第19話 その香りに溺れて
「それで、ツィオさんを殺した犯人は……?」
マリーの問いかけは静かだったが、その声の奥には不安と怒りが滲んでいた。俺は無言で首を横に振る。それだけで、マリーはすべてを察したようだった。
彼女は唇を噛みしめ、小さくうつむく。
「人を救うための薬で、誰かを傷つけようなんて……絶対に許せないわ」
真っすぐな憤りに満ちた声。その正義感に、俺の胸の奥がきゅっと痛む。
「ツィオは……優しい人だった。誰かに脅されて、仕方なく協力していたのかもしれない」
静かに口を開きながら、彼の面影を思い出していた。薬の知識に長け、俺の神獣化を恐れずに向き合ってくれた、数少ない理解者。
その最期の苦悶を想像すると、胸が張り裂けそうになる。
だが、悲しみに呑まれているわけにはいかない。
「真相を知りたい。そして、必ず犯人を見つけ出す。だから……マリー」
俺は彼女の瞳をまっすぐに見つめる。
その視線を、マリーも正面から受け止めてくれた。
「キミの薬師としての力を貸してほしい」
「それって、もしかして……」
彼女の声がかすかに震える。
「ああ。俺の専属薬師になってくれないだろうか」
言った瞬間、マリーの目が大きく見開かれた。
そして次の瞬間、ぱあっと花が咲くようにその顔が輝き出す。
だが、その空気を断ち切るように、気だるげな声が横から割って入った。
「ほんっとに、ノエルには勿体ない人だよね」
振り返ると、ニケが変わらず眠たそうな顔でこちらを見ていた。
「……どういう意味だよ」
「だってこれ、もう完全に愛でしょ? なのにノエルは、マリーお姉ちゃんのことが好きじゃないんでしょ?」
「いや、別に嫌いってわけじゃ……」
言いかけて、言葉が喉につかえた。
貴族の娘たちに囲まれても何も感じなかった俺が、なぜ彼女の言葉や表情に一喜一憂している?
この無鉄砲で真面目すぎる薬師のことを、なぜこんなにも目で追ってしまう?
(……あれ?)
胸の奥がじんわりと熱を帯びていた。
(まさか、これが“好き”ってやつなのか……?)
ぶんぶんと首を振る。そんな馬鹿な、と自分を否定した。
ましてや当の本人であるマリーは、今この瞬間も恋愛感情ではなく、研究対象を見つけたかのような眼差しを俺に向けているし。
「本当に私が専属薬師でいいんですか!?」
「ああ。頼りにしてる」
その言葉に、マリーは満面の笑みで飛び跳ねそうになっていた。
そんな彼女を見て、俺の胸にふと疑問が湧いた。
俺は、この気持ちをどう返せばいいのだろう。
(誰かが俺を害そうとしているということは、マリーも危険に晒されているはずだ。だったら俺は——その障害をすべて取り除く)
正妃の冷たい視線、モルトの不気味な笑み。
これまでは目を逸らしていたけれど、今は違う。
(……たとえ血縁でも、大切な人を傷つけようとするなら、俺は容赦しない)
(それにしても、当の本人はまったくその危機感がないんだからな……他人には鋭いくせに、自分に関しては本当に鈍い)
ふと、彼女の頬にインクがついているのに気づいた。
「……まったく」
よっぽど実験に夢中だったのだろう。俺はそっと手を伸ばして、その跡を指でそっとなぞるように拭う。だが、手は自然とそのまま彼女の頬にとどまり、離すことができなかった。
視線が絡み合う。
言葉も、動きもなく、ただ互いの存在だけが世界の中心になっていた。
「ノ、ノエル……?」
小さく震える声。戸惑いと緊張を押し隠せない様子が、かえって愛おしく感じられる。
「今日は震えないんだな」
「……? なにをいまさら」
「怖いとは思わないのか?」
「ノエルが無意味に暴力を振るう人なんかじゃないって、今は分かってるもの」
その言葉に、胸の奥がじんと熱を帯びた。
「……ふ。そうか」
思わず頬が緩むのを自覚しながら、ふと、彼女に顔を近づける。
「そういえばお前って……いい匂いがするよな」
「え?」
答える暇も与えず、彼女の肩に腕を回し、ゆっくりと身を寄せた。
そしてまるで本能に導かれるように、首元に鼻を寄せ、深く香りを吸い込む。
甘くて柔らかな、どこか懐かしいような匂い。
「甘い匂いで……頭がぼんやりしてくる。いつまでも嗅いでいたくなるような……」
「ちょっ、近っ……!」
熱っぽい息が耳にかかり、マリーがびくっと震えるのが分かった。
その顔は真っ赤に染まり、唇は震えている。
(……どうしよう、これ。抑制薬、効いてるはずよね!? もしかして量を間違えた!?)
マリーの内心の悲鳴が聞こえてくるようだった。
だが、彼女が動くよりも早く。
――ふわり。
俺の頭が、彼女の肩にそっと預けられた。
◇
え……。
目の前でノエルが、ふわりと私の肩にもたれかかってきた。
首元に感じていた熱がすっと消えて、代わりにスースーと規則的な寝息が耳元をくすぐる。
「え、ちょ、ちょっと待って……ノエル?」
まさかこんな状況になるなんて、誰が予想しただろう。
私は顔を真っ赤に染めながら、その重みに耐えるしかなかった。
(まさか、眠った……?)
確認するように彼の顔を覗き込めば、穏やかな寝顔がそこにあった。
夢でも見ているのか、唇の端がかすかに上がっている。
(あんなにドキドキして、近すぎて、もう無理!って思ったのに……)
肩の上で寝息を立てている彼に、文句ひとつ言えなくなってしまっている自分が情けないやら可愛いやらで、複雑な気持ちになる。
そんな私の心の混乱を、さらなる一撃が襲った。
「――ねぇ。僕もいるってこと、忘れてないよね?」
「ニ、ニケ!?」
反射的に声を上げてしまう。
すっかり気配を忘れていた。いや、意識の外に追いやっていた。
ニケはあきれたようにため息をついて、飄々と手を振った。
「はぁ、まったくもう。それじゃ僕は部屋に戻るから。仲良くノエルと寝てね」
「えっ、あ、えええ!?」
「おやすみ、マリーお姉ちゃん」
ニケは小さく笑いながら、軽やかにその場を去っていった。
残された私は、ノエルの寝顔を見下ろしながら、天を仰ぐしかなかった。
「……私に、どうしろっていうのよ〜っ!」
夜の静寂に紛れて、私の悲鳴がこだました。
◇
そのころ——。
王城の奥深く、重厚な扉に守られた正妃マルグリットの私室では、ひときわ冷ややかな空気が流れていた。
煌びやかなシャンデリアの下、マルグリットは長椅子に身を沈め、ワイングラスを手にしていた。
だが、その視線は遠く、どこか苛立ちを含んでいる。
「マリーという小娘、ただの落ちぶれた侯爵家の無能娘かと思いきや……まさか、あの狂犬を手懐けるとはね」
唇から零れる言葉は毒そのものだった。
対する第二王子モルトは、母の向かいの椅子に余裕たっぷりと腰かけ、紅茶を楽しむようにカップを揺らしていた。
「良いではないですか。それでこそ、張り合いがあるというものですよ、お母様」
その言い草に、マルグリットはグラスを机に置き、目元を吊り上げる。
「馬鹿なことを言うんじゃありません。あの娘がこのままノエルの側に居座るようなら……王位継承に関わるのは必至。こちらも、手段を選んでいる余裕はないのよ」
マルグリットの指先は、焦燥を物語るように何度も指輪をいじっていた。
その姿を見ても、モルトはにこやかだった。
その余裕は、計算された冷淡さからくるものだ。
「ふふっ……あのお母様が、ここまで苛立つとは」
カップを置き、彼は小さく笑った。
(僕も、興味が湧いてきたよ——ノエル兄さんが選んだその娘に)
深紅の瞳に、ぞくりとするほどの知的な光が宿る。
正妃の脅威となりつつある“マリー”。
その名が、静かに王城の闇を揺らし始めていた。
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