第3話 拾われた命と、手に入れた家族のぬくもり
私には、誰にも言えない秘密がある。
それは元々この世界の生まれではない、ということ。
かつての私は、ただの薬剤師だった。
毎日仕事に追われ、恋愛や趣味なんて後回し。
患者さんのために尽くすことが私のすべてだったのに……。
ある日の夜。仕事を終え、都会から電車に揺られて一時間。
静かな住宅街の歩道を歩く私の足取りは、疲れのせいでどこか重かった。
街灯の明かりがぼんやりと足元を照らし、まるで誘うように家までの道を示している。
ふと、遠くからエンジン音が大きくなるのを感じた。
――嫌な予感。
視線を向けた瞬間、猛スピードで迫る車のライトが視界を埋め尽くした。
次に目を覚ますと、そこは見たこともない場所だった。
私はスラム街の中で、ぼろぼろの服を着た子供の姿で立ち尽くしていた。
「転生って、普通はお姫様とか貴族令嬢になるものでしょ!? なのに、なんで私はこんな薄汚れた路地裏にいるの……? これ、なにかの間違いじゃないの?」
薄汚れた自分の小さな手を見下ろす。動揺で震えが止まらない。
目の前には、粗末な家が立ち並ぶ狭い路地。周囲を見回すたびに胸がざわついた。「こんなはずじゃない」と心の中で何度も繰り返す。でも、どこをどう見ても、ここは異世界。
そして現実はあまりにも非情だった。
食べ物なんて簡単には手に入らない。草をちぎって食べてみても苦いだけ。薬草をすり潰し、少しずつ売って小銭を稼ぐしかなかった。
「野垂れ死になんて、絶対に嫌……」
それでも薬を作り続けていれば、なんとか生きていける。そう思っていた。だけど――
転生から数年後。
夕焼けに染まるスラムの廃墟。
私は壁にもたれて座り込み、空をぼんやりと眺めていた。
「もうダメ……。お腹すいた……死ぬ……」
伸びきった黒い前髪の隙間から指を見つめると、痩せこけた手が震えている。
「あーあ、また独りぼっちの最期かぁ……」
全てを諦め、目を閉じた。
前世ではいつも仕事に追われ、家に帰れば一人。温めるだけのコンビニの弁当を食べ、テレビの音だけが響く部屋。親とは疎遠で、恋人を作る暇もなかった。
だから、せめて次の人生では――。
「今度こそ、家族が欲しかったんだけどな……」
その時。
「お兄様! まだ息がある!」
ぼんやりと意識が遠のいていく中、口の中に流し込まれる液体の感触。
「これ……薬……?」
そのまま意識が途切れ、次に目が覚めたのは、朝日が差し込む寝室。
柔らかいベッドの上で目を開けると、二人の人影が見えた。
「最近噂になっていた薬。どうやらこの子が作っていたらしい」
――助けてもらったの? 私のことを話してる……?
「この子が!? わたくしと同じくらいの年じゃない!」
「それに、スラムの孤児がこんな高度な薬を作れるはずが……。だが、問題はどうするかだな。薬の闇売買は重罪だからな」
――え、私、犯罪者!?
どうしよう。スラムの孤児なんかが捕まったら、どんな目に遭わされるか。
ベッドの上で焦る私。
「……そうだわ。ねぇ、お兄様。この子、養子にしちゃいましょう!」
「……え?」
驚いて声を上げると、少女が私を見て、ニッコリと微笑んでいた。
「こんな有能な薬師を見逃すなんてもったいないわ。なにより我が家にピッタリの人材でしょ?」
まるで買い物みたいなノリに、私はただただ呆然とした。
「安心して。今日からあなたは、わたくしの妹よ!」
◆
昼下がり、穏やかな陽光が降り注ぐシェラード侯爵邸。
執務室で兄姉たちが言い争う中、私はふと自分の手を見つめる。
かつては荒れ果て、冷たく、痩せ細っていた指先。それが今では、すべすべとした温かみを帯び、しっとりと整えられている。
(あの日、私は死ぬ運命だった……)
そんな運命に抗うように、二人は私を拾い、家族にしてくれた。
記憶が鮮明に蘇る。
――ケアラ姉様と並んで庭の小さな花壇に種を蒔いたこと。
「ここに植えたら、春には可愛い花が咲くわよ!」
泥だらけになりながら笑い合い、ほんの小さな芽が顔を出しただけで手を取り合って喜んだ。あの時の嬉しさは、今でも胸に残っている。
魔法薬の調合が成功した日。
「お前は本当に、薬師としての才があるな」
リアン兄様にそう褒められた瞬間、言葉にならないほどの幸福感に包まれた。
私を「家族」として迎え入れ、私の能力を信じてくれた二人。両親を失ったばかりの彼らも、本当は心細かっただろうに、それでも私に手を差し伸べてくれた。
(でも、そのおかげで私は――もう一度、薬師として生きることができた)
私は拳を握りしめ、ゆっくりと立ち上がった。
(だから今こそ、この恩を返さなくちゃ)
胸の奥に、静かに灯る決意。
「お姉様。その縁談――私が代わりに嫁ぎます」
リアンとケアラの前に堂々と立ち、宣言する。
二人は目を見開き、私を見つめる。
「わたくしの身代わりになるって……あなた、何を言っているのよ!?」
ケアラお姉様の声が部屋に響く。驚きと戸惑いが混じった表情で、彼女は私を見つめていた。
「第一、縁談はケアラ宛に来たんだぞ?」
リアン兄様も腕を組み、冷静ながらも困惑の色を見せている。
「目的はお姉様ではなく、侯爵家の知識。たとえ私でも問題無いはずよ。それに……私の実力は二人が一番よく知ってるでしょ?」
私はまっすぐに二人を見つめた。
長い間、二人に支えられながら薬師として成長してきた。その恩を返す時がきたのだ。
「だから、私に任せて」
自分に言い聞かせるように、そう呟いた。
こうして私は、侯爵家の娘として、そしてひとりの薬師として、ノエル・クレアルーンの元へ向かうことになったのだった。