第10話 夫婦なのに、どうしてこんなにも遠い。
いよいよ来週5/16(金)より、本作の漫画が連載開始となります!
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「こんな所で何をしている」
「ひゃあっ!?」
低く落ち着いた声が背後から響き、飛び上がりそうになる。
ギギギ、とゆっくり振り返れば、いつものように不機嫌そうなノエル様が、廊下の奥に立っていた。
銀の髪が朝の光に照らされて煌めき、その赤い瞳はまっすぐにこちらを射抜いてくる。その姿はまるで、月の騎士――凍てつく銀の美しさを纏った孤高の存在。
(ああもう、なんでこんなタイミングで現れるのよ、ノエル様っ……!)
心の中で慌てふためきながらも、視線を逸らせずにいる。
その存在感に圧倒され、私は一歩後ずさる。だが彼は、眉ひとつ動かさずに、ゆったりとした足取りで近づいてきた。
「へっ!?」
距離が縮まるたび、胸の鼓動が加速していく。耳まで熱くなるのが自分でもわかる。
不意に至近距離で視線を交わし、ビクリと体を跳ねさせた私は、慌てて言葉を捻り出す。
「ひえっ、わっ、えとっ、……お、おはようございます!」
朝日も眩しくないくらい、真っ赤になった顔を逸らしてペコリと頭を下げる。まるで恋する乙女のような反応に、自分でも恥ずかしさがこみ上げてくる。
ノエル様はカッチリとした騎士服を身にまとい、堂々とした立ち姿をしていた。白金の刺繍が施された制服は彼の整った体躯にぴったりと馴染み、まるで絵画の中の騎士のようだった。
……なのに、私の視界にはなぜか、昨晩の半裸姿がチラついてしまう。
(ち、違うってば! あれは夜の幻! 朝から想像してどうするのよ、私のバカバカ……!)
昨晩の、肌の熱を覚えている。彼の体温が、目に焼きついて離れない。
自分を叱咤する間にも、ノエル様はじっとこちらを見下ろしていた。その赤い瞳に、どこか迷いの色が見えたような気がして――胸が少しだけ、きゅっとなった。
「……あまり城の中をうろちょろするな」
低く冷たい声音。その響きに、ピクッと肩が跳ねる。
(むっ。妻は部屋で閉じ籠ってろとでも言いたいわけ?)
そりゃあ、私は“仮の花嫁”かもしれないけれど、そんな言い方……と内心で小さく頬を膨らませる。
たしかに、昨晩はあんなやり取りがあったし……嫌われていても仕方ないかもしれない。
だけど。
(だったらなんで、そんな目をするのよ……)
言葉とは裏腹に、ノエル様の瞳はどこか不器用に揺れていて。まるで、私を責めることに慣れていないような、そんな優しさの欠片が滲んでいた。
そんな彼がふと踵を返し、立ち去ろうとしたそのとき――
「……今日、ここで子供を見なかったか?」
背を向けかけた彼が、ほんの少しだけ顔を戻して訊ねてきた。
「子供? ノエル様って子持ちだったんですか?」
「そんなわけないだろ」
私がぽろりと口にした問いに、ノエル様は眉をひとつ上げて、まるで“なにを馬鹿なことを言ってるんだ”とでも言いたげな目をしていた。
「とある事情で俺が面倒を見ているんだが、朝から姿が見えなくてな……」
言い終わる前に、彼の鋭い視線が私の顔にじっと注がれる。
「な、なんですか。急に人の顔をジロジロと……」
熱を持った視線に戸惑いながらもそう返すと、ノエル様は眉をひそめた。
「……どうしたんだ、その顔」
「はっ!?」
思いがけない一言に、間抜けな声を上げてしまう。
ノエル様は一歩近づくと、冷静な表情のまま容赦なく言い放った。
「目がクマだらけ。髪はボサボサで服も汚れてる。それになんだか、変な匂いが……」
「しっ、失礼な人ですね! それに匂いは薬品のせいで……っ」
反射的に反論しながらも、自分の身なりが気になってしまう。
私はそっと白衣の袖をつまみ、鼻先に近づけてクンクンと匂いを嗅いだ。
(……うわ、たしかに。薬草とアルコールと、徹夜の汗が混ざったような……これはひどいかも)
顔をしかめて少し距離を取ると、ノエル様が小さくため息をついた。
「本当に、お前は貴族らしくないな」
「余計なお世話ですっ」
ぴしゃりと返してはみたものの、ノエル様の赤い瞳がふと妖しく細められたのに気づいて、私は思わず息を飲んだ。
空気が一瞬にして張り詰め、彼の体から放たれる雰囲気が、どこか剣呑なものへと変わっていく。
(……まずい! そういえばこの人、噂じゃ“匂いで他人の嘘が分かる”って……)
(もしかして、もし私が平民だってことまでバレたら……死!?)
血の気が引くのを感じながら、私は本能的にノエル様から一歩、二歩と飛びのくように距離を取った。
その様子にノエル様は、ますます怪訝な視線を向けてきて――私は、ますます焦ってしまった。
(まずい……このままじゃ、絶対に変な誤解をされる!)
焦りと不安でいっぱいになった私は、とっさに話題を変えることにした。
「そ、そうだノエル様! もう一度だけ薬を見せてくれませんか? 次こそ必ず、私がその“呪い”を解いてみせますから……!」
勢いに任せて言葉を投げた瞬間――彼の瞳が、すうっと冷えていくのを感じた。
「……呪いじゃない」
低く、鋭く、突き放すような声音だった。
「……え?」
「お前はこれを“呪い”だと思っていたのか?」
静かに、けれど深く沈んだ声。その赤い瞳には、怒りや哀しみ、そして言い知れぬ孤独が滲んでいた。
空気が凍りつくような沈黙。
「公国の敵を少しでも多く殺すため、神から与えられた加護だ」
「こ、殺すためって……」
その言葉のあまりの重みに、私は思わず一歩引いてしまった。
けれど、それが彼の怒りをさらに煽る結果になるとは思ってもいなかった。
「国の貴族連中はどうして、のうのうと暮らせている? この力のおかげだろう」
その声音には、憤りと同時に、深い諦めが滲んでいた。
それは、自分の存在意義を叫ぶようでもあり、誰にも理解されない苦しみを吐露するようでもあった。
「だとしても……神様が本当にいるなら、人を殺すためなんかに力を与えるかしら」
私は震える声でそう言った。愚かだと分かっていても、どうしても胸の奥から言葉がこぼれてしまう。
「貴様、この国に暮らす身で神を冒涜するのか!?」
ノエル様の怒号が、廊下の静寂を破るように響いた。
その迫力に私は一瞬、息を呑んだ。
けれど、それでも私は視線を外さなかった。
「いいえ。そうじゃなくて――」
必死に伝えようとした言葉。その裏で、手が小さく震えているのを自覚したとき、ノエル様の瞳がわずかに揺れた。
彼は歯を食いしばるようにして、湧き上がる怒りを「クッ」と喉の奥で押しとどめた。
「……俺はこの力を得て良かったと思っている。戦争で部下たちを死なせずに済むからな。……裏で呪いだ、忌み子だと言われようともだ」
その声は、誰にも届かない想いを抱え込むように、ただ淡々としていて。
彼の背中がくるりと翻り、音もなく歩き出す。
去っていくその姿に、私はただ、その背中を見つめることしかできなかった。
(ノエル様……あなたは、どれだけの痛みを抱えて生きてきたの……)
問いかけるように胸が締めつけられたまま、私はその場に立ち尽くしていた。
(失敗した――)
痛いほどの後悔が、胸を締めつける。
(数百年前の建国時、この国では実際に神様が降臨している。だから今なお、神は人々にとって揺るがぬ信仰の対象なのよね)
私にとっては、薬学的な因果や現象が“真実”を形作っていたけれど、この国では“神の意志”がすべてを正当化する。
(だとしても、私には理解できない考えだけど。だって……)
ふと、さっきのノエル様の顔がよぎる。あんなにも強く、あんなにも冷たく言い放った彼の瞳の奥に、どうしようもなく滲んでいた悲しみの色。
(神様の加護? 勝手に与えられて、ひとりで苦しむことが? そんなの絶対におかしいわ)
それがどれだけ“公国の柱”とされようと、戦いの道具のように扱われることに、私はどうしても納得できなかった。
ノエル様の怒りを煽ったのは、私の無知と軽率さ。でもあの時、私があの言葉を口にしたのは――
(……あの人に、ただ苦しまないでほしかったから)
そっと自分の手を握りしめた。
「……俄然、やる気出てきたわ」
静まり返った廊下に、ぽつりと私の声が響く。
たとえ相容れぬ立場でも、寄り添いたいと思ってしまった。この胸の衝動が、間違いじゃないと信じたかった。
私はゆっくりと顔を上げ、ノエル様が去っていった先をまっすぐに見つめた。