第30話 救いの手
「……では、こちらはいかがかしら? 遠方から取り寄せた特別なお酒。もちろん、何も混ざっていない純粋なものよ。証拠に、今ここで——」
カテリーナ様がそう言って一気に飲み干した次の瞬間、
「っ……!」
目を見開いたまま、身体がぐらりと揺れた。
会場中が凍りついたような静けさに包まれる。
「た、大変……!」
「誰か、医師を呼べ!」
ノエルの声が響くより早く、私は瞬時に駆け寄り、膝をついてカテリーナ様の身体を支えていた。
「応急処置をします。失礼します、カテリーナ様!」
ためらいなどなかった。私は彼女の口を開かせ、指を差し入れる。反射的に噛みつかれたが、怯まずさらに奥へと押し込む——
「っ、けほっ、けほっ……!」
喉を刺激され、彼女は胃の中のものを吐き出した。
「……よかった」
安堵も束の間、私はすぐに次の手を考える。立ち上がり、近くの花瓶に駆け寄ると中の花を抜き取り、水を器代わりに注ぎ入れた。食事のテーブルから岩塩と砂糖菓子を掴み、手のひらで潰して水に混ぜ合わせる。
「さぁ、これを飲んで!」
ノエルが驚いたように問う。
「それは……?」
「体内のお酒を薄めるための緊急処置です。気休めかもしれませんが、やらないよりはずっといいです!」
震える彼女の唇に器を当て、少しずつ無理やり飲ませる。最初は拒むようにこぼれ落ちたが、やがて喉が動き、水を受け入れた。
青ざめていた顔に、ようやく僅かな血色が戻り始める。私は息を詰めてその変化を見守り、胸の奥に小さな祈りを抱いた。
周囲にいた人々の間から、ほっとしたような息が漏れる。けれど、その視線には安堵よりも、困惑と疑念の色が濃かった。
カテリーナ様の取り巻きたちは、遠巻きに成り行きを見つめるばかりで、誰一人近づこうとはしない。
(……どうして……こんなことに……)
意識の深淵で、カテリーナ様はか細い声を震わせていた。
◇
空は青空に太陽が高く昇っていたが、徐々に光が翳り始めていた。
カテリーナ様が運ばれ、完全に人々の視界から消え去ったころ、場には再び穏やかなざわめきが戻り始めていた。
「……さっきのマリー様、見た? あの所作……」
「最初は気後れしてたみたいだけど、立ち姿がどこか凛としていたわ」
「前の王妃様のドレスだし、あのワインの受け取り方は、昔の公国では正式なマナーとされていたものです」
貴族たちの間に、確かな“空気の変化”が広がっていく。
私は壁際で静かに佇んでいた。会場の喧騒が遠のいていく中、自分の中にも静かな波が引いていくのを感じる。
(なんだか、変なことに巻き込まれちゃったな……)
ふと、傍らにそっと影が差した。
「……お手柄だったな、マリー」
振り返ると、そこにはノエルの姿があった。
「ノエル様……」
軽く頷き、疲れを見せずに微笑む彼は言う。
「さぁ、あとは祭りの締めくくりを見届けるだけだ」
「……はい!」
ノエルに導かれるまま、私は飛灯の儀へと足を運んだ。並べられたランタンは様々な形や色をしていて、それぞれが誰かの願いを込められるのを待っている。
「さぁ、マリー。そろそろ時間だ」
ノエルの声に、私は空を仰いだ。さっきまで眩しく輝いていた太陽が、影に覆われてゆく。
「……太陽が、消える……」
完全に闇に閉ざされた空。漆黒の夜が訪れたようで、思わず息を呑む。一瞬、世界から光が奪われてしまったかのような錯覚に陥った。
「飛灯を空に上げるぞ」
「はい」
そっと手を離すと、二人のランタンはふわりと舞い上がった。周囲でも次々に光が宙へと昇り、それぞれの願いが小さな炎に託されていく。薄暗い会場を、淡い光の群れが照らし出していた。
「……綺麗」
思わず呟いた声は、夜風に溶けていった。
◇
祭の余韻が遠ざかり、夜。王城の回廊には静けさが戻っていた。ノエルの居室に入ると、暖炉の火が静かに揺れ、薄明かりの中に重ねられた書類と薬瓶が見える。その向こう、ソファに並んで腰掛ける二人の影があった。
「……お前、貴族の間で噂になっていたぞ」
低く静かな声に、私はびくりと身を固くした。
「や、やっぱり何かやらかしちゃってたんですか!?」
「……救助中とはいえ、裾をはだけさせてまで介抱するとは。お前はもっと、自分の立場を意識しろ」
「うぐ……やっぱり……」
ソファの上でしゅんと肩を落とす。どうしても、マナーや立ち振る舞いには自信が持てない。
「やっぱり貴族のマナーとか、無理です……(社畜やってたときの方が、まだわかりやすかった……)」
私がしょんぼりするのを横目に、ノエルはふいに視線を逸らし、ぼそりと呟いた。
「ああいう場には、無理に出席しなくてもいい。……俺が何とかする」
「……え、まさかですけど、私がいろんな人の目に触れるのが嫌だったんですか?」
「はあ!? そ、そんなわけ……あるかっ」
珍しく声を上ずらせて狼狽えるノエル。その姿が可笑しくて、私は口元を押さえながらくすくすと笑ってしまった。
「ほら、赤くなってる」
「ち、違う! あんまり調子に乗るな……!」
私がノエルの顔を覗き込むと、今度は彼が体勢を逆転させ、私を軽々と組み敷いた。
「お前が……からかうから……責任、取れよ」
「……責任って……え、ちょ、ちょっと、ノエルっ……!」
顔がすぐ目の前に迫る。その頬はほんのりと赤く染まり、瞳には揺らぎと熱が灯っていた。
(……この人、普段はあんなに冷静なくせに、どうしてこういう時だけ、こんなに……可愛いの)
胸元に触れた手が熱を帯び、世界がふわりと緩む。
──夜は、ゆっくりと深まっていく。
◇
深夜、王都・貴族区の静かな館の一室。窓のカーテンは閉ざされ、蝋燭の炎だけが揺れていた。
ふかふかのソファに身を沈めているのは、カテリーナだった。紅いドレスは崩れ、整えられた髪もほつれ、いつもの威厳とは似ても似つかぬ姿。
(……なんでよ……どうして……私だけが……っ)
その目は赤く潤み、悔しさと嫉妬と自己嫌悪が入り混じっていた。
そこに、静かに扉が開く音。
「……誰?」
顔を黒いヴェールで覆った人物が入ってきた。その手には小さな銀の瓶が握られている。
「気分が良くなって、すべてを忘れられる薬ですよ……」
「……何、それ」
「狼牙、と呼ばれています。飲めば──煩わしい記憶も、痛みも、溶けてなくなる。あなたの望みは、忘却でしょう?」
その声は妙に優しく、甘く響く。カテリーナはその瓶を震える指で受け取った。
(……全部……忘れられるなら……いっそ……)
銀の瓶の蓋が、静かに開かれる。──再び、静寂だけが室内を支配した。
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