海陵王と蕭恭
暴虐な帝王として知られる海陵王。彼がどのような人物だったのか、知られざる一面を『金史』より読み解いていこうと思います。
今回は『金史』巻八十二 列伝二十から蕭恭の伝を訳してみましょう。
正隆四年(1159)、蕭恭は西夏と国境を画定した。
任務を果たして帰還の途中、臨潼を通ったときに帯びていた金の信牌を紛失し、太原まで来ると不安のあまり病となった。このとき事情は既に駅伝により朝廷に報告されており、海陵王は信牌を再発行するよう命じて使者を遣わし、こう宥めた。
「汝が信牌を失くしたことは不注意ではあるが、朕は汝が使者の役目を果たして帰ってくるのを待っており、使者にこの再発行した信牌を持たせて遣わす。汝は病と言うが、これは先に渡した信牌を無くしたので、帰ってきて言い訳が出来ないからそう言っているのではあるまいか。朕は報告だけが欲しいのだからすぐに帰ってくるように。」
使者が着いたとき、蕭恭は既に危篤で、頭を下げて書状を受け取るとにわかに倒れて卒去した。
このとき海陵王は、蕭恭の子で皇帝の護衛となっていた九哥に急ぎ様子を見に行かせ、関係官庁には九哥をよく護衛するよう言いつけていたが、九哥が保州まで着いたところで「既に亡くなった」との連絡が届いた。
海陵王はこれを深く哀悼し、九哥には「棺を護って帰還するように」、通過する州や府には「祭壇を設けるように」と命じた。そして棺が都に到着すると百官に命じて葬儀を行わせ、海陵王自ら参列した。遺族への贈り物は格別に手厚く、贈り物とは別に皇帝の厩舎の馬一頭が贈られた。そして海陵王は九哥にこう言った。
「君の父は命を受けてその途中で亡くなった。これは大変悲しいことである。朕は長年この馬に乗っているが、今これを君の父に贈ろう。この馬を葬儀の間は常に棺の前に寄り添わせ、埋葬し終えたら君がこれに乗るように。」