第14話 薬師と王子と、もう一人の“わたし”
「ノエル様の専属薬師が……遺体で発見されました」
その一報が届いた瞬間、私の思考は一瞬にして凍りついた。
ノエル様、ニケ君、そして私の三人は、急ぎ足で王城の医務室へと向かう。
冷たい石造りの廊下を走るたび、胸の奥に嫌な予感が渦を巻いた。
駆け込んだ医務室は、学校の保健室ほどの広さだった。
薬師一人に与えられるには十分な空間で、棚にはきっちりと並べられた医薬品の瓶、木製の机には分厚い本が数冊置かれている。几帳面な性格を思わせる整然とした空間だった。
だが、その整った部屋の中心に、異様な光景があった。
白衣の人物が床に倒れていた。
顔は苦悶に歪み、片手を伸ばすような姿勢のまま、動かない。既に死後の時間が経っているのか、肌に生気はなく、冷たさが部屋の空気を支配していた。足元にはいくつかの薬瓶が転がり、悲劇の瞬間を無言で物語っている。
命のやり取りが行われていたはずの部屋に、もう生命の気配はなかった。
「ツィオ……!」
ノエル様の震える声が、静かな室内に落ちた。
彼はふらふらと膝をつき、まるで吸い寄せられるように遺体へと近づいた。指先が触れることはなかった。ただ、そこにいた“誰か”の不在を痛感するように、視線だけを落とす。
私は、その背中を見つめながら、胸がじくじくと痛んだ。
(こんなノエル様、見たことない……)
普段の彼は冷徹で、感情をあまり表に出さない。誰の意見にも左右されず、王子としての責務を果たす鉄面皮――そう思っていた。
けれど、今ここにいるのは、一人の青年だった。恩人を喪った悲しみを隠そうともしない、心を持った人間の姿。
「ツィオさんは……どんな方だったんですか?」
私の問いに答えたのは、傍にいたニケ君だった。
「ノエルは、ツィオのことを本当のお兄ちゃんみたいに慕ってたんだよ。いつも体を気にかけてくれて、無理をしないようにって口うるさく言ってくれる、数少ない大人だったから」
その言葉に、ノエル様の肩がわずかに揺れた。
(あのとき……抑制薬の成分について変だと話したときの、あの表情も……)
その瞬間の違和感を、私はようやく理解した。
きっと彼は、私の言葉で“ツィオさんを疑ってしまった”ことに怒ったのだ。
信じていた恩人に限って、そんなことをするわけがない――そう信じていたからこそ、抑制薬の話をされて、心の底から動揺してしまったんだ。
ツィオさんは、ノエル様にとってただの薬師ではなかった。
だからこそ、彼を信じる気持ちを脅かすような私の発言は、彼にとって許しがたいものだったのだ。
ようやくその理由に気づいて、私はそっと唇を噛んだ。
この悲しみと怒りの中で、ノエル様がどんな想いを抱いているのか。それを考えると、胸が締め付けられて仕方なかった。
そのときだった。
遠くから複数の足音と怒鳴り声が重なり合って、廊下に響き始めた。重厚な石壁に反響するその音は、まるで不吉な報せのように私たちを包み込む。
「王城で不審死だと!? 原因はなんだ、賊か!?」
「まったく、警備の兵士どもは何をしているのだ。正妃様がお嘆きになるぞ」
医務室の扉が激しく開かれ、怒気を含んだ声とともに、正妃マルグリット派の貴族たちが雪崩れ込んできた。その後ろには、対立する側妃アルマ派の貴族たちもぞろぞろと現れ、空気が一気に張り詰めていく。
「ちっ、騒々しい。薬師が死んだ程度で喚くとは、正妃派は臆病者ばかりなのだな」
「なんだと!? 貴様、言葉を慎め!」
睨み合う両派閥の間で、医務室の空気はまるで火花を散らすようだった。
「まぁまぁ。互いの非難よりも、まずは原因を明らかにすべきでは?」
場を取り繕うように発言した側妃派の一人の言葉で、ようやく矛先が目の前の遺体へと向かう。
一同の視線が、室内に控えていた直立不動の兵士へと集まった。
「はっ。我々が確認したところ、特に目立った外傷はありませんでした。病死か、もしくは……」
言葉を濁す兵士に、側妃派の重鎮と思しき男が低い声で詰め寄る。
「ふむ、毒殺か。ならば薬の専門家に意見を聞くとしよう」
その一言で、部屋の隅に控えていた薬師協会の一団に視線が集中する。
彼らは皆、揃いの灰色の制服に眼鏡をかけ、神経質そうな雰囲気をまとった研究者然とした男たちだった。
「……あっ、はい。ですが、これは……」
一人の薬師が逡巡するように前に出て、手にした薬瓶を掲げる。その瓶は、ツィオの遺体の近くに転がっていたものだった。
「どうした。言ってみろ」
側妃派の貴族が促すように声をかけると、薬師は意を決したように頷いた。
「それが――『狼牙』という違法薬物を盛られた形跡が見られます」
その名を口にした瞬間、場にいた貴族たちがざわめいた。
「狼牙……?」
正妃派の年配貴族が眉をひそめ、低く呟いた。名前に聞き覚えがあっても、それが何であるかを正確に知る者は少ないらしい。
薬師協会のひとり、眼鏡の奥で目を光らせた中年の薬師が一歩前に出た。
「はい、ここ数年で公国内に広まった、非常に危険な違法薬物です」
その声には迷いがなかった。手にした薬瓶を軽く振りながら、薬師はその毒性について語り出す。
「使用者には一時的に強い興奮状態がもたらされ、陶酔感や快楽が得られるとされています。そのため主に若者の間で流行し、今や都市部では蔓延寸前の状態にあります」
別の薬師が続けた。
「そして……服用者の歯が狼のように剥き出しになるという外見上の特徴があることから、“狼牙”と呼ばれるようになりました」
その言葉に、再びどよめきが走る。
「中毒性は極めて高く、常習性もあり、使用を重ねれば精神に異常をきたし、身体機能も著しく損なわれていきます」
最初の薬師はそう言って、そっと視線を落とした。
皆の目が自然と誘われるように、床に倒れた白衣の男――ツィオの遺体に向けられた。
彼の口元に目をやると、確かに犬歯が不自然なまでに鋭く伸びていた。その異様な光景が、先ほどの説明を裏付けているようだった。
「……それでも、使用者は後を絶ちません。我々も特効薬の開発を試みていますが……」
「現状、明確な成果は出せておらず……正直なところ、頭を抱える毎日です」
薬師たちの顔には、職務としての責任感と無力感が入り混じっていた。努力してもなお届かない現実に、彼らもまた苦しんでいるのだろう。
「ふむ……」
沈黙を破ったのは、側妃派の貴族のひとりだった。思案顔を見せながら、ぽつりと口を開く。
「そういえば、ノエル殿下が騎士団を率いて、違法薬物の流通組織を捜査していたと聞きましたな」
その瞬間、場の空気が再び変わった。
部屋中の視線が、一斉にノエル様へと集まる。
しかし、当の本人は何の反応も示さない。
ただ、微動だにせず、ツィオの亡骸を見つめていた。
彼の背筋は真っ直ぐで、気高さを纏っているはずなのに、どこか痛々しくも見えた。
――それでも、私は感じた。
その沈黙の奥に、燃えるような怒りと、こらえきれない悲しみ、そして何よりも強い意志が静かに渦巻いているのを。
ノエル様は、きっともう決意している。
ツィオさんの死の真相を暴き、この国を蝕む“何か”に、立ち向かう覚悟を。





