第四話 再会
「なにしてんだよ、こんなとこで」
五年ぶりに会ったユウトくんは、すっかり見違えていた。
茶髪に片耳のピアス。柄シャツを羽織り、どこかチャラついた雰囲気をまとっている。あの頃は姉ちゃんと同じくらいの背丈だったのに、今じゃ見上げるほど大きくなっていた。
それでも、すぐにユウトくんだとわかった。なんでだろう。声かけられたとき、迷いなくそう思えた。
「……久しぶりだね、ユウトくん」
田舎訛りの語尾が、東京の雑踏の中で浮いて聞こえた。自分でもわかるくらい、場違いな響きだった。
「おまえ、一人か? ユキおばちゃんは?」
“一人”。
その一言が、胸に深く響いた。寂しさとも、孤独とも違う。不思議と優越感に似た感覚が混ざっていた。
ユウトくんにも、姉ちゃんの姿は見えないらしい。
「一人だよ。一人で来た」
ユウトくんは「そうか」と小さくつぶやいて、僕の隣に腰を下ろした。
姉ちゃんは、彼の目の前に立っている。“気づいて”って言いたげに、じっと見つめて。
でも、ユウトくんは姉ちゃんを見ない。見えるはずがない。
だって“姉ちゃん”は、僕だけの姉ちゃんなんだから。
「ここまで遠かったろ」
「遠かったね。東京に来たの初めてだけんど、こんなに疲れるとは思ってなかった」
「マサトは、変わらねえな」
ユウトくんは笑った。どこか懐かしい、でも少しだけ大人びた笑い方だった。
「ユウトくんは、変わったね。最初分かんなかったし、喋り方も……東京の人って感じだ」
「方言出すと、田舎者ってバカにされるんだよ。だから、頑張って直した。でも、おまえと話してるとまた戻りそうになるな」
その笑顔が、あの頃の記憶を呼び戻す。姉ちゃんの隣で笑ってた、やさしいユウトくん。
きっとカナちゃんも、変わってるんだろう。もう僕の知らない顔になっている。
それなのに――姉ちゃんだけが、あの日のままだ。
「それで? 何しに来た?」
ユウトくんの問いに、現実へ引き戻される。
「会いに来たんだ。ユウトくんと、カナちゃんに」
「それだけか?」
「……うん。それだけ」
嘘だった。本当は、姉ちゃんのことを聞きに来た。でも、言い出す勇気が出なかった。
「カナちゃんも同じ大学なんだべ? 待ってれば会える?」
「会えるかもな。……でもやめとけ」
「なんで?」
僕はユウトくんを見る。ユウトくんは僕を見ないで、どこか遠くを見ていた。目の前の姉ちゃんをすり抜けて。
「カナ、俺ともまともに話さないんだ。おまえとは、なおさらだろ」
「でも、付き合ってるんだっぺ? カナちゃんと」
ユウトくんは目を見開いて、それから気まずそうに咳払いをした。
「付き合ってねえよ」
「僕はてっきり、ユウトくんはカナちゃんのことが好きなんだと思ってたんだけんど」
「いつの話だよ」
「いや、まあ。まだ姉ちゃんが生きてた時の話だけんどさ」
言った瞬間、ユウトくんの動きが止まった。空気が固まる。目の奥が、沈んだ色になる。
やっぱり、姉ちゃんのことは……ユウトくんにとっても、大きな傷になってるんだ。
「マサト。おまえ、本当は何をしに来た?」
核心に迫る問い。もう、誤魔化せない。
僕は、勇気を出して口を開く。
「姉ちゃんのこと、聞きに来たんだ」
僕は顔を上げる。
ユウトくんの目が、僕を捉える。その目は、見たことのない深い闇を湛えていた。黒くて、底が見えなくて怖い。それなのに、目を逸らせない。
どうしよう。どうしよう。
僕は、踏み込んではいけない何かに片足を突っ込んでしまったんだろうか。
だけど、引き下がるわけにはいかない。ここまで来たんだ。ユウトくんに会えたんだ。
いま目の前に、姉ちゃんの真実を知る手がかりがある――
「……ね、姉ちゃん……自殺だって、昨日知って……」
ユウトくんは黙って、僕を見ていた。一瞬の沈黙が、何分にも感じられた。
「そうか」
そう言ったユウトくんは、目を逸らした。その目はもう、昔のユウトくんの目に戻っていた。
「別に、特に話すようなことはねえよ」
そんなはずない。話すことがないなら、あんな目をするわけがない。
「あっぺよ! 姉ちゃんは、なんで死んだの?」
「知らねえ」
「知ってんだっぺ? ユウトくん、知ってるんだっぺよ!」
「知らねえって言ってるだろ!」
ユウトくんは怒鳴るように言った。体が跳ねる。
小さい頃、姉ちゃんとユウトくんと三人でよく遊んでいた。二人が中学に上がってからも、ユウトくんは僕をよく可愛がってくれた。
ユウトくんが、僕を怒鳴ることなんて一度もなかった。
なのに、どうして。どうして?
僕は、泣きそうになるのを必死に堪える。堪えるけれど、景色は滲む。
ユウトくんは僕を見て、たじろいだ。それから、僕の背中をさする。
「すまん。きつく言いすぎた」
知ってる温かさだ。優しさだ。これが、僕の知っているユウトくん。
それを変えてしまったのは、やっぱり姉ちゃんの死なんだろうか。
僕は呼吸を整えて、恐る恐る口を開く。
「……姉ちゃんは、本当に自殺だったの?」
ユウトくんは目を合わせようとしなかった。でも僕は、ユウトくんの顔から目を離さない。
すると、ユウトくんは観念したように口を開いた。
「自殺だ。それは間違いない。俺がこの目で見たんだから」
「……その場にいたの?」
「いたっていうか、居合わせたんだ。俺とカナが歩いていたら、その目の前で……」
「どうやって、死んだの?」
「……それを聞いてどうするんだよ」
ユウトくんは、ため息まじりにそう言った。
「知りてえんだ。姉ちゃんの全てを」
ユウトくんはしばらく黙っていて、そしてぽつりと答えた。
「……サトミは、自分で命を絶った。それ以外、俺たちが知ってることはねえよ」
ユウトくんは立ち上がった。
「もう行くわ。じゃあ、またな」
姉ちゃんの体をすり抜けて、ユウトくんは歩き去っていく。
姉ちゃんは、微動だにしなかった。
”待って!”
そう言ったつもりだった。でも声が出なかった。
ユウトくんは遠ざかっていく。見えなくなっていく。
そのことに、どこか安心した自分がいた。
――心のどこかで、真相を知るのを恐れている……?
その時、姉ちゃんがいないことに気づいた。
嫌な予感がした。このシチュエーション、このタイミング……
僕は立ち上がり、周りを見渡す。いない。どこにも見当たらない。
その時、カラスが鳴いた。それに釣られて空を見る。
――いた。
校舎の屋上。三階はある高さ。その上に、姉ちゃんはいた。
姉ちゃんがこのあとどうするのか、僕には分かった。
”姉ちゃん……!”
声が声にならない。足が動かない。体の震えが、止まらない。
姉ちゃんは、ふっとそこから飛び降りた。
その時、信じられないことが起こった。
僕は――目を逸らしたのだ。
見なければいけなかった。目を逸らしてはいけなかった。だってそれは何度繰り返そうと、姉ちゃんの”最期”なんだから。
なのに――
僕は耳を塞ぎ、目を瞑り、地面にしゃがみ込んだ。
姉ちゃんに、背を向けて。