第11話 孤独な反抗と、守りたいという衝動と。
本日より文藝春秋のコミックサイト「Seasons」で連載開始!
https://comic-seasons.com/#genre-fantasy
「とにもかくにも、まずは腹ごしらえよね!」
昼下がりの王城中庭。陽光は柔らかく、青空には雲ひとつない穏やかな空気が流れていた。
籐のバスケットを片手に、私は芝生の中庭を歩いていく。先ほどあった、ノエルとの言い合いの余韻がまだ心に残っていたけれど、空腹の現実には抗えない。
(お腹が……グゥ、って……)
あまりの音に、通りかかった侍女に声をかけて簡単なブランチをこしらえてもらった。サンドイッチにフルーツ、そしてハーブティー。こんな贅沢なごはん、前世ではなかなか食べられなかったなぁと、少しだけ感慨にふける。
「朝ごはんを食べそこなっちゃったのは痛かったわ……何をするにもごはんは大事! 健康はまず食事からだもんね」
中庭の片隅に置かれた白い木製のベンチを見つけ、そっと腰かける。やわらかな草の香りと、そよぐ風が頬に心地よい。
ラップを外したサンドイッチを手に取り、さあ食べようと口を開いたそのとき――ふと視線を感じた。
「…………子供?」
目をやると、少し離れた木陰からじっとこちらを覗いている小さな影。
茶色の髪に、年の頃は十歳くらいだろうか。平民よりも少し上等な衣服を着ているけれど、屋敷の使用人には見えない。
(……あの子、誰?)
小動物のように身を潜めるその様子に、私は思わず目を瞬かせた。
「もしかして、あの子がノエル様の言っていた子供かしら? まさか迷子ってことはないでしょうし……」
王城の敷地図を脳裏に思い浮かべる。広大な王城の中でも、ノエル様の居住棟は端のほうにある。この中庭もそのすぐ近く。
人の通りも少なく、偶然通りがかった――なんてことは、まず考えにくい。
そうとなれば、彼が言っていた“面倒を見ている子供”というのは、きっと……
(やっぱり、あの子なのね)
しばらく見つめ合う私たち。
だけど……おかしい。初対面であるはずなのに、あの子の瞳には明らかな敵意が宿っていた。
小さな拳を握りしめるようにして、じっとこちらを睨んでいる。
(え、なにこの目……私、なんかしたっけ? ともかく、ノエル様に伝える? でもその前に、まずは声をかけてみようかしら)
「ねぇ、キミって――きゃあっ!?」
声をかけようとした、その瞬間だった。
頭上から、冷たい何かが一気に降り注いでくる。
「なにこれぇ……!」
思わずベンチから跳ね起きると、滴る水が視界を曇らせた。
肩から髪の先までずぶ濡れになった私は、呆然としたまま辺りを見回す。
地面には不自然な水たまり。足元に流れ落ちる水滴が、濡れた靴の中にまで染み込んでいくのを感じる。
白衣もスカートも水浸しで、ぺたりと体に張りつく感触が気持ち悪い。
「……ど、どうして急に水なんか……」
ふと視線を感じて顔を上げると、木陰に立つ少年が口元を手で覆い、明らかに『しまった』という表情を浮かべていた。
「もしかして、貴方がやったの!? ……あっ、ちょっと待ちなさいよ!」
私がそう叫ぶや否や、少年は身を翻すようにして木陰から飛び出し、あっという間に走り去っていった。
「ちょっ、待ってってばー!」
返事はない。代わりに草を踏み鳴らす足音が、どんどん遠ざかっていく。
(何もない空間から水……何かの手品かしら?)
驚きと混乱で頭がいっぱいになりながらも、私は反射的に空を見上げた。けれど、そこに雨雲の影など微塵もない。澄み渡った青空が広がるばかり。
不思議に思いつつ、服の裾をギュッと握り、力いっぱい水気を絞ると、ボタボタと雫が地面に落ちた。
(トリックは分からないけど……これ、幻覚とかじゃない。現実だわ)
濡れたままでは動きにくい。私は髪をかき上げ、手早く紐で後ろに縛る。
「ともかく、追いかけなきゃ!」
そう叫んで、中庭の出口へと駆け出した。逃げた少年の背を捉えるべく、足元の水音を気にする暇もなく、私はひたすら前を見据えた。
◇
木々が鬱蒼と生い茂る王城の林の中。
葉擦れの音が風に乗って耳に心地よく届く……はずなのに、今はそんな余裕もない。
私は膝に手をついて、肩で息をしながらその場に立ち尽くしていた。
「もうっ、どこまで行くのよ、あの子はっ!」
湿った髪が首筋に張りついて不快極まりない。
それでもここまで全力で走り続けてきたのは、少年の姿を見失いたくなかったからだ。
だが道中、ただ走ってきたわけではない。
「はあ、はあ……って、ちょっと、あの落とし穴何!?」
土で覆われた簡易的な穴に片足を取られたこと。
「それに、クモまで落ちてくるなんて、悪趣味にもほどがあるわよっ!」
頭上の枝に仕込まれていたのか、木からするりと降ってきたクモに声を上げたのも一度や二度じゃない。
あれもこれも、どう見ても計画的。
私をからかって楽しんでいるとしか思えなかった。
ふと背後を振り返ると、そこにあるべき居住棟の影は遥か遠く、点のように小さくなっていた。
「これじゃ、王城のメイン棟の近くまで来てるかも……。うぅ、捕まえたら、ただじゃおかないんだから……!」
私はもう一度、大きく息を吸って、逃げた少年の姿を探すために林の奥を睨みつけた。
◇
~ノエル視点~
居住棟を出た俺は、王城の敷地内を歩いていた。
どこを探しても、あの問題児――ニケの姿が見つからなかったため、仕方なく屋敷の外にまで足を延ばしていたのだ。
(まったく……どこまで行ったんだ。しかも、マリーまで見当たらないとは)
林立する柱の陰や通路の先を見回しながら、俺は苛立ち混じりに息を吐く。
そのとき、不意に脳裏に浮かんだのは、あの女の顔だった。
俺がきつく言ったときの、あの一瞬の怯えた目。
顎に手をやって、ふと考え込む。
(……さすがに、少し言いすぎたか)
呟きながら歩を進めていたそのとき、ふと視線の先に、小さな影がぽつんと立っているのが見えた。
「……いた。ようやく見つけたか。どうしてこんなところに……なっ!?」
安堵したのも束の間、目の前の光景に息を詰まらせる。
ニケの隣に立つ門番の兵士が、怒りに顔を歪めながら、その襟首を乱暴に掴み上げていた。
「うわっ! この子供、どこから出てきた!?」
門を守っていたひとりの門番が、驚いたように声を上げる。
「くそっ。コイツ、俺の靴に水をかけやがったんだ!」
怒鳴りながら、もうひとりの門番はニケを高く持ち上げたまま怒気をあらわにしていた。
「お前らがノエルの悪口を言ってたからだ! 門番のくせに!」
ニケは必死に足をバタつかせながら叫んだが、小さな身体では大人の腕力に敵うはずもない。宙ぶらりんのままで、なおも懸命に抵抗を試みていた。
「ノエル? ああ、あの銀狼殿下が飼っている平民の子か」
ひとりの門番が皮肉を込めた口調で言い捨てると、もうひとりの門番が鼻で笑った。
「はっ、さすがは狂犬。ペットの躾もできてないとはな」
「僕はペットじゃない! ちゃんとニケって名前もある! 放せよ、卑怯者!」
吊り上げられたままの体勢でも、ニケは気丈に睨み返した。
その反抗的な眼差しに、門番の表情はさらに険しさを増していった。
「生意気なガキめ……飼い主に代わって立場を分からせてやる!」
そう吐き捨てると、門番は空いている左手を振り上げる。
ニケは反射的に目をぎゅっと閉じ、唇を噛んだ。
「アイツ、ニケになにを……っ!」
思わず駆け出すも、ニケまでの距離はまだ遠く、間に合わない。
そのとき。
ニケと門番の間に、ふいにひとつの小さな人影が飛び込んできた。
ふわりと揺れる黒髪。乱れた白衣。
――それは、息を切らしたマリーだった。