第32話 崩れゆく信頼と真実の影
石壁に囲まれた尋問室。湿った空気の中で、男の冷たい声が響いた。まるでそれが日常の報告であるかのように、感情の欠片もなかった。
「……命令だった。それ以上の意味はない」
その言葉が部屋の空気を凍りつかせた。私は思わず身を乗り出す。
「命令……誰の?」
「雇い主の命令。それだけだ。雇い主の事情に興味はない」
彼の瞳は静かで、まるで湖面のように何の波紋もなかった。そこに後悔も、葛藤もない。
(この人……本当に、人の命をなんとも思っていないの?)
胸が締めつけられる。どうしてこんなに冷たく、淡々と「命令だった」なんて言えるのだろう。
その沈黙を破ったのは、ノエルだった。
「……」
彼は一歩前に出ると、ゆっくりと男の正面に立つ。まるで風の流れを読むように、微かに鼻を動かした。
「……やはりな。ツィオを殺したのは、お前だったんだな」
その言葉に、男のまぶたがぴくりと揺れる。
「え……?」
私は息をのむ。ノエルの声は低く、怒りを押し殺したように震えていた。
「何人もの血が混ざった匂いがした。ツィオを殺した奴を追った、あのときと同じ匂いがな」
(ツィオさんを……この人が……?)
胸の奥で何かが軋む音がした。ノエルはゆっくりと拳を握りしめ、牙を噛みしめるように言葉を吐き出した。
「貴様がツィオを――!」
その瞬間、私の手が無意識に胸元へと伸びていた。彼の背中から放たれる怒気が、肌を刺すほど痛い。
だが、男はそんな殺気をものともせず、ふっと笑った。
「何が可笑しい」
ノエルの声が鋭く跳ねる。
「……あいつを、ただのお人好しな善人だと思っていたのか?」
「……何だと?」
ノエルの瞳が細められ、赤い光がゆらりと揺れる。だが男はその視線を正面から受け止めたまま、淡々と語り始めた。
「ツィオは、私腹を肥やすために完成した“狼牙”をスラム街で売るような男だ」
「なっ……」
空気が重く沈んだ。耳の奥で、どくん、と心臓の音が響く。
「ツィオは組織の中核にいた。研究のためって建前だったが、やっていたことは金のための人体実験なんだよ」
「実験……?」
私は小さく呟いた。喉が乾く。頭の奥で警鐘が鳴っているのに、言葉が出てこなかった。
「孤児院を使ってな。集めた子供たちに試薬を投与して、効き目や副作用を調べていた。もちろん、組織の命令なんかじゃない。あれはツィオ自身の独断だ」
「……そんな……」
「やつは“理想の薬”を作りたかったらしい。だが一番の目的は金だ。完成した狼牙をスラム街で売りさばき、組織の資金源にもしていた。……だがやりすぎた」
男は静かに目を閉じた。
「組織のルールを破り、目立ちすぎた。だから――処分された」
「……っ、そんなはずがない……」
ノエルの拳が震えていた。机の上に置かれた記録の束を睨みつけ、唇を噛みしめる。その肩が、ほんのわずかに揺れている。
「ツィオは……俺にとって……」
彼の声が掠れた。私には、それが悲鳴のように聞こえた。
(あの人が……そんなことを……信じられない。信じたくない……!)
◇
――あれは、まだ俺が八歳の頃だった。
夕暮れの光が長く伸び、灰色の廊下を照らしていた。王城の奥深く、誰も通らない静かな道を、幼い俺はひとり歩いていた。足音だけがやけに響く。慎重で、小さくて――そして、どこか寂しかった。
立ち止まった先には、重厚な扉。実母であるアルマ妃の私室だった。
「……母上……」
小さな声で呼びかける。けれど、返事はない。
「……開けて……」
扉は沈黙を守り続けた。指先で取っ手に触れても、ただ冷たい感触だけが返ってくる。肩が震える。泣きたいのに、涙は出なかった。
そのとき――
「こんな場所で、風邪を引くぞ」
温かい声が、背後から静かに届いた。振り返ると、白衣をまとった若い薬師が立っていた。優しい目をしていて、どこか安心できる雰囲気を持っていた。
「……お兄さんは誰?」
「私はツィオ。キミの専属薬師だ」
「せんぞく……? でも僕は神獣人だから薬なんて……」
ツィオと名乗ったその男は、やわらかく笑って膝を折り、俺の目線に合わせた。
「神獣人だろうと、王子だろうと、キミは私の患者だ。だから何も心配いらないよ」
その声があまりに穏やかで、胸の奥の不安が少しずつ溶けていった。差し出された薬包からは、薬草の清らかな香りがふわりと漂った。
(この香り……あのときと同じだ)
ツィオの差し出す手があたたかくて、俺はそのまま小さくうなずいた。
あの日、初めて抑制薬を飲んだ。神獣の力を制御する――その未知の行為に、幼い俺は怯えていた。でもツィオは、何も言わずに俺の手を握ってくれた。
「……ツィオのおかげで怖くなかった」
「そうか。なら、よかった」
ツィオはいつもそうやって、俺の恐れを静かに受け止めてくれた。王族であることも、神獣人であることも関係なく――ただ“ノエル”として向き合ってくれた。
(ツィオは……俺にとって、ただの薬師じゃなかった)
王族でも神獣人でもなく、ひとりの“ノエル”として初めて与えられた信頼と居場所。ツィオは、俺の孤独な世界に射した、一筋の光だった。





