8話
「禅サマぁっっ!!」
空をも切り裂くような雉祢の絶叫に、全員の攻撃の手が一瞬止まる。
まるで映画のスローモーションを見ているかのように、禅箭の身体が鮮血を撒き散らしながらゆっくりと地に落ちる。
それっきり微動だにしない。
降り続けていた銀雪がピタリと止んだ。
汀もまた、禅箭を見詰めたまま、動こうとはしなかった。
「奴等の攻撃の要は崩れた。この機を逃すな!」
静寂を破るように炎路が吠え、刹那、待ち構えていたかのように多数の魔物が現れ、一斉に牙を剥いてくる。
今、このような総攻撃を仕掛けられては、こちらの分が悪すぎる。
「仕方ない……退くぞ!」
この場での敗北を意味する、悲しい決断。
「でも、禅箭がっ……!」
地叶の爪を紙一重で避け、湊が叫ぶ。
彼までの距離が、とても遠いものに感じる。
ほんの数十メートルしか離れていない筈なのに。
今戦っている相手と、既に身軽になっている氷醒を同時に相手する事は、今の自分には不可能だ。
(畜生っ……!)
現在の相手の攻撃に耐え、瞳の奥に熱いものが込み上げてくるのを堪えるのが精一杯だった。
「いいじゃん、どうせ皆同じ所に逝くんだからさぁっ。早く会いに行った方がアイツも喜ぶよっ!」
地叶の攻撃の勢いは、一向に治まる気配が見えない。
戦いが楽しいと言わんばかりの繰り出しに、かなり手間取っていた。
炎路と風堕は既に自分からの直接攻撃は止め、部下である魔物にそれぞれの相手を襲わせていた。
まるで自分が手を下すまでも無い、とでも言うかのように。
都も、皇も、魔物を倒すのは造作も無い事だった。
しかし、数が多すぎた。
結界に、微かに皹が入った。
このままでは破られてしまうかもしれない。
「汀……、私、出ます。ここから動かないでくださいまし」
戦いの行く末を見ていた雉祢がそっと言う。
彼女の耳には、まだ微かに鼓動し続ける禅箭の心音が聞こえていた。
いつ止まるかもわからないほどの、弱弱しいものではあるが、確かにまだ脈打っている。
彼は、まだ、生きている。
まだ、間に合うかもしれない。
汀は頷くわけでも、何か声を発するわけでもなかった。
先刻と同じ体勢のまま、時が止まってしまったかのように動かなかった。
「…………」
少しの不安を残しつつ、雉祢は結界から出た。
瞬きするよりも速く、禅箭の傍に辿り着く。
「これはこれは雉祢様……久しいですな。貴女の父上には随分とお世話になりましたよ」
氷醒が丁寧に挨拶をする。
それには目もくれずに、禅箭に擦り寄った。
(禅サマ……)
「あっれぇ雉祢様、まさかソイツを助けるつもり?」
虫の息で横たわる禅箭を指差し、風堕が笑う。
「弟君が悲しむんじゃないのぉ?」
「黙りなさい」
弟、という言葉に反応し、静かな声で叱責する。
彼女の反応が楽しいらしく、風堕がはしゃぐ。
「これはあくまで私一人の判断。弟には何の責任もありません」
背筋を伸ばし、尾を高く掲げて言う。
「……由々しき発言だな」
沈黙していた炎路が溜息をつく。
「どうする兄者。コイツも殺しちゃう?」
瞳を赤く光らせ、風堕が問う。
「放っておけ。……どの道そいつは助からぬ。余計な力を使う必要は無い。我々の目的は、あくまでも彼女だ」
そう宥めた直後、彼は汀が居る結界の傍らに詰め寄った。
「さぁ、我々と来ていただこうか、闇狩主。鏡の『カケラ』を持つ者よ」
「……かけら?」
汀が小さく聞き返す。
「貴女の中に在る鏡は、元はといえば我々の世界に、異次元への扉として置かれていたものの一部。鏡が完全な姿を取り戻せば、この世界と我々の世界との統合が図れるのです」
その鏡が完全なる姿に戻るのを恐れ、遥か昔に、自分たちでのみ、その欠片を形成できるようにしたのが、常盤の一族。
長い年月をかけてこちらの世界に入り込んできた魔物を、元の場所に戻す事の出来る人類唯一の道具。
それが魔物の手に渡ると言う事は、この世界に彼等が絶え間なく流れ込んでくる事を指している。
「そんな事のために……禅ちゃんがあんな事に……」
「……?」
独り言のように、汀がポツリと言う。
突然、二人を隔てている結界の間の皹が広がった。
氷醒が何か手を下しているようには見えない。
(!?何故……禅サマの力が弱まっているから…?)
その皹の理由に確信が持てずに、雉祢が困惑する。
こうしている間にも禅箭の呼吸は、どんどん弱まってゆく。
更に、氷醒の邪魔をさせまいと、炎路と風堕が彼女の行く手を遮っていた。
『汀……っ!』
都が何とか彼女の傍に駆け寄ろうとしている。が、押し寄せる魔物にてこずり、思うように進めないでいた。
「許さないんだから……」
彼女を被うオーラが揺らめく。
「!!」
彼女を結界から引きずり出そうとした氷醒の手が止まる。
「………湊くん、都っ!すぐにフルパワーで結界を張れ!雉祢っ、禅箭を頼む!!」
<それ>が何を意味するのか逸早く察知した皇が、慌てて指示する。
「汀が……!」
「いいから、早く!!」
尋常ではない彼の様子に、妹の様子に焦りながらも指示に従う。
「つまんないなぁ、もっと楽しませてよぉっ」
結界に攻撃を阻まれた地叶が、悔しそうに地団太を踏んだ。
(儂の想像に間違いがなければ……恐ろしい事が起こる)
『我々にも、生きて帰れるという保証はありませんね』
都が伏せ、雉祢が禅箭に寄り添うように結界を張り終えた直後に、それは起こった。
「許さない……絶対に、許さないっ!!」
汀の叫びに呼応するかのように、結界が粉々に砕け散る。
彼女を被い、限界まで膨張していた銀雪が一瞬にして吹雪となり、数千、数万もの雪粒が四方に一斉に飛び散った。
寸前まで襲い掛かってきていた魔物達が、次々にそれに貫かれ、溶け、消えてゆく。
断末魔の声が辺りに響き渡っているはずなのだが、全て吹雪に掻き消されていた。
目の前で繰り広げられる光景に、湊は寒気を感じた。
「これは一体…」
「……暴走したんだ。気を抜くとすぐに破られるぞ」
『無差別に攻撃しますからね……破られたら最期です』
迫り来る雪飛礫を結界で跳ね返しつつ、都が補足する。
「フン、所詮ただの銀雪だろ。蹴散らしてやるよっ!」
地叶が不敵な笑みを浮かべ、汀に両手を向ける。
両の手の平を交差させた部分に、禍々しい、黒い光が出現する。
「愚かな……」
雉祢がその様を見て俯く。
「死んじゃえっ……」
黒い光玉を汀に向かって発射しようとする。
が、それは出来なかった。
「………あれ?」
そのままの姿勢のまま、地叶の身体は動かなかった。
いや、動けないでいた。
頬に、手に、足に、彼女の背の黒い羽根にまで銀雪が襲い掛かり、そのまま彼女を凍りつけようとしていたのだった。
「何……コレ………何なのよおぉっ!!」
そこで初めて威力を知り、絶叫する。
いくら足掻いてもそれは止まる事が無く、もがこうとすればその動きを察知した新雪に阻まれる。
既に身体の半分以上は凍りつき、僅かな動きすらできない状態にまで陥っていた。
「退くぞ」
撤退を命じたのは、氷醒だった。
「無事だったんだね、兄者♪りょーかいだよ♪」
自らの結界で銀雪を避けていた風堕が、一足先に姿を消した。
「残念だな、地叶。お別れだ」
炎路もまた、妹に一瞥をくれた後に去ってゆく。
「相手の攻撃の本質を見抜けなかったお前の負けだ。悪く思うな」
禅箭達に対するものと何ら変わりのない、冷たい声で言い放ち、彼もまた姿を消していった。
「そんな……イヤだ、助けてよ…………兄者……兄者あぁっっ……!!」
既に去った兄弟達に向けた叫びは、吹雪に虚しくも吸い込まれた。
そして次の刹那。すっかり凍りついた彼女を感知したかのように、巨大な氷柱が彼女に襲い掛かり、そのまま全てを粉々に砕いた。
最期の声をあげることもかなわずに。
目の前の敵は全て消えても、吹雪は続いていた。
『さて、我々はいつまで持ちますかね…』
都が他人事のように呟く。
既に限界は近く、いつ破られてもおかしくない状態だった。
破られた後にどうなるかは、目の前で見せられている。
「自我を取り戻せばいいだけだからな」
懐から1枚の札を取り出した皇が、結界からそれを放り出す。
銀雪を取り込むかのように膨らんだ式神が決めポーズを取った。
「禅箭の声は覚えているな。止めてきてやってくれ」
皇が告げるとカゲロウくんはガッツポーズを取り、吹雪の中心部へと足を進めていった。
カゲロウくんが吹雪の中に姿を消してからすぐに、ゆっくりと吹雪がおさまった。
『……おさまったみたいですね』
風が弱まったのを見計らい、都が結界を解く。
わずかな粉雪が舞っていたが、それもすぐに風に流され、消えてゆく。
「わしの機転が効いたらしいな」
皇が誇らしげに胸を張る。
「皇さん……」
空を見上げていた湊がふと、皇を呼んだ。
「なんだい?」
「カゲロウくん…飛ばされてますよ」
「は?」
最後の一片の風に流されて飛んでゆくカゲロウくんの姿は、その身体の小ささもあって、すぐに見えなくなった。
(すると、汀を止めたのは…!?)
雪煙と、砂煙が徐々に晴れてゆく。
それまで見えなかった中心部が露になる。
「禅サマ……」
雉祢の大きな瞳から、静かに涙の粒が落ちる。
既に動かない人影が、そこにはあった。
禅箭が、汀を抱きしめ、手を固く握った状態でそこに居た。
汀の放った吹雪は、幸か不幸か世界中に散っていた。
主に空を走ったソレは、そこを支配せんとする魔物を貫き、彼等をひるませ、撤退させるには充分だった。
人間側にも被害が皆無だったわけではない。
しかし、それ以上の被害が出なかったという事自体が大きな貢献だったと言えるだろう。
二人はそのまま病院に運ばれた。
一体、何をどうしたらこんな状態になるのか、と医者に訊かれた所で答えられるはずが無い。
既に飽和状態になっている病院に二人を押し込めるだけで精一杯だった。
汀は、恐らく力の使いすぎによる極度の疲労。
禅箭は、意識不明の重体。正直、いつ心臓が止まってもおかしくない状態だった。
「湊くん、少し帰って休んでいたらどうだい?」
恐らく隼未の力を使った副作用だろう。顔色の悪い彼を見て皇が促す。
「いえ……自分が居てもどうにかなるわけでもないって解ってはいますけど…ここに居たいんです」
「無理だけはしないでくれよ。君にまで何かあったらご両親に言い訳がたたん」
「………はい」
立っているのさえ精一杯だろうに。時折ふらつきながらではあるが、しっかりとした返答を返した。
横浜の両親の無事は既に確認されている。一区切りついた所で一族の力を借りて連絡を取っていた。
連絡が取れた時は色々と言われたが、今は落ち着いていた。
「皇さんにだけは話しておこうかな……」
待合室のソファに腰掛けた湊が突如、ポツリと言い出した。
「何だろうね。儂が聞いてもいい事なら聞かせてもらうが」
隣に腰を降ろし、皇が微笑む。
それにつられるように弱く笑い、そっと口を開いた。
「俺と汀は、半分しか血が繋がっていないんですよ。……俺、母親の連れ子なんで」
「………」
「昔はそんな事全然気にしていなかったんです。でも、5年前の出来事と、こっちに来てから知った事で、ちょっと考える事があったんですよ。で、自分なりに少し調べてみたんです」
元々、普通の人間には見えないはずの魔物が、自分には見えた事。
隼未を体内に受け入れながらも、自我が残っている事。
そして、何よりも。
大学で会った魔物や地叶に「混ざっている」と言われたこと。
それらを統合して一つの結論が浮上してきたのだが、それを受け止めるのが怖かった。
「完全な答えが出されたわけではないんですけどね」
顔は笑っているが、声は微かに震えている。
「……それ以上は言わなくていい」
彼が自分の中で出した解答を自ら言い出す事の恐怖を察した皇が制止する。
「考えすぎると余計に疲れるぞ。いいから少し休んでいなさい」
「でもっ……!」
それを告げようとした湊の身体から突然意識が遠のき、そのまま彼は倒れた。
そして数秒後に、ゆっくりと瞳が開かれる。
「隼未……お前は、知っていたんだな」
黄金色の瞳に向かって、静かに問う。
「知ったのは、コイツの中に入り込んでからだけどな」
倒れた体勢のまま、天井を見詰めたまま呟く。
過去の戯れから生まれた、新たな生命。
このような形で再会するなど思ってもいなかった。
ましてや、誰がこの事実を明かすことができるものか。
自分のような、魔物が実の父親であると。
湊は結局、そのまま自宅で安静を取る事になった。
汀は数日もすると目を覚まし、その3日後には普通の食事を摂れるほどまでに回復した。
食欲は無いらしいが。
そして汀の回復を待っていたかのように、禅箭の容態が急激に悪化した。
みんな、どうしてそんなに騒いでいるの?
ねぇ、どうして禅ちゃんの病室にそんなにお医者さんや看護婦さんが集まっているの?
何か凄く焦っている声が聞こえるけど、何を言っているのかまではわからない。
人がたくさん居すぎて、禅ちゃんの顔が見えないよ。
「汀……起きていていいんですの?」
袖を引っ張られて、初めて汀が居る事に気付いた雉祢が驚く。
「雉祢ちゃん……」
袖を掴む手を震えさせ、禅箭の病室を見詰めたまま、汀が言う。
「禅ちゃん……大丈夫だよね?」
「…………」
雉祢からの返答は、すぐには無かった。
しばらく無言で居たかと思うと、まだ足元がふらつく汀を病室正面にあるソファに導き、座らせた。
「……こんないい女を二人も残して、あの方が逝ってしまうはずがありませんわ」
上からふわりと包み込むように、小柄な彼女を抱きしめる。
汀を包んでいる雉祢の腕もまた、震えていた。
『……何をしようとしているのですか?』
今まで見た事の無い法衣に着替えている皇に、後ろから都が話し掛ける。
「おお、都か。どうだった?湊くんの様子は」
浮かれている、とでも表現すべきか。いつになく上機嫌な様子に、都が一瞬引く。
『あと半日ほどはかかるでしょうね。しかし驚くべき回復力です。人間にしておくのが惜しいくらいに』
先日の湊の告白を、都は聞いていなかった。
しかし、彼の事だ。薄々何かは感じているのかもしれない。
それを敢えて口に出そうとはしないだけで、実は全てを知っているのかもしれない。
今はそのような事はどうでもいいのだが。
だから、二人ともそれ以上その会話については触れようとはしなかった。
『それで、私の質問には答えていただいておりませんが……その前に報告がもう一つ。………禅箭の容態が悪化しました。もってあと半時程度かと』
「そうか。急がないといかんなぁ」
孫への宣告を聞いても、病院に向かう素振りすら見せない様に、都の表情が変わる。
『……そのような事、喜ばれるとは思いませんけどね……』
彼が何をしようとしているのかを察したのか、促す。
「いいんだよ。ただの自己満足なんだから」
法衣の着付を終えた皇が、ゆっくりと顔を上げた。
「やっぱり死ぬのは、年の順じゃないと不公平だろうに」
その時、空に大きな星が流れた。
病室に嫌な電子音が響いた。
甲高く轟く、途切れる事の無い、魂の断末魔の叫びにも聞こえる音。
心拍停止。
医師と看護師たちの怒声にも似た声が響き渡る。
恐らく心臓マッサージを試みているのだろう。律動を繰り返す医師の姿が微かに見えた。
「嘘……」
雉祢がよろめき、背を壁にぶつけ、そのまま座り込む。
死ぬ?
誰が?
禅箭?
嫌だ。
嘘だ。
そんなの、信じない。
「禅箭の……ばかぁっ…………!!」
汀の掠れがちな叫びが、涙と共に零れ落ちた。
指先からゆっくりと身体が冷たくなっていくのがわかった。
ああ、これで終わるのか。
こんな所で自分は果ててしまうのか。
汀の声が、遠ざかる意識の片隅に届いていた。
もし自分がここで死んでしまったら、誰が彼女を守るのか。
……駄目だ。自分はまだ死ねないのに。
しかし身体は動かない。
まるで死神が無理矢理鎌で切り裂いているかのように、彼の意識は肉体から離れつつあった。
死んではいけない、ではない。
生きたい。と願え。
ふと、彼を呼ぶ声がした。
昔からよく知っている、懐かしい声。
その時の禅箭には、その声の主が誰なのか理解できなかった。
使命に捕われるのではなく、自分自身が生きるために、願え。
自分の、ために?
そうだ。一族の柵に縛り付けられるな。
………………生きろ。
お前を待っている、愛しい者達のために。
そして、私達のために。
「………?」
雉祢の動きが止まる。
彼を囲んでいた医師たちの動きも一瞬固まった。
先刻まで平行線でしか無かった脳波が僅かに波打つ。
そしてそれは微かなものから確実に大きなものへと変化していった。
「脈拍回復しました!血圧も上昇しています!」
看護婦が驚嘆の声をあげる。
奇跡だ、と若い医師が呟いた。
「この光は……」
常人には見えない、彼を覆う眩いオーラに、雉祢が瞬く。
それは見る見るうちに輝きを増し、ついには視界全てを遮るほどにまで膨張した。
何が起こっているというの……?
どこか温かみを感じるその光の中に何か不安を感じる。
その正体が掴めないまま、少しの時間が経過した。
光が落ち着くまでさほどの時間は必要とせず、またそれが終わった頃に禅箭がゆっくりと目を開いた。
その目尻からは、一筋の涙が伝っている。
驚く医師達を視界に入れようともせずに涙を拭い、呼吸器を自ら取り外し、身体を起こした。
「……だっ、駄目だ!!まだ起きてはいけないっ!」
そのままベッドから降りた彼を、ようやく我にかえった医師が慌てて止める。
まだ調子が戻りきっていない彼の身体はすぐによろめき、医師の腕の中に倒れこんだ。
「禅ちゃん……」
「あんの………馬鹿野郎……」
朦朧とした意識の中の彼の呟きが何を意味しているのか、まだ誰も理解していなかった。
光に包まれた時に、完全とは言えないものの、彼の傷は殆ど塞がっていた。
治癒能力が急激に高まり、彼の怪我を癒してしまったらしい。
医師の中に一族の人間が居なかったら説明にかなり困難を極めていた事だろう。
生命の危機は乗り越えたと判断され、病室から人が引けるまでは色々と騒がしかったが。
「良かったですわ……」
雉祢が椅子に腰掛け、一息つく。
「汀は?」
ベッドに横たわったまま、禅箭が訊く。
「少し疲れたみたいですわ…自分の病室で眠っています」
「そうか…悪かったな、色々と迷惑かけて」
「それは別に構いませんわ。……少しお休みになっては如何ですか?私、湊さんや皇様に報告しに行きますから」
『その必要はありません』
いつからそこに居たのか。都が会話に割り込んできた。
禅箭の表情が強張る。
「都……どういう事ですの?」
『湊は今眠っており、回復まではもうしばらくかかります。そして皇殿は…』
「死んだんだな」
突然都の話を遮って出された言葉に、雉祢が固まる。
「な……何を仰っているのですか禅サマ!」
『その通りです』
「!?……では、あの光はひょっとして……」
全て辻褄が合う事柄が揃った事に、納得と同時に大きな落胆が招かれ、膝を震わせる。
『常盤の力を全て禅箭に注ぐ事によって、彼を生き延びさせる道を選んだのです。常盤の力はそのまま生命力でもあり、また肉体でもあります。力を失った肉体はその姿を保つ事も出来ずに、そのまま消滅しました』
薄々と感じていた事ではあった。
常盤の力は、純血の人間に分割して分けられてた事を。
奏が死んだ時に、彼女が持っていた力が自分の中に注がれていた感覚があったのだ。
そして瀕死であった自分の治癒能力が高まった事を考えれば、その結末は容易に想像できた。
『伝言……もとい、遺言を預かっています。……聞きますか?』
「……後で聞く。悪いけど、少し1人にさせてくれないか」
『…承知しました。では、私は汀の元へと参りますので』
「……では私は、湊さんの様子を見に行って参りますわ」
禅箭の心境を察した二人は、足早に病室を後にした。
不思議な事に、涙は出なかった。
ただただ、思い出が頭の中を駆け巡るだけだった。
言いたい事は山ほどあったはずなのに。
いざとなると何も出てこなかった。
喉の奥は熱いのに、言葉を発する事はできなかった。
今まで育ててくれた礼も言わせないまま逝っちまうんじゃねえよ。
握り締めた拳から赤いものが伝ってゆく。
それと同じものを持つ人物は、誰も居なくなった。