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10話

「お帰り」

既に夕刻と呼ばれる時間にマンションに着いた二人を、明るく出迎えた。

湊ではなく、隼未だ。

「……ただいま」

まだ見分けがつかないらしい汀が、少し迷いつつも言う。

「なんだよ、しけた顔してるな。折角俺が持ってる情報教えてやろうと思ってわざわざ出てきたのに」

「………どういう事だ?」

「ご丁寧に、湊が手紙残していてな。全部聞いたよ。まぁ、約束破ったツケは後でキッチリ払ってもらうけどな」

「そんな事言わないで。私が無理矢理禅ちゃんに頼んだんだから」

汀がすがるような目つきで隼未を見据える。

「…………」

それをしばらく見たあと、彼は無言で禅箭に向かって来い来いと招いた。

「……目ェ瞑れ」

そう言って彼の額に右手を翳すと、間髪入れずに衝撃波で吹っ飛ばした。

何も構えていなかった禅箭は、いとも簡単に壁まで飛ばされた。

「……ッ!!」

「禅ちゃんっ!?」

「安心しろ。これでも手加減してやったんだ」

背中に走った激痛のせいか。それとも隼未の力の影響か。

そのまま禅箭は意識を失った。



頭の奥から、声が聞こえる。

これから、俺が持つ記憶の全てを、お前の脳に直接送り込む。

いいか。この記憶は全て事実だ。

受け止めろ。目を背けるな。



「禅ちゃんっ、禅ちゃんっっ!」

微動だにしない禅箭を揺り動かし、汀が叫ぶ。

「今は大事な情報を格納している所だ。下手に動かすとバカになるぞ」

タバコに火を灯し、隼未が言う。

「だからって、こんな事しなくても…!」

「その方が都合がいいだろ。お前にとっても」

煙を吐き出し、意地悪く笑う。

「どういうこと……?」

「忘れているのか、忘れたフリをしているのかは知らないがな。お前の弱点であり、最大の強さ。お前を氷醒達に渡すわけにはいかないんだよ。その為にも、全てを自覚しておかなくてはいけない。お前自身も。そして勿論コイツも、な」

「………!!」

汀の身体が微かに震え始める。

「己の弱さを自覚できない人間は、奴等に付け入られ、種を植えられる可能性がある。そしてその弱さは醜い願望へと変わり果て、やがて破滅させる。お前にそうなられたら困るんでね」

[困る]のではなく、[嫌]なのだが。

それは敢えて言葉には出さずに、汀の頭へと手を翳した。

「……いや………」

両の目から涙を流し、力なく頭を振る。

「耐えろ」

彼女の願いは隼未の右手から発せられた閃光に虚しく掻き消された。



克服しろ。全てを。



悪夢を無理矢理呼び起こされる前に。




膨大な量の、情報と言う名の歴史が、無理矢理頭の中に詰め込まれてゆく。

拒む事を許さず、まるで楽しむかのようにそれは禅箭の脳を侵食していった。



頭の中を激痛が走り抜ける。

情報を収納しきれずにパンクしかけているのだろう。

今理解できるのは、闇の中に眠る一筋の光。

そして、その光の更に奥に潜む暗闇。

その全ての根底に眠る、ひとつの影の存在。



……俺は、コイツを知っている。



自分がそれを全て受け入れるには、まだ足りないものがあった。



「………」

ゆっくりと瞳を開ける。

まだ少し頭痛がしていた。

見慣れた天井に、ソファーの感触。

汀と、湊の住むマンションのリビングだ。

「随分と大きくなったんだな、禅箭。ここまで運ぶの大変だったぞ」

湊が優しく話し掛ける。

隼未は既に眠りについているらしい。

「………で、禅箭。起きたばっかりで悪いんだけど、ちょっといいか?」

にっこりと微笑んだまま、湊がコーヒーを手に寄って来る。

こういう表情の時は、とんでもなく怒っている場合である。

「汀が部屋から出てこないんだけど、何があったんだ?」

返答によっては、湯気がモウモウとしているコーヒーをそのまま顔にかけられそうな勢いだ。

「なっ、何もしてない!第一、俺だっていきなり隼未に気絶させられたんだよ!」

「…その前とかは?本当~~~~~に何もしていないか?」

「うぅっ……」

返答に行き詰まる。湊の顔からは笑顔は消えない。むしろ微笑み度が増しているようにさえ感じられる。

怖い。

「禅ちゃんのせいじゃないよ」

突然、扉の向こうから汀が割り込んだ。

「……隼未に何をされたんだ?」

閉ざされた扉を隔てたまま、禅箭が訊く。

「何もされてないよ」

「嘘つくな」

「嘘じゃないもん。……ぜんぶ、私が悪いんだから」

「どういう事だ?」

「汀」

ふと、静かに湊が妹の名を呼んだ。

汀からの返答は無い。

「隼未に何をされたか、言われたかなんて知らないし、どうでもいい。お前が納得するまでそこに居ることだって構わない。……ただ、欺き続ける事だけはするなよ」

扉の向こう側からは、明らかな動揺が窺えた。

やがて、ゆっくりと扉が開かれた。

「ごめんなさい……」

どれだけ泣いていたのか。真っ赤になった瞳から更に大きな粒を溢れさせ、汀が姿を現す。

「欺きって……どういう事なんだ?」

「ごめんなさい」

「謝るだけじゃわからない」

「・・・ごめんなさい」

「汀。俺が話してやってもいいんだぞ」

やりとりに見兼ねたのか、湊が口を挟む。

汀は少し考え込んだ後、力なく首を横に振った。

「…わかった。……じゃあ、俺は部屋に行くから、何かあったら呼んでくれ」

その方がお前も話しやすいだろうから。



「ごめんね。卑怯だね、私…」

涙を拭って、汀の表情が更に暗いものになる。

自分ばかり、聞くことだけ聞いて、肝心なこと、自分のことは話さないでいた。

「…話したくないことなら、無理に言わなくてもいいんだぞ」

「それじゃ駄目なの。この事だけは禅ちゃんに知らせておかなくちゃいけないって、隼未ちゃんが…」

言いたくない。

一番知られたくない相手だった。

言わないでいられれば、どれだけ幸せだっただろうか。

でもそれは所詮上辺を繕っただけであり、真実を受け入れる事ではなかった。

それを知っていたから、隼未はそれを汀に促した。

「私が、こっちに来た理由ね…本当は、違うの。湊ちゃんの身の回りの世話なんかじゃないの」

確かに、中途半端な時期ではあった。それを疑問に感じた時もあったが、然程気にすることでもないので敢えて聞かないで居たのだが。

「前の学校でね……私………」

「それ以上言わなくていい」

震えた声を絞り出す様子に耐え切れず、禅箭が汀を抱きしめる。

予想はついていた。それを本人の口から言わせる残酷さに、恨みさえ感じられた。

「ごめんね……ごめんなさい…………でも、言わせて……」

禅箭の身体から伝わる温かさと震えを全身で感じながら、汀が瞳を閉じる。

そして、凛とした声でその言葉を発した。


---犯されたの。


「学校の先輩でね……帰り道で声かけられて………」

「だからっ!それ以上言うなって言ってんだよっ!」

突如、禅箭の怒声が響く。

それに萎縮し、汀は黙り込んだ。

「………悪ィ」

聞きたくなかった、それ以上。

聞いたが最後、自分が何をしてしまうか想像できてしまったから。

「…ごめんなさい」

「お前が謝る必要ないだろ。何も悪くないんだから」

「でもっ……」

「いいから、黙ってろ」

「……嫌いに、ならないで」

「アホ。誰が嫌うかよ」

嗚咽しつつ絞り出される彼女を宥め、落ち着くまで抱き続けるしかできない自分が歯痒かった。



泣き尽くして疲れたのか。それとも昨夜の寝不足のせいか。

汀は落ち着くと、そのまま眠りについた。

「……悪かった。今まで黙ってて」

湊が妹を部屋に運んだ後、禅箭に改めて謝罪した。

「そそのかしたのは隼未だろ。湊が謝る事じゃない」

「………」

やがて、湊が重々しく口を開いた。

汀の口から直接聞くよりはマシだろう、と。

「転校してすぐにお前と再会しただろ。それを凄く喜ぶと同時に、お前にその事を知られて、嫌われることを極端に恐れた。以前、言ってたよ。『闇狩主になる事は、自分の意思ではあるけど、ただのエゴだ』って」

離れたくない。突き放されたくない。

全てを話して傍に居て。

それは、そのまま自分にも当て嵌まる事で。

でも、自分のことはどうしても言えずに居て。

それでも、全てを知られてしまっても、離れない証のようなものが欲しくて。

「………ショックだね」

不意に、禅箭が呟く。

「禅………。黙ってて悪かったとは思ってる。でも…」

「そうじゃなくて。知ったからって、そんな簡単に心変わりするような男だって思われてた事が、だよ」

「……そっちなのか?」

湊が拍子抜けする。そして安堵した。

「どんな事があろうとも、アイツがアイツで居る事に変わりはないだろ」

「ああ」

「隼未だって、後でこの事が発覚して、俺たちの間に亀裂が入ることを恐れて進言したんだろうしな」

「まぁ、そう思えば合点はいくな」

「ただ、それを汀本人の口から言わせたことはちょっと許せないけどな」

…………………………。

ふと、沈黙が流れた。

湊がそれに気づき、恐る恐る訊く。

「……ちょっと待て。まさかお前、知ってたのか!?」

「知り合いにお節介な情報屋が居るもんで」

汀が言いたくないなら敢えて聞き出そうとも思わない。

ずっと言わずに居るなら、それでもいいと思っていた。

「なんだ、そうだったのかよ……」

大きくため息を吐き出すと、ちょっと待ってろ、と言って湊は自分の部屋に行った。

数十秒後に戻ってきた彼の手に持たれていたのは、瓶とグラス2個。

「まぁ、呑め」

「………未成年に酒薦めるなよ」

しっかりグラスを受け取っておきながら、禅箭が苦笑する。

それからどうしたのか、詳しいことは覚えていない。



その頃、常盤家では電話が鳴り響いていた。

やがて、買い換えたばかりの電話機は留守番メッセージの応答を開始する。

電子音の後に、数秒の間を空けて、銀次の声が録音された。

「携帯電話くらい持てよな………例の件、新しい情報が入った。とりあえず連絡よこせ」



**********

「頭痛ェ……」

ガンガンする頭を押さえながら、学校へと向かう。

深夜に帰宅し、銀次に電話をし、それから雑務をこなしていたらあっさりと夜が明けた。

休んでしまえば、どれだけ楽だっただろうか。

しかし、今日はどうしても抜けられない用事があった。



「……どうしても、か…?」

職員室で、禅箭の担任が大きく溜息をつく。

「お祖父さんが亡くなったと聞いて、遅かれ早かれこうなるとは思っていたけどな…」

「わかってるならさっさと受け取ってよ。こっちもヒマじゃないんだから」

退学願、と書かれた封書を差し出しながら、禅箭が言う。

「まぁ、一応受け取ってはおくけどな。まだ保留にしておくぞ」

「戻ってこられる保証無いんだけど」

「それでも、だ」

「…………」

少しの間を置いたものの、封書を受け取り、引き出しにしまうのを見届けると、禅箭は深く礼をし、背を向けた。

「ちょっと待て、常盤」

扉に手をかけた辺りで、ふと呼び止められる。

「俺さぁ、来年結婚するんだよ。式には来てくれよな」

照れ笑いをしながら手を振る。あまりにも大声だったため、他の教師の注目を集めていた。

「考えておく」


戻って来い、と暗に言われていることに禅箭は気付いていた。

胸の辺りが少しだけ熱くなっていた。



「禅ちゃん、もう帰っちゃうの?」

汀が廊下で呼び止める。

「ああ。ちょっと雑用ができてな。今から東京行ってくるよ」

「また……?」

明らかに不貞腐れた様子で汀が呟く。

「ちゃんと帰ってくるから安心しろ」

「うん……」

自分が行ってはいけないことだと判断したのか、素直に頷く。

「ねぇ、禅ちゃん。ひとつ聞いてもいい?」

「何だ?」

「都と雉祢ちゃん、どこに行っちゃったんだろうね……」

「……さあな」

『私ならここに居りますが』

「……ぅわっ!」

突然足元に現れた都に、二人揃って仰天する。

『…何か不都合でも?』

「いや、好都合だ」

まだドキドキ鳴っている心臓を宥めながら、禅箭が言う。

これで一番心配な、汀の安全が保証される。

『雉祢がここ数日、姿を現さないみたいですが……』

「そうなんだよね。どうしちゃったんだろうね?」

『……最悪の事態を考えておいたほうがいいかもしれませんね』

氷醒の手に落ち、眷属に成り果てた可能性がある。

「大丈夫だ。それだけはあり得ない」

禅箭は断言した。

『…随分と自信があるみたいですね』

その根拠はどこからくるのか、とでも言いたげに禅箭を見上げる。

彼はただ、微笑むだけだった。 



「常盤禅箭さんですか?」

空港の出口で、突然彼に声をかけた少年がいた。

「そうだけど、あんたは?」

「オレ、真鳥(まとり)(こう)って言います。銀次に頼まれて迎えに来ました。今日は道が混んでるからバイクを使ったほうがいいだろうって」

駐車場に案内しながら鴻と名乗った少年は挨拶する。

「最近、物騒な事件が続いていまして。そのせいかどうかはわからないけど、交通機関がかなり混乱しているんですよ」

禅箭は促されるままにヘルメットを被り、導かれるままに後部座席へと腰を下ろす。

「飛ばしますからね。落ちないようにしてくださいよ♪」

不敵とも思われる笑みをこぼし、鴻はエンジンをかけた。

「…聞きたいことあるんだけど、いいかな」

ふと、かすかな不安がよぎったのか、禅箭が訊く。

「なんでしょう?あまりにもプライベートな事以外ならオッケーですよ」

「……何歳?」

「今年で14です♪」

鴻は満面の笑みで答えた。



二輪免許取得は16歳以上。




「銀次ー、常盤さん連れてきたよー」

ぐったりした禅箭を尻目に、イキイキと鴻が呼ぶ。

高級マンションかホテルを思わせるエントランスのドアが開く。

ここは、れっきとした学校の寮である。

「それじゃ、オレはここまでなんで。507号室に行ってください」

深々とお辞儀をして、鴻は去っていった。

「あ、ありがとう」

それを言うのが精一杯だった。



「どうかしたのか?青い顔して」

「………酔った」

ふらふらと部屋に入り、水を飲んでようやく一息をつく。

道中、何度死ぬと思ったことか。

「あいつの運転荒いからなぁ」

「それをわかっていて迎えによこしたのかよ」

明らかに恨みがましい目をして睨み付ける。

問題はそれ以前にもあるのだが。まあ敢えて今はそれは問うまい。

「ちょうど今、打ち出しが終わった所だ。見るか?」

話題をサラリと逸らし、銀次がプリンターから吐き出されたばかりの用紙を差し出す。

黙ってそれを受け取り、目を通す。

「おい…ちょっと待て。今夜かよ」

「みたいだな」

そんなあっさりと言うか。

「他に必要そうなものがあったら調べておくが」

「…いや、これだけで充分だろう。助かるよ」

「俺は行かないからな。領域が違いすぎる」

「わかってるよ」



深夜の繁華街。

そのネオンの影に存在する闇の中の不穏な動き。

それらの全てに神経を研ぎ澄ませ、確実に見つけ出す。

当てにならない警察の目をいとも簡単に潜り抜け、浸透してゆくものを求めて。

その裏で嘲笑うものを燻り出すために。



見つけたっ!



「風堕ァっ!!」

刹那、禅箭の声が風を切って、彼の耳に届く。

姿は多少変えてあるものの、間違いは無い。

少年は振り向き、多少驚いたものの、すぐに元の表情に戻る。

「……死んでなかったんだ」

つまんないなぁ、と肩を竦める。しかしどこか楽しげだ。

彼の横には、一人の男性が座り込んでいる。

「ちょっと遅かったね。ちょうど種を植えたところだよ」

虚ろな瞳をしていたかと思うと、その男性は突然悲鳴をあげながら倒れ、全身を痙攣させた。

そして、みるみるその姿を変貌させてゆく。

「よく見ておきなよ。これが、愚かな人間の末路だよ」

既に人としての原型を留めていない姿をうっとりとした瞳で見つめる。

「僕らはその醜い願望を解放してやるだけさ。己の器以上の、身の程知らずな奴等は野性に戻ったほうが幸せだろうしね。………もう、人間の時代は終わらせるべきなんだ」

共存することが当たり前にならないのなら、支配してしまえば良い。

邪魔をするものは、全て消してしまえ。

行け、という風堕の声に従うかのように、魔物への変貌を終えた元・人間が禅箭に向けて牙を剥き、襲い掛かってきた。



その争いは、すぐに終わった。

一瞬、と言っても大差無いだろう。

魔物はあっさりと崩れ落ち、首と胴体が全く違う場所に落ちた。

そして、それぞれの場所で体液が噴き出す。

「なっ………!?」

その光景に驚愕したのは風堕の方だった。

「どうしてっ……なんでそんなにあっさり殺せるんだよ!ソイツは元々お前と同じ人間だったんだぞ!目の前で見ていただろう!?それなのに……」

「それがどうした」

僅かな返り血を拭い、禅箭が言い放つ。

「元が人間だったから、俺が倒せないとでも思っていたか?」

「…………」

風堕が口篭る。

「そんな心配よりも自分の身を心配しろ」

両の拳に力を集め、禅箭が睨む。

にわかに、周りが騒がしくなってきた。

「ちっ……」

風堕が忌々しげに舌を打ち、宙に身を浮かせる。

「今は兄者に戦うのを止められているんだっ。どうしてもやりたいなら、今度は樹海に来いよ!そこだったらいくらでも相手になってやるよっ!!」

そう叫び、そのまま彼は姿を消した。

樹海、とは言うまでも無く富士の麓にある青木が原の事だろう。

そこに、彼らの本拠地があるに違いない。



「あ、禅ちゃん。おかえりっ」

マンションに顔を出した禅箭を、汀が出迎える。

「…どうかしたの?」

暗い表情のままの彼を、心配そうに覗き込む。

「…………人を………一人、殺してきた……」

倒れるように扉に背を当て、そのままズルズルと座り込む。

躊躇わなかったわけじゃない。

襲い掛かってきた時、彼にはまだ、ほんの少しだけではあったが自我が残っていた。

殺してくれ。

いやだ、死にたくない。

絶望と恐怖が混ざったままの彼を解放するには、苦しませずに葬るしかなかったのだ。

それしか方法が無かったとはいえ、末期の表情は忘れられないものであって。

方法は一つだったとしても、それが最良の方法だったのかと聞かれると答えられなかった。

「……禅ちゃんは悪くないよ………」

汀は、そう言うのが精一杯だった。

「むしろ、そうしてもらって幸せだっただろうよ、彼は」

湊がそっと言う。

よく似た境遇の彼だからこそ、共感するものもあるのだろう。

「そう思わないと、これからやっていけないんだろう?お前の仕事は」

「……わかってるんだけどなぁ………」

苦笑雑じりに吐き出されたため息は、僅かな時間ではあるが、空気を白く染めた。


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