は低く、けれど優しかった。
「だが、“何か”がアイツを変えたのは確かだ」
私はその横顔を見つめ、そっと目を伏せる。
胸の奥がじんわりと温かく、そして痛かった。
広間に残されたのは、静寂と──モルト殿下が残した余韻だけだった。





