第18話 雨音と心の距離
ざあざあと降りしきる雨音が、胸の奥まで沁みてくる。まるで過去の痛みや罪の重さを洗い流すかのように、それは容赦なく俺を打ちつけていた。
城門の前で、ずぶ濡れになりながら俺は空を見上げる。沈みゆく夕陽に照らされた王城のシルエットが、どこか幻のように揺らいでいた。
たった一人で戦場に立ち尽くしているような、そんな感覚。
冷たい雨に濡れた身体より、心のほうがよほど冷えていた。
「たとえ不要だと思われようが、俺は神獣人としてこの国を守る。その果てに、死が訪れようとも……そもそも、他に生きる理由なんて俺には……」
濡れた髪が頬に張り付き、ぼやけた視界に王城の尖塔が滲んでいる。足取りは重く、だが確かに王城の中へと向かっていた。
夜の帳が降りた静寂の廊下。
窓硝子に映った自分の姿は、見違えるほどやつれていた。
(……ここに戻ってくるのは、三日ぶりか)
疲弊した顔。震える指先。胸の内に巣食うのは、あの忌まわしい記憶だ。
ツィオの死。
狼牙によって理性を失い、ケダモノと化して崩れ落ちた彼の姿。
(俺も、いずれ同じ末路を辿るのか……)
抑制薬を使えない今、その不安は現実味を帯びていた。
そんなときだった。
「あっ、ノエル、おかえりなさい! ……って、どうしたのよ!? 全身ビショビショじゃないの!」
駆けてくる足音と共に、声が廊下に響いた。
白衣姿のマリーが、慌てた様子で駆け寄ってくる。そして、迷いもなく俺の髪にハンカチを当ててきた。
「なんだ、まだ起きていたのか……」
「起きていたのか、じゃないわよ! そのままじゃ風邪ひいちゃうじゃない!」
呆れと心配が入り混じった声。けれどその手の動きは優しくて、何も言えなくなってしまう。
ふと、彼女の顔に目がいった。
目の下には濃いクマ、擦り切れた袖、そしてこけた頬。
俺と同じか、それ以上に無理をしているのが一目でわかる。
「どうしたんだ、お前こそ……そのボロボロな恰好は……」
「そんなの、貴方に言われたくないけど……でも、聞いて! ついに完成したのよ!」
マリーはぽんっと懐からひとつのフラスコを取り出し、誇らしげに俺の前に突き出した。
「狼牙に対抗する特効薬よ!」
マリーの瞳がきらきらと輝いていた。
「え? でも薬師たちの話じゃ、特効薬は見つかっていないって……」
思わず眉をひそめながらそう返した俺に、彼女は得意げな笑みを浮かべたまま頷く。
「たしかに毒を無効化する薬はまだ無いわ。というより、これはその逆ね」
「逆……?」
疑問を込めた声に、マリーはぴんと人差し指を立てて説明を始めた。
「月光草に含まれる成分をあえて利用したの。これはとある酵素で代謝されるんだけど、今回はそれを邪魔する効果のある物質を薬草から抽出して……」
「ま、待ってくれ。俺にも分かるように説明を頼む」
矢継ぎ早にまくし立てられ、頭が追いつかない。俺は思わず手を挙げて制止をかけた。
マリーは口元に手を当て、照れくさそうに笑った。
「簡単に言えば、この薬は狼牙の代謝を止めちゃうの。薬の濃度を一気に上げることで、本来なら不要な副作用をメインの効果より先に出させるって仕組みよ」
俺が何も言わずにいると、彼女はさらに説明を加えた。
「あとから狼牙を口にすれば、嘔吐に頭痛、下痢なんかに苦しむこと間違いなし……って、どうしたのノエル?」
夢中で話していたマリーが、ふと俺の顔を見て首を傾げる。
「いや……むしろ危険度が増したように聞こえるんだが。それは本当に“特効薬”って言えるのか?」
「もちろん健常者にはまったく無害よ? あ、それでね。お城の兵士さんにお願いして、何人かの中毒患者に試してみたの。そしたら、全員に効果てきめんだったのよ!」
得意げなマリーの声とは裏腹に、俺の頭に浮かんだのは転げ回り苦しむ患者たちの姿。
兵士たちの微妙な顔も目に浮かぶようだった。
(……やれやれ。これは喜んでいいのか悪いのか)
だが確かに、再使用させないという点では、これ以上に効果的な方法はないかもしれない。
(毒性を消すのではなく、あえて強調することで薬物を断たせる……逆転の発想か)
そのぶっ飛んだ発想力と実行力に、俺は思わず言葉を失っていた。
「マリーの言うとおりの効果なら、たしかに再犯防止に役立つな。使用を義務付ければ、予防にもなるかもしれない」
俺がそう呟くと、マリーは目を輝かせてフラスコをもう一本取り出した。
「でしょう!? あ、そうそう。それでこっちが改善したノエル用の抑制薬」
「え……」
俺が戸惑っていると、彼女は嬉しそうに胸を張った。
「狼牙の特効薬は、貴方の抑制薬を作る過程で完成したのよ。もちろん、変な作用は無いから安心して!」
言葉を失っていると、どこからともなく眠たげな足音が近づいてきた。
「お姉ちゃん、あの事件の日からずっと部屋にこもって作ってたんだよ」
姿を現したのはニケだった。半分眠そうな目で俺を見上げてくる。
「マリーが?」
驚いて問い返すと、ニケはこくりと頷いて続けた。
「大変だったんだよ?『頑張るノエルのためにも早く完成させなくっちゃ』って、食事も睡眠も忘れてさ」
「ちょ、ちょっとニケ!? それは秘密にしてって言ったでしょ!」
マリーは真っ赤になりながら慌ててニケの口をふさぐ。だが、もう手遅れだ。
俺のために、ここまで……。
胸の奥がじんわりと温かくなっていくのを感じた。
「ささっ、お試しでどうぞ! 味も甘めにして、飲みやすくしてありますから!」
フラスコを差し出すマリーは、まるで子どもみたいに無邪気な笑顔を浮かべていた。
「……ありがとう」
俺が礼を言うと、マリーは「いえいえ、お気になさらず!」と満面の笑みで返してくる。
このまま断るのは失礼な気がして、俺は覚悟を決めて口元へフラスコを運んだ。
「ねっ?」
ひと口飲んだ瞬間、驚いた。
たしかに甘い。でも、それだけじゃない。
この味には、彼女の気遣いと想いが込められていた。
「……うん。優しい味がする」
そう口にしたとき、自分でも知らぬ間に表情が緩んでいた。
「えへへ、良かった!」
マリーの無邪気な笑顔を見て、思わずふっと笑みがこぼれる。
こんな穏やかな顔を自分がしているなんて、ニケですら見たことがないかもしれない。
(そうだ。俺にはまだ、この二人がいるじゃないか……)
ツィオを喪ったとき、心にぽっかりと穴が空いたようだった。
でも今、隣にはマリーがいて、ニケがいる。
(たとえ神獣化で心を失いかけても、こうして心配してくれる人がいる。それだけで、俺はまだ戦える)
もう一度前を向ける気がした。
誰かの想いに支えられることが、これほど強さになるなんて。
(周囲が俺を恐れ、遠ざけても。この二人が笑ってくれるなら——命を懸けて戦う価値がある)
今、俺は心からそう思える。
この世界に、自分がいてもいいのだと。





