第31話 甘やかな朝と研究者の顔
カーテンの隙間から差し込む朝陽が、薬室を柔らかく照らしていた。薬草を刻む音に混じって、鳥のさえずりが遠くから届いてくる。私は手を止めて、ふと窓の外に目をやった。
(昨夜のこと……思い出すだけで顔が熱くなる。でも今は、お仕事、お仕事!)
「今日はご協力いただきますね、旦那様♡」
「ぶっ……! な、なんだその呼び方は……!? 急に“旦那様”なんて……っ」
ノエルが咳き込みながら顔を背ける姿が、どうしようもなく可愛くて、私は思わず笑ってしまった。そのまま彼の肩を押して椅子に座らせる。
「はい、“旦那様”にはおとなしく座ってもらって……っと」
「……は? おい、これはなんの真似だ」
「これはれっきとした“実験”です。大人しくしていただかないと、正確なデータが取れませんから!」
「だからって腕まで縛る必要が……」
「神獣人の力は侮れませんから。動かれると困りますので~」
両手足を固定すると、ノエルが呆れた顔で私を見上げる。私は楽しげに彼の袖をまくり、そっと手首に触れた。
「はい、まずは脈拍と体温を測ります。……あら、脈が速いですよ?」
「だ、誰のせいだと思ってる」
その低い拗ねた声に、思わず吹き出してしまう。
「うふふ、これは昨日ノエルにたくさん意地悪された仕返しでもあるんですから♪」
「……は? なんの話だ」
「私が無理って言ってるのに……でも大丈夫。私は優しくしてあげますからね」
「……やっぱり何か企んでるよな!?」
ノエルの耳が赤く染まり、睨まれても、胸の奥がむず痒くなるばかりだった。
(ふふ、そんなに照れなくてもいいのに)
少し時間を置き、机の上に薬草を並べていく。香りを確かめながら慎重に選び、試作品の軟膏を取り出した。
「これは狼牙の成分をほんの少しだけ含んだ軟膏です。ちょっと冷たいかも……」
「……んっ」
指先で軟膏を取り、ノエルの首筋へそっと塗り広げる。ひんやりとした感触に、彼の喉がわずかに鳴った。その音に気づかぬふりをして、私は手帳にメモを取る。
「……あ、ごめんなさい、そこ敏感でしたか?」
「……っ」
ノエルは答えず、視線を逸らしたまま固く唇を結んでいた。
(こうして触れていると……心臓の音まで伝わってきそう。こんなに近くで見つめるなんて、滅多にないのに……)
沈黙を破るように、彼がぽつりと呟く。
「お前は……少し無防備がすぎる」
「え? 何か言いました?」
「……なんでもない」
その声に小さな熱を感じて、胸が跳ねた。彼の瞳が私を真っ直ぐに映しているのに気づき、慌てて言葉を継ぐ。
「じゃ、じゃあ最後の実験を始めますね!!」
私は深呼吸をしてから、最後の薬草を小瓶に加えた。――その瞬間。
ポトン、と雫が落ちた直後に――
ボンッ!
軽い爆発音とともに、白煙が薬室いっぱいに広がった。
「……っ!?」
煙が晴れると、ノエルの銀髪がチリチリに焦げて、あらぬ方向へ跳ね上がっているではないか。
「ああああ!? ご、ごめんなさいっ!」
「……もう慣れた。お前といると、必ずトラブルが起きる」
「うっ……で、でも試薬はちゃんと出来ましたから! 大成功、です……っ!」
必死にフォローを口にした私に、ノエルはふぅと長くため息をついた。
「せめて、次は安全か確かめてからにしろ……」
「うぅっ……はい……」
「……お前に何かあったら困る」
小さく、ぼそっと呟かれた言葉に、心臓が跳ねる。耳まで赤くなった彼が視線を逸らすのを見て、思わず頬が熱くなった。
その時、扉の外から控えの兵士が声をかけてきた。
「失礼します、ノエル殿下。……カテリーナ様に狼牙を盛った者が、捕まりました」
ノエルの表情が一瞬で引き締まる。
「……捕まった? それって……」
「詳しい話を聞こう。マリー、来い」
「……うん」
甘やかな空気は一転。
私たちは王城の地下へと続く石造りの廊下を進んだ。湿った空気と松明の明かりが揺れる中、重い足取りで進むと、無骨な鉄の扉が立ちはだかる。
「ここか」
「……うん。でもまさか本当に、犯人が捕まるなんて」
兵士が扉を開くと、錆びた蝶番が軋み、冷たい空気が流れ出てきた。
石壁に囲まれた簡素な部屋。中央には浅黒い肌の男が、手足を拘束されたまま椅子に座っていた。年は二十代後半ほどだろうか。整った顔立ちをしているが、その瞳は凍てついたように冷えきっていた。
「こちらが、カテリーナ様に毒を盛った者……かつて王国の情報部に所属していた男です」
「……王国情報部?」
「軍属の中でも暗部を担う部署だ。名前すら表に出ることは、ほとんどない」
私はその男をまっすぐに見つめる。
「どうして、こんなことを。なぜカテリーナさんに……」
「……命令だった。それ以上の意味はない」
まるで天気の話でもするかのように、彼は感情を一切込めずに言い放った。
「命令……誰の?」
「雇い主の命令。それだけだ。雇い主の事情に興味はない」
(この人……本当に、人の命をなんとも思っていないの?)
胸が締めつけられる。けれど、目を逸らすことはできなかった。