第一話 姉ちゃんは死んだ
――僕は、狂ってる。
部屋の隅に立っている姉ちゃんに向かって、僕は言った。
「姉ちゃん、腹空いたべ?」
返事はない。もちろん、動きもしない。ただ、静かに、そこに立っているだけだ。
中学三年生の僕――マサトには、五年前に死んだ姉ちゃん・サトミの姿が見えていた。
五年前、空が青くて、蝉が鳴いてて、扇風機が気持ちよかったあの日。僕はもう夏休みに入ってて、姉ちゃんは明日から夏休みだった。
僕がゲームに夢中になっていた午後、姉ちゃんは死んだ。
事故だと聞かされた。あのとき、姉ちゃんは十五歳。僕は十歳。
夏休みになったら、一緒に映画に行こうって約束してた。ジャスコにいって、僕の服を選んでくれるって言ってくれた。姉ちゃんに見せたい、海が綺麗なところもあった。
だけど、姉ちゃんは死んだ。
僕は部屋に閉じこもって、耳を塞いで、目をギュッと閉じた。
姉ちゃんが死ぬはずなんてなかった。いつも明るくて、優しかった姉ちゃん。僕を守ってくれた姉ちゃん。
僕の、大好きな姉ちゃん。
そんな姉ちゃんが、死ぬわけがない。きっとこれは夢で、目を開ければきっと姉ちゃんは戻ってきてる。
そんな僕の現実逃避が、現実になった。目を開けると、そこに姉ちゃんが立っていた。
……幽霊か幻覚か、もしくは妄想か。僕にはわからなかった。
話しかけても、返事はない。触れようとしても、手はすり抜ける。
でも、そこに姉ちゃんがいる。それだけで、少しだけ救われた気がした。
けれど、すべてが癒されたわけじゃない。むしろ――悪化していった。
姉ちゃんは、いつも僕のそばにいた。家の中だけじゃない。外出するときも、必ず一緒にくっついてくる。
だから、一緒に映画に行こうと思った。ジャスコに行こうと思った。海に行こうと思った。
幻の姉ちゃんでも、約束を果たせるならって。
でも、その前に姉ちゃんは死んだ。
轢かれる。
落ちる。
焼かれる。
どうしてか分からない。姉ちゃんは外に出るたびに、事故にあって死んだ。しかも、見たくもないほどリアルに。
そして翌朝には、ケロリと部屋に立ってる。
死んで、生き返って、また死ぬ。姉ちゃんは、毎日、必ず死んだ。
……もう、見たくなんてなかった。
だから、僕は外に出るのをやめた。そうやって、引きこもりになった。
――コンコン。
ドアをノックする音がした。
おばちゃんの声が続く。
「マサト、ご飯持ってきたよ」
返事はしない。体も動かさない。僕は椅子に座ったまま、耳だけが音を拾う。
「いつも通り、ここに置いとくかんね」
それから、足音が遠ざかっていく。
僕はゆっくりとドアを開け、置かれていた夕食のトレイを持って部屋に戻る。
机の前に座って、手を合わせた。
「姉ちゃんも、一緒に食べっぺ」
姉ちゃんは窓際で、今日も外を見ている。
無言。無表情。無反応。
この”姉ちゃん”は、姉ちゃんだけど姉ちゃんじゃない。
姉ちゃんはご飯を食べるのが大好きだった。いつも笑っていて、僕を無視することなんて絶対になかった。
もう、あの頃の姉ちゃんはいない。
それでもよかった。無言でも無表情でも無反応でも、僕は姉ちゃんが大好きだ。
「外、行きてえの? ……カナちゃんとか、ユウトくんに会いてえ?」
問いかけても、当然返事はない。
姉ちゃんに、意思はあるのか。心はあるのか。僕を僕だと、認識してるのか。
答えは出ない。出なくても、どうでもよかった。
「……大好きだよ、姉ちゃん」
そう言うときだけ、姉ちゃんは優しく笑ってくれる。
手を伸ばして、僕の頭を撫でようとする。……感触は、ないけど。
姉ちゃんは十五歳のまま止まっていた。僕はもう同い年になり、背も追い越しているのに。
それでも、姉ちゃんはいつまでも“大人”に見えた。
……このままずっと、姉ちゃんに取り憑かれていたい。
そう思ってしまう自分が、やっぱり壊れてるってことは、わかってる。
でも――壊れたままじゃないと、生きていけなかった。
夕食を終えて、食器をトレイに戻す。ドアの前に置いた。
――コンコン。
回収に来たおばちゃんのノック音がする。
「全部食べてくれてどうもね」
その声に、ほんの少し、胸がチクッとした。
どうしてここまでしてくれるんだろう。迷惑ばかりかけてるのに。
本当は、僕たちを引き取ったことを後悔してるんじゃないか?
「マサト、そろそろ……外、出てみねえ?」
そう言われたのは、久しぶりだった。
「あれからもう五年も経つし……サトミも、マサトに元気でいてほしいって、きっと思っとるべ」
優しい言葉。意味もわかる。気遣いも、伝わる。
でも――引っかかる。
“サトミも”って何?
姉ちゃんのこと、何も知らないくせに。
僕はおばちゃんに感謝している。おばちゃんが僕たちを引き取ってくれなかったら、どうなっていたか分からない。
けれど、心を開くことはできない。
他人だ。結局、本当の家族なんかじゃないんだから。
僕の家族は、姉ちゃんだけ。
「ねえ、マサト」
まだ、おばちゃんの声は続いていた。
「いつまでも塞ぎ込んでちゃいけねえ。……お姉ちゃんが死んじまって、それも、自殺だなんて、ショックなのは分かんだけど――」
……自殺?
ドアを勢いよく開けた。そこには、驚いた顔のおばちゃんがいた。
「今……なんつった?」
「え?」
おばちゃんはあからさまに焦り、口を閉じた。
そして、おそるおそる言った。
「あ……その……言ってなかったっけ?」
「姉ちゃんは、事故で死んだって……そう言ったべ!!」
「だって……言えねえべ、自殺だなんて。マサト、まだ小学生やったし……サトミのこと、大好きだったんだから……」
バタン、とドアを閉めた。床に、崩れ落ちる。
――姉ちゃんが、自殺?
信じられない。いや、信じたくない。
あんなに明るくて、優しくて、僕の味方でいてくれた姉ちゃんが。
僕を残して、自ら命を?
「姉ちゃん……」
振り返ると、そこに――首を吊った姉ちゃんがいた。
「っ……!!」
無我夢中で姉ちゃんに駆け寄る。けれど、やっぱり触れられない。
姉ちゃんの顔が苦しそうに歪んでいた。
僕も息ができないほど、胸が締めつけられた。
「マサト!? どうしたん!?」
ドアを開ける音と、おばちゃんの声が聞こえる。でも、僕は振り返らない。
姉ちゃんの足は、ピクリとも動かなかった。
「姉ちゃん……姉ちゃん……!!」
何度も何度も、名前を呼ぶ。
「……マサト、マサトォォ……」
後ろからおばちゃんの嗚咽が聞こえた。
「……姉ちゃん……」
姉ちゃんは、また死んだ。
今度は、家の中で。僕の目の前で。……自ら、命を絶った。
地獄は、また始まったんだ。
――姉ちゃんは、毎日、死ぬ。
どこにいても。何度でも。
僕がどれだけ叫んでも、祈っても、止まらない。
胃の中のものを、すべて吐き出した。
幻の死体を前にして、ただ、吐いた。
なぜ? どうして?
姉ちゃんは、なぜ死ななきゃいけなかった?
何が姉ちゃんを追い詰めた?
なぜ僕だけが、こんなにも何度も、死を見せられなきゃならない?
気がつけば、姉ちゃんの姿は消えていた。
けれど明日になれば、きっとまた現れて。また、死ぬ。
誰だ?
僕たちをこんな目に合わせたのは――
姉ちゃんを殺したのは、誰なんだ。
……許さない。絶対に、許さない。