第15話 専属薬師の遺品
重苦しい沈黙が医務室を支配していた。
ノエル様の厳しい横顔に誰もが言葉を失い、ツィオの遺体にかける言葉すら見つからない中――別の、しかし無視できないざわめきが起こった。
「……あの、ツィオ氏が亡くなった今、彼の後釜は我々の誰かが……?」
ひそひそと交わされる声。薬師協会の者たちが、部屋の隅で集まって何やら話し込んでいる。
白衣に身を包んだ男たちが顔を寄せ合い、声のボリュームを落としながらも、切実な不安を押し殺すことができていなかった。
「銀狼殿下の専属なんて、私は嫌ですぞっ」
「誰がやるかで揉めるのはよくないが……まあ、押しつけ合いになる気持ちも分かりますな」
「だいたい、あの殿下は普通じゃないですし……いつ何を言い出すか分からん」
敬意の欠片もない、保身と臆病な本音の応酬。彼らにとって銀狼の名を持つ王子は、畏れと噂の象徴でしかなかった。
その囁きがマリーの耳にも届いた瞬間、空気がピリリと張り詰める。
「……ッ」
ノエル様が視線を上げた。
真紅の瞳がゆっくりと薬師たちをなぞり、その鋭さに凍りついたように彼らは言葉を失った。
たったそれだけで、部屋の隅の空気は一気に沈黙に包まれる。
ノエル様の眼差しは、威圧というより、王としての矜持と怒りが滲んでいた。
そんな緊張のなか、控えていた兵士の一人が、おずおずと手を挙げ、申し訳なさそうに声を上げた。
「失礼いたします。この部屋の金庫から……“狼牙”と、それと彼の物と思われる日誌が見つかりました」
静まり返った室内に、思いもよらぬ新事実が告げられる。
兵士が手にしていたのは、使い込まれた革張りの分厚いノートと、小瓶に詰められた薬物の粉末だった。
ノートを受け取った側妃派の貴族が、その場でページをめくる。
目の動きが止まり、顔に険しい影が落ちた。
「ふむ……『狼牙』の製造を依頼された記述……加えて、薬理構造の解析と、試行錯誤の記録まで……これは……」
貴族の眉間に深い皺が刻まれる。
「……薬師が狼牙の製造に関与していたという、動かぬ証拠だな」
どよめきが再び広がる。
「それと……こちらも」
もう一人の兵士が、今度は束ねられた乾いた草を差し出した。
布の包みがそっと開かれ、白銀に光る花が姿を現す。アサガオに似た形状だけれど、光沢が異様で、どこか妖しい。まるで月の光を閉じ込めたような……そんな幻想的な美しさに、私は思わず息を呑んだ。
「……これは?」
正妃派の貴族が眉をひそめながら問う。
「金庫に保管されていた植物です。日誌の中でも繰り返し言及されており、研究材料として扱われていたようです」
「……ふむ。このノートによれば、狼牙は主にコイツを材料に製造されていたようだな」
側妃派の貴族が日誌をめくりながら低く呟く。その一言に、室内の視線が植物と日誌の双方に集中した。
「なになに? 葉と種を月の光に二晩浴びせたのちに、南を向いて祈りの言葉をかけながら煎じる? おい薬師。なんだこのヘンテコな草は?」
正妃派の年配貴族が鼻で笑いながら口にすると、あちこちでくすくすと笑い声が漏れた。その軽薄な態度に、私は反射的に眉をひそめた。
「え、えぇっと。非常に珍しい植物のようですが……その、名前が思い出せませんな……」
薬師のひとりが額に汗を浮かべながら答える。明らかに動揺していて、その場の重圧に押し潰されそうになっていた。
私はもう我慢できず、口を開いていた。
「あのぅ、もしかしてそれ……月光草じゃないですか?」
私の声が響いた瞬間、室内が水を打ったように静まり返る。すべての視線が一斉に私へと向けられた。
「……えっと、あなたは?」
薬師のひとりが戸惑いながら尋ねてくる。
「ノエル殿下の妻で、野生の薬師です!」
胸を張って名乗ったものの、その直後に走ったざわめきに、頬が引きつるのを感じた。
(あの変わり者の)
(癒しのシェラード家?)
(女の薬師……協会は何をしているんだ?)
どれも無視したくなるような言葉ばかり。だけど、私は引き下がらなかった。
「月光草は、ノエル様の抑制薬にも使われていたみたいなんです」
静かに、しかし明確に言い切った。
すると、沈黙を破るように薬師のひとりが手を打った。
「思い出しました! たしか古い文献にありました。別名『悪魔の誘惑』。強烈な幻覚作用を持ち、過去に公国中から駆逐された幻の植物だったはずです!」
「なら違う植物なのでは?」
正妃派の貴族が訝しげに言う。
「で、でも……!」
私は慌てて言葉を継ごうとするが、咄嗟に次の言葉が出てこなかった。
「ならば、この場で確かめてみましょう」
落ち着いた声で割って入った薬師が、植物の束を手に取る。
「簡単に確認する方法があったはずです」
彼らは慣れた手つきで器具を並べ、フラスコに薬液を注ぎ、試薬を加えていった。化学反応が進むにつれ、液体が淡く銀色に光り出す。
その光はまるで、夜空の中に浮かぶ月の吐息のように幻想的だった。
(やっぱり……間違いない。あれは月光草だ)
私の中にあった疑念は、確信へと変わっていた。
「これは……」
沈黙の中で、薬師のひとりが小さく呟いた。その声はわずかに震えていて、場にいた全員が続きを待つように息を詰める。
「どうだったのだ?」
正妃派の貴族が低い声で問いかける。声の裏には、不安と期待が交じっていた。
「間違いありません。この淡い銀色の光は、月光草特有の反応です」
薬師の言葉が落ちた瞬間、空気が変わった。鋭い緊張が場を走り、貴族たちの視線が揃って月光草と薬師に向けられる。
「念の為、殿下の薬も確認させてください」
薬師が慎重にそう申し出ると、ノエル様は短く頷き、無言のまま懐から瓶を取り出した。
「……あぁ、わかった」
薬師が受け取った抑制薬を素早く試薬と混ぜる。フラスコの中の液体が淡く輝き出すまでに、長い時間はかからなかった。
月光草とまったく同じ反応。
その瞬間、室内は凍りついたように静まり返った。
「まさか……殿下の薬に……?」
「嘘だろ……ツィオが……?」
誰かのかすれた声を皮切りに、ざわめきが広がっていく。
「このツィオという男は狼牙を国に広めている、逆賊の一味だったというわけか。依頼人の名前こそ書いていなかったが、誰かに雇われていたのだろうな」
「まさか彼に指示していた人物が、証拠隠滅を図って……」
貴族たちの声が交錯し、疑念と恐れ、怒りが混ざり合って渦を巻く。
そんな中、ノエル様は黙ったまま、鋭く細めた目で一点を見据えていた。
(いったい、誰がこんなことを……)
怒りでこめかみがぴくりと震え、彼の拳は知らぬ間に固く握りしめられていた。指先が白くなるほどの力で、今にも血が滲みそうなほど。
それが、ただの怒りではないことは私にも分かった。
ノエル様にとって、ツィオはただの薬師ではなかった。
恩人であり、数少ない信頼を寄せられる存在だった。その彼が殺されただけでなく、自身の薬にまで毒が仕込まれていたという事実。
それは、王子としてではなく、一人の男として――決して許せるものではなかった。
「今から俺がツィオを殺した犯人を追跡する。誰がこんなことをしたのか、捕まえればすべてがハッキリするだろう」
その言葉は、低く、静かに放たれた。
だがそこに込められた気迫は、どんな怒号よりも重く、鋭かった。
「まっ、待ってください。殿下が直々にですか!?」
側妃派の貴族が慌てて声を上げたが、ノエル様はすでに踵を返していた。
「金庫に証拠が残されたままということは、どうやら犯人は逃げ出すのに精一杯だったようだ。どうにか自分の痕跡は消したみたいだが――匂いまでは消せなかったらしい」
その言葉とともに、彼の視線が薬瓶に落ちた。
そしてゆっくりと口元を吊り上げる。冷笑とも、獣の嗤いともとれるその表情に、思わず私は背筋を凍らせた。
「俺には神獣人の鼻がある。誰を敵に回したのか、存分に後悔させてやろう」
その宣言には、確かな死の匂いがあった。
重く、鋭く、容赦なく。
ノエル様が一歩、また一歩と歩み去っていくたび、医務室の空気は張りつめたまま動かない。
もはや、誰も彼を止めることはできなかった。