第17話 神獣の本能、理性の檻
曇天の空の下、風がざわりと草原を撫でていく。
ツィオが殺されてから一日半。あの日、城を飛び出してから、俺はただひたすら走り続けていた。
今は、公都の隣町に広がる平原の中。鼻腔を掠める匂いだけを頼りに、逃げた犯人を追っている。
神獣の力を解放した今、俺の姿は人のそれではない。
腰まで伸びた銀の髪が風に揺れ、指先には獣の爪、牙もむき出しになっていた。紅に染まった瞳には、狩人としての本能が宿っている。
薬瓶に残されていた微かな香り。それが、俺をここまで導いてきた。
途中、道の端で主を失った馬がうろついているのが見えた。
(……馬を乗り継いだか。逃げ足の速い奴だな)
俺は一瞬だけ目を細め、空を仰ぐ。
昼間のはずなのに、雲が分厚く、まるで夕暮れのように暗くなってきている。
「……雨が来るな」
つぶやいた声は、風にかき消されるほどの低さだった。
(匂いが消える前に……必ず追いついてみせる)
俺の銀の髪が背後で翻るたび、大気が冷たく震えた。
ツィオを殺したあの手を、この手で必ず――
俺は、地を蹴った。
もうすぐだ。
雨の気配が濃くなってきた空の下、俺は一気に足を速めた。
そして、辿り着いたのは小さな田舎村。
王都の外れにあるこの村は、茶畑が広がる静かな場所――だが、今の俺には別のものに見えた。
「茶葉の生産をしている村か……匂いの元は、あの建物のようだな」
村の中心に建つ、年季の入った茶葉加工所。
その木造の建物から、微かに残り香が漂っていた。
ぽつ、ぽつ、と。
空から大きな雨粒が落ち始める。時間がない。
俺は音を立てないよう足を運び、建物の扉をそっと押して中を覗いた。
人影はない。干された茶葉、蒸し器、木のカゴ。どこから見ても普通の加工場だ。
だが――
鼻をひと鳴らしすれば、すぐにわかる。
(この匂い……奥だな。ここで狼牙を精製していたか)
茶葉と見せかけて、偽装しやすい植物で毒を作る。表向きは普通の農村、だが中身は毒の巣窟というわけか。
「だが――俺を舐めたな」
そのまま現場に踏み込もうとした、そのときだった。
背後で気配が跳ねた。
すぐに身をひねる。
風を裂いて飛んできた棒。続いて、鎌。複数の人間が俺を囲もうとしていた。
(罠か……俺が来ることを予想していたな)
視線の先には、農民風の男たち。だがその目は虚ろで、口元から泡すら浮かんでいる。
「チッ、狼牙の中毒者か。理性を捨てて、ただの暴徒と化している」
俺は剣に手を伸ばしかけ、だが途中でやめた。
(町の人間か……殺すわけにはいかない)
代わりに、手刀で意識を刈り取ろうとする。
「っ……動きが鈍い」
だが倒したはずの男が、地面を這うように起き上がってきた。
「ゾンビかよ……! 敵国の兵士なら、遠慮なく斬れるというのに……っ」
どこか苛立ちを混ぜながらも、俺は歯を食いしばった。
こいつらは、操られているだけだ。
本当に裁くべきは――その裏にいる、黒幕だ。
(おそらくこの者らは雇われただけで、なにも知らないだろう。かといって殺してしまうわけには……)
拳を握りしめながら、俺は再び向かってくる暴徒たちをいなしていく。だが、次から次へと途切れることなく現れるその数に、さすがの俺も息が上がっていた。
「次から次へと……しつこいっ!」
一人をかわした瞬間、別方向から斧が飛んできた。鋭い刃先が頬をかすめ、じわりと血がにじむ。
「……っ!」
片膝をついた俺は、胸を押さえて蹲った。
「こんなときに、発作が……っ。負担をかけすぎたか……」
息を荒げながら、胸元に手を伸ばしかけて、そこで思わず手を止める。
――マリーの言葉が、頭の中に蘇った。
「月光草は、ノエルの抑制薬にも使われていたみたいなんです」
「……これ以上、これを使うわけには……」
薬が、俺を蝕んでいる。
抑制するはずのものが、逆に発作を呼び込んでいる。
耐えろ。
殺すな。
倒せ。
守れ。
幾重にも重なる命令と衝動が頭の中で渦巻く中、俺は再び立ち上がる。
理性が少しずつ薄れていくのがわかる。
神獣の本能が、俺の意識を内側から食い破ろうとしている。
それでも、手加減を忘れなかった。
剣は抜かない。
手刀で、打撃で、どうにか暴徒たちを制圧していく。
何人倒しても、また立ち上がってくる。
だがそれでも、ひとり、またひとりと気絶させ、やがて……
最後の一人が、力尽きて地面に崩れ落ちた。
あたりに再び静寂が戻ったとき、俺はその場に膝をついていた。
傷だらけの身体。
視界の端が滲む。
呼吸もままならない。
「……っは……は……」
それでも俺は、歯を食いしばって顔を上げる。
「黒幕……必ず……引きずり出してやる……」
荒れた呼吸を整えながら、俺はよろよろと立ち上がった。
傷だらけの身体を引きずるようにして、茶葉加工場の奥――狼牙を製造していたと思しき部屋へと足を踏み入れる。
そこに広がっていたのは、無残な光景だった。
「……無茶な特攻は、時間稼ぎだったか。してやられたな」
床には砕け散ったガラス片。薬品の匂いが鼻をつく。赤や紫に怪しく発光する液体があちこちに飛び散っており、机の上にあったはずの資料は――跡形もなく焼かれていた。
黒焦げとなった紙片の山。それは、誰かが意図的に証拠を潰したことを物語っていた。
「証拠隠滅は完璧か……。痕跡すら残していないとは、用意がいい」
俺はゆっくりと目を閉じる。
この村の管轄は、たしか――
「……正妃派の貴族だったな」
顔をしかめる。
脳裏に浮かぶのは、しらばっくれる貴族たちの顔、顔、顔。
「この件への関与は間違いない……とはいえ、奴らが素直に認めるわけがないか」
(だが……正妃派の狙いはなんだ? 抑制薬に毒草を混ぜた理由は? 俺の命を狙うだけの単純な話じゃない。もっと深い意図があるはずだ)
「……俺は、ただ国を守りたいだけだ。王位なんて、興味はない」
にもかかわらず、なぜここまで敵視されるのか。
血の繋がった家族でさえも、立場が違えば敵となる。
その現実が、胸に重くのしかかる。
拳を、きゅっと握りしめた。
そして――俺は静かに、王都へ帰るために歩き出した。





