第12話 小さな傷と、大きな告白
「子供相手になにをしているのですか!」
私の声が思ったよりも鋭く響き、門番の手がピタリと止まった。
振り下ろされかけた拳が宙に浮いたまま、男がこちらを睨むように振り向く。
「あ? なんだ貴様は。医者みたいな恰好しやがって……」
白衣姿の私は、おそらく王城では珍しい存在なのだろう。だけど、それがどうしたというの。
驚いたように目を見開いたニケと視線が合う。怯えたようなその表情を見て、胸の奥がじくりと痛んだ。
私は一歩も引かず、門番をまっすぐに見据える。
「私はノエル殿下の妻です!」
毅然と名乗った私に、門番の表情が途端に歪んだ。
「はっ、誰かと思えば……あの落ち目の侯爵家の娘か」
ジロジロと私を値踏みするように見回したかと思えば、鼻で笑って吐き捨てる。
「ならばコイツを連れて、さっさと犬小屋に帰れ!」
「うわぁっ!?」
そう言うなり、男はニケを乱暴に放り投げた。
不意に解放された彼は、そのまま地面に転がってしまう。
「ちょっ、大丈夫?」
私は慌てて駆け寄り、倒れたニケをそっと抱き起こす。
そのとき、もうひとりの門番が気まずそうに小声で話しかけてきた。
「すみませんね、コイツは……熱狂的なモルト殿下派でして」
「……誰を支持するかは勝手ですけど。こんな小さな子に暴力を振るう理由にはなりません」
視線を落とすと、ニケは唇をぎゅっと噛み締めて、悔しそうな顔をしていた。
私はそっと手を差し伸べて、彼の手を取る。
そして、立ち上がらせたその瞬間、ひとつ短く息を吐いた。
(まったく……とんでもない連中に絡まれたわね)
「それでは私たちは失礼します」
冷ややかにそう告げて、私は踵を返した。
「まったく。時間の無駄だったぜ」
背後から、不遜な声が追いかけてくる。
その言葉に反応して再び噛みつこうとするニケを、私はそっと制して歩き出した。
* * *
王城の敷地を抜け、木々の影が濃くなる林の小道を歩きながら、私は思わずため息をついた。
「はぁ、とんだ災難だったわね……えぇと、ニケ君だっけ?」
私の隣を歩いていたニケは、コクンと小さく頷くだけだった。
その瞳は俯いたままで、言葉を交わす気力も残っていないように見える。
「しかしおとなげない奴らだったわね。ああいう人たちを相手にするなら、戦い方は選ばなきゃダメ――って、あなた、ケガしてるじゃない!」
私は歩みを止め、しゃがみ込んで彼の膝に目をやった。
先ほど門番に放り投げられたときのせいだろう、小さな膝には擦り傷ができていて、赤く滲んでいた。
「これぐらい、なんでもない」
ニケ君はぷいと顔を背ける。だけど、その無理な強がりが余計に痛々しい。
「なにを言ってるのよ! 化膿したらどうするの……ほら、薬を塗ってあげるからジッとして」
私は白衣のポケットから小さな軟膏壺を取り出し、指先に適量を取って、そっと彼の傷に塗った。
薬が沁みたのか、ニケは一瞬だけ顔をしかめた。でも、それでも泣かない。
「……ねぇ。僕のこと、怒ってないの?」
ふいに、ニケ君がぽつりと声を漏らした。
「ん? どうしてかしら?」
私が軽く首を傾げて返すと、ニケ君は気まずそうに視線を逸らし、足元の草をじっと見つめた。
「だって……びしょ濡れにしたり、たくさん嫌なことをしたのに」
「んー、そうねぇ。たしかにアレは酷かったかも」
「うぅ……ごめんなさい」
さっきまでの反抗的な態度は鳴りを潜め、ニケ君はしゅんとしながら小さく頭を下げた。
その素直な謝罪に、私はふっと微笑んだ。
「でも怒ってはいないかな。さっき、ノエル様のために怒っていたじゃない? そんな子が、意味もなく悪いことをするようには見えないもの」
静かにそう告げると、ニケ君は目をぱちぱちと瞬かせ、口を開こうとして……言葉に詰まった。
だが次第に、瞳の奥に小さな決意の光が灯る。
やがて、ゆっくりとその想いを語り始めた。
「僕、ノエルをとられると思ったんだ」
その言葉に、私は瞬きをした。
「……?」
(私がノエル様を? いったいどうして……)
思わず首を傾げる私に、ニケ君は伏し目がちになりながら、言葉を選ぶように続けた。
「僕、親がいなくて……頼れる大人はノエルだけだったんだ。でも、急に結婚するって聞いて……僕……」
ああ、そういうことか。
「その気持ちなら、私にもわかる。……ひとりは、怖いよね」
その言葉に、ニケ君の肩がぴくりと揺れた。
(自分の居場所がなくなるんじゃないかって、不安だったのよね。だから私に意地悪したくなっちゃったんだ。最初はただの生意気な子かと思ったけど……ふふっ、可愛いところもあるじゃない)
私も、前世で孤独に死を迎えた記憶や、スラム街で過ごした辛い日々を思い出していた。
そっと、涙をこらえているニケ君の頭に、優しく手を置く。
その温もりが、少しでも彼の心に届いてくれたらいいと願いながら。
「ねぇ、あの……」
おずおずとした声に、私は手を止めて顔を向けた。
「ん? ああ、私の名前? マリーよ」
「マリーお姉ちゃんはノエルと結婚したんだよね?」
その言葉に、私は思わずまばたきした。
(お、お姉ちゃん……!?)
前世以来、誰かにそう呼ばれることなんてなかった。
一瞬だけ戸惑いが顔に出てしまったけれど、きっと傍から見れば……私はすごく嬉しそうな顔をしていたと思う。
「そ、そうよ?」
「……お姉ちゃんはいま幸せ?」
「うーん、どうかしらね……」
すぐに「幸せ」とは言い切れなかった。確かに私は結婚したけれど、まだ理想とはほど遠くて……心が追いついていない。だから私は、つい曖昧に笑ってごまかしてしまった。
そんな私に、ニケ君はまっすぐな目で言葉を続けた。
「じゃあさ! 僕が大きくなったら、僕のお嫁さんになってくれない?」
「……はい?」
(今、なんて!? 誰が……なんの?)
頭の中が真っ白になる。
何かの聞き間違いかと思ったけれど、ニケ君はそのまま話を続けた。
「ノエルはあんな性格でしょ? お嫁さんなんて要らないって前から言っていたし……僕なら絶対、寂しい思いなんかさせないよ?」
そう言って、彼は私の手をぎゅっと握った。
見上げてくるその瞳は、真剣そのもの。
(えっ、えっ、どうしたの急に!? しかもこれってプロポーズ!? ノエル様にもされたことがないのに!?)
年下の少年からの突然すぎる告白に、私はただただ困惑するしかなかった。
ノエル様でもなく、ましてやこんなに小さな男の子からなんて――誰が想像できただろう。
「なにをませたことを言っているんだ、馬鹿ニケ」
その低く響く声に、私はびくっと肩を震わせた。
振り返ると、そこには腕を組んで立つノエル様の姿。
表情はいつも通りの無愛想……だけど、その眉間にはわずかなシワ、口元には小さな拗ねたような影。
「ノエル!」
ぱっと目を輝かせたニケ君が、まるで待ち焦がれていたかのようにノエル様へ駆け寄っていく。
トテトテと軽やかな足音が響き、次の瞬間には彼の腰元にぎゅっと抱きついていた。
「……仕方ない奴だ」
呆れたように言いながらも、ノエル様の手は自然とニケ君の頭に添えられていた。
優しく、慈しむように撫でるその仕草は、普段の彼の冷たい印象とはまるで別人のよう。
私は少し離れた場所から、その穏やかな光景をそっと見守っていた。
そしてふと、ノエル様と目が合った。
真っ直ぐな赤い瞳が、迷いもためらいもなく、私を射抜くように見つめてくる。
「今回はニケが迷惑を掛けたな」
「え? え、えぇ……」
突然の謝罪に、私は思わず言葉を詰まらせてしまった。
ノエル様が、誰かのことでこんなふうに頭を下げるなんて。
その小さな驚きとともに、胸の奥がふわりと温かくなるのを感じていた。
そしてノエル様は、軽くニケ君の肩に手を添えたまま、ゆっくりとその紹介を始めた。