第2話 薬と家計と婚姻と。どれを守るべきか悩み中
「わたくしに縁談ですって!?」
昼下がりのシェラード侯爵邸。
突然響き渡る悲鳴に、屋根にとまっていた鳥たちが一斉に飛び立つ。
私は手元のフラスコを揺らしながら、ちらりと扉の方に視線をやる。
「このふざけた手紙はなんですか、リアンお兄様!」
執務室の扉が勢いよく開かれ、金髪の姉、ケアラが血相を変えて飛び込んできた。手元には、クシャクシャになった便箋が握られている。
対して向かい合うのは、書類を手にしていた兄、リアン。
今にも机を叩きそうな勢いで詰め寄られ、困惑しながら眼鏡を押し上げている。
金髪の二人はよく似た顔つきをしているが、その表情の温度差は歴然としていた。侯爵家の格式ある雰囲気とは裏腹に、室内には緊迫した空気が満ちている。
「どうしてわたくしが、呪われた王子と婚姻なんて……!」
「おい。殿下に向かって不敬だぞ、ケアラ」
「だって……! マリーもそう思うわよね!?」
姉様の視線が、部屋の隅にいる私に向く。
使い込まれて汚れた白衣姿の私は、部屋の隅で化学の実験に没頭していた。机の上にはフラスコや得体のしれない薬品、ネズミの入った小さなケージが所狭しと並ぶ。
「待ってお姉様。今、大事なところで――」
今まさに、試薬を混ぜる瞬間で、微妙な配分が成功を左右するのだ。私は慌てて返答するが、彼女は容赦なく机の上の実験道具を片付け始めた。
「あー!!」
悲鳴をあげる私をよそに、ケアラ姉様は不満げに腕を組む。
「もうっ、マリーったらいつも薬の研究ばっかり……」
「おい、妹を巻き込むんじゃない」
リアン兄様が溜め息混じりに言いながら、冷静な口調で説明を始める。
「そもそも、王子は数百年ぶりに覚醒した神獣人なんだぞ? 呪われているとはいえ、我が公国の守護者として国を守ってくれているんだ。もっと彼に敬意を持たねば……」
ケアラ姉様は不満げに唇を尖らせる。
「でも、あの王子は恐ろしいケダモノだって悪評が……!」
私は姉様の言葉に頷きながら、思考を巡らせる。
――クレアルーン公国の第一王子、ノエル・クレアルーン。
戦神として他国の侵略から国を守り、見た目も悪くないらしいけれど……戦いぶりは獣のようだというし、公の場で笑顔を見せたことがないくらい冷酷で、恐ろしい人だと有名だ。
お姉様が嫌がるのも当然よね。
思考の間にも、ケアラ姉様とリアン兄様の言い争いは続いている。
私は小さく息をつきながら、机の上の薬品を片付け始めた。
――まったく、王家も嫌な要求をしてきたものだ。
シェラード侯爵家は、“癒しのシェラード”と呼ばれるほど、代々薬師としての知識を蓄えてきた家柄だ。しかし、呪いは門外漢。なのに、なぜこんな話になったのか。
私は思わず兄の手元にある帳簿に目をやる。
そこに書かれていたのは日々減り続ける、侯爵家の財産だった。
先代侯爵が亡くなってから、家計は火の車。侯爵家を存続させるには、王家との縁談は渡りに船。
リアン兄様は、その現実を突きつけるように、帳簿を静かに閉じた。
その時、ケアラ姉様が再び声をあげる。
「それに、わたくしにはもう運命の王子様が……!」
そういえば、姉様はもともと、小さな商家の若旦那と結婚する予定だったっけ。
顔よし、性格よしの優良物件だった気がする。でも――
「わかっている。だが、この状況では……」
リアン兄様は無言のまま帳簿を指で弾く。その厳しい表情に、姉様の反論が詰まった。
その瞬間、二人の視線が私へと向けられる。
「マリーはお姉ちゃんの味方よね!?」
「マリー、お前は兄の味方だよな?」
金髪の兄妹が同時に私の元へ迫る。その勢いで、机に残っていたフラスコが倒れそうになり、私は慌ててそれを押さえ込んだ。
何とか机の器具を守り通し、ホッと息を吐く。
「ちょ、ちょっと落ち着いてよ二人とも!」
まるで板挟みになったように、私は両手を上げて必死に間を取り持とうとする。兄と姉の真剣な視線が、まるで自分がこの場の審判であるかのように突き刺さる。
(本当にこの二人は騒がしいんだから……)
軽く溜め息をつきながら、私はそっと机の端に手を置いた。
騒がしいけれど、こんな風に言い合える家族がいる。それはきっと、すごく幸せなこと。
(――でも、それは単に運が良かっただけ)
私はこの日常が当然だなんて思えない。
なぜなら、私は――