2
十一歳で帝国に行った私は、大公国に戻ったとき、十四歳になっていた。
帝国では自由に部屋から出ることもできなかった。大公国では自由に城内を歩けるし、気を張り詰める必要もない。しかも慣れ親しんだ祖国だ。私は帰国できた幸せを噛みしめていた。
戦争による大公国の被害は最小限に抑えられた。領土は戦場にもならず、兵も派遣したが戦傷者も想定より少なかった。国内の戦後処理に父は奔走しているが、しばらくすれば情勢も安定するだろう。
平和な時間を過ごす中で、ふとした瞬間に、皇太子のことを思い返すことがある。あの変態皇子は相変わらずだろうか。婚約者が内定したという話は聞かないが、もう選定は終わったのだろうか。
手紙のやり取りさえも拒否したのは自分なのだ。彼のことを考えるのはやめるべきだとその度に自分を戒める。
「アナスタシア。帝国に何か心残りがあるのかしら?」
母が心配そうに私に尋ねた。なぜそんなことを聞くのだろう。
「なぜですの?わたくしは、ようやく帰国できて嬉しく思っていますのに」
「ふと寂しそうな表情をしているわ。帝国で仲良くなったお友達でもいるの?」
私はそんなに物憂げな顔をしていたのだろうか。公女として感情を顔に出さないように努めていたというのに、まだまだ未熟だったようだ。
「……えぇ。どうしていらっしゃるかしらと考えておりました」
母は表情を和らげると、私の頭を優しく撫でた。
「お前を帝国へ送ったときは、その他に手段がなかったとはいえ、この身が引き裂かれる思いだったわ。苦労をかけたけれど、それでも帝国でそのようなお友達ができたのなら、私の心も少し救われます」
母がそのように考えていたとは思わなかった。まあ、あの皇太子を友人と言っていいのかは分からないが……。
「帝国での生活は、そう悪くありませんでした。どうか気に病まれないでください」
私がそう言うと、母は私を抱き寄せたのだった。
平和となった世の中で、次に私に課せられた使命がある。公女として大公国の利益となる家と婚姻を結ぶことだ。
「順当にいけば侯爵家だったが、あそこの長男には婚約者ができたようだ」
「そうでしたか」
「お前に相応しい縁談を調える。待っていろ」
父が言ったが、そう簡単に事は進まなかった。
大公国の主だった家の嫡男は既に婚約者がいた。対象を十歳から三十歳ごろまで広げたが、どの家も駄目だった。
こうなると、私も一つの推論にいきつく。
「わたくしは、もしや……嫌がられている?」
普通であれば公女と同世代の息子がいる場合、公女の婚約が整うまで息子の縁談を進めないものだ。大公家との縁談は、一般的に名誉なはずなのだから。
同世代の子息たちが軒並み売約済みということは、彼らが大公家との縁談を求めていないという意思表示に他ならない。
(なぜかしら)
容姿は悪くないと思う。良く褒めてもらえるし、それらがお世辞ばかりとも思えない。家柄はこの国で一番であるし、風邪もめったにひかないほど健康体だ。性格も、それほど悪くないと自分では思っている。使用人に辛く当たるなど、理不尽な仕打ちもしていないはずだ。
自分にここまで嫌がられる要素があるとは思わなかった。
(殿下はあんなに寄ってきていたのに)
どうやら彼のせいで自己評価がおかしくなっていたらしい。どこまでも迷惑な男だ。
帰国して一年ほど経ったが、未だ私の婚約者は決まっていなかった。
「お父様。もうわが国にわたくしが降嫁できる家はないでしょう」
ここまで嫌がられては、もう他国に嫁ぐか、修道院へ行くほかないだろう。家族の晩餐で、私は父に話を向けた。
「諦めるんじゃない、アナスタシア」
驚いたように父が言った。
「そうですよ姉上。修道院へ行くなどとは言わないでくださいよ」
「アナスタシア。大丈夫です。あなたのように美しく心映えまで良い女性はそういないのよ。すぐに縁ができるわ」
弟のフレデリクと母上も私を慰める。家族はそう言うが、私はもう分かっていた。
この国に今、公女と婚姻を結べる家は残っていない。
「わたくしが公女としての責務を果たせるならば、もうお相手はどなたでも構いませんわ。外国の方でも」
夫は同世代の、優しく、裕福で、できれば見目麗しい貴公子が良い。私だって勿論そう思う。
しかし私は公女なのだ。国に有益な相手ならば祖父と同世代でもまぁ構わない。頭髪が寂しくても、背が低くとも、腹がふくよかでも、受け入れよう。
ただ——。
「帝国の殿方でしたら、少しためらいますが……」
皇太子と顔を合わせる機会が増えることは避けたい。帝国の貴族は避けたいとは思っていた。
「アナスタシア。実はな。その帝国から、お前に留学にこないかと打診があるのだ」
「留学でございますか?フレデリクでなく、わたくしに?」
「あぁ。外国の王族を招いているそうだ。留学といっても半年ほどだし、年齢的にもお前が相応しいという。フレデリクはまた別の機会があるとして、気晴らしに行ってみてはどうだ」
帝国に滞在するということは、皇太子と会うこともあるだろう。そこからどういう展開になるか全く読めない。皇太子との出来事は両親には報告できずにいる。どうアレンジしても皇太子の批判ともとれる話となってしまうため、悩んだ末言い出せなかったのだ。
「申し訳ございません。丁重にお断りしてくださいませ。帝国でまた長期滞在というのは、ちょっと……」
「そ、そうだな!すまん。お前のことを考えれば当然のことだ」
私が少し愁いを帯びた顔をすると、父は慌てた様子になる。
「父上!私は帝国に留学したいです。また私にお話があればお願いいたします」
フレデリクが無邪気に言った。彼は帝国に憧れているのだ。
「ふふ。フレデリク。お前はまず、将来の大公となるべくわが国の勉強をしなければなりませんよ」
お母様が釘をさすと、フレデリクは分かっていますよ、と頬を膨らませたのだった。
縁談が決まらないまま、時は過ぎていく。
私は十六歳となり、公女として公務にも出るようになった。視察や外国の来賓を迎えることもある。
その日、私は帝国からのお客様を迎えることとなった。
「あなた様が、アナスタシア公女殿下でございますか」
「えぇ、フォスター侯爵令嬢。わたくしをご存じでいらっしゃいましたの?」
「もちろん、存じ上げております。公女様、どうぞわたくしのことは、エリザベートと」
「あらエリザベート様。でしたら、わたくしのこともアナスタシアとお呼びになって」
帝国からやってきたフォスター侯爵家は大公国と規模がほとんど変わらないほどの大貴族である。侯爵家は視察で大公国までやってきたというが、なぜかその一団にご令嬢も付いてきたのだ。彼女のお世話は必然的に同世代の女性である私となった。
「嬉しいですわ。わたくし、アナスタシア様とお話ができると聞いて付いてきたのです」
「わたくしの為に?まぁ光栄ですわ」
親しみ深い笑顔で、彼女は私に言った。彼女が私に好意的なことは確かなようだ。
美しい令嬢だ。深紅の髪は艶があり、豊かに波打っている。翠色の瞳は大きく輝いて、頬はバラ色に染まっている。
フォスター侯爵家の名は帝国に居た時から知っていた。彼女は皇太子の婚約者候補筆頭だったはずだ。
もう皇太子の婚約は整ったのだろうか。聞きたい気もするし、聞きたくない気もする。
フォスター侯爵家が大公国に滞在している間、私とエリザベートはかなり親しくなった。彼女は明るく博識で、嫌味がない。私はエリザベートが好きになり、お客様というよりは友人として接するようになった。
エリザベートと大公国の街を散策し、共に互いの国風のドレスを仕立て、歓迎パーティーに出席する。殆ど毎食を共にして、くだらない話で笑い合った。
「アナスタシア様。わたくしの結婚式が半年後にございます。どうぞ帝国にいらしてくださいませ」
エリザベートも同じように友人と思ってくれているのか、帝国でおこなわれる彼女の結婚式に熱心に招待してくれた。
彼女の花嫁姿はさぞ美しいだろうし、帝国の結婚式がどういったものかも興味がある。
「ぜひ行きたいですわ。エリザベート様の旦那様にもご挨拶したいし」
彼女の婚約者は同じく帝国の大貴族の嫡男で、皇太子ではないらしい。彼女は自分の婚約者殿に夢中であるようだ。
「夫になる人は元々幼馴染だったのです。アナスタシア様に参列して頂けたら彼も喜びますわ」
エリザベートは頬を染めて言った。きっと婚約者を思い返しているのだろう。
せっかく親しくなったのだから、結婚式に行きたい気持ちはある。
「結婚式は皇族の方も参列されるの?」
大貴族同士の結婚式である。皇族が参列してもおかしくはない。念のため確認すると、エリザベートは虚を突かれたような顔をした。
「……いいえ。今のところ、その予定はないですわ」
にっこりとほほ笑んで彼女が答える。
彼女の結婚式に出席するだけならば、皇太子に会うこともないだろう。私は安心して、彼女の結婚式に行くために日程を調整することにしたのだった。
数日後、フォスター侯爵家の一団は大公国を出立した。
「アナスタシア様。それでは、皇都でお会いできるのを楽しみにしておりますわ」
「えぇ。わたくしも」
彼女と軽く抱擁して、一団の馬車を見送る。
少し悩んだが、エリザベートには彼女の結婚式に出席すると返事をした。
小さくなっていく馬車を眺めながら、私は帝国に思いを馳せていた。
公務をこなしながら、帝国へ行く準備をおこなう。
参列時の衣装。二人への贈り物。一応、皇城に呼ばれた時のために、皇帝への献上品。
近頃は、修道院の情報も集めていた。
温かくて食べ物が美味しい場所。海の近くの修道院など。活気があって楽しそうな場所がいいと思っている。
(エリザベート様の結婚式から帰ったら、本格的に修道院に入る準備を始めよう)
帰国する頃には十七になる。未婚の公女のまま城に居座り続けることなどできないのだから、将来の身の振り方を考えなければならない。
◆
二年半ぶりの帝国は、活気に満ち溢れていた。
戦争が終わり、人々の顔には希望がある。これから更に自国が発展するだろうという希望だ。
「素晴らしいわ」
「アナスタシア様がいらした頃とは変わったでしょう。またゆっくりと街をご覧になってくださいませ」
私が皇都へ入ると、すぐにエリザベートが迎えにきた。知らせも入れていないのに迎えがあったものだから驚いた。さすがに大貴族と言うべきか。
「今回はそんなに長く帝国に滞在する予定はございませんのよ。また機会がありましたら皇都を散策したいですわ」
私がそう返すと、エリザベートは何も言わずほほ笑んだ。
「ではわたくし達は今日の宿へ行きますわね。エリザベート様、お出迎えありがとうございました」
彼女は花嫁だというのに、長々と私の相手をさせては申し訳ない。私がそう言って去ろうとすると、エリザベートは私の腕を取った。
「アナスタシア様。実は、御一行の宿はわたくしがキャンセルいたしました」
「……は?そ、それはどういう」
「水臭いですわ、アナスタシア様。わたくしがご招待したのですから、我が家に滞在なさってくださいませ。大公国ではずっとお世話になったのですから、当然ですわ」
有無を言わせない迫力で、彼女は私を引っ張っていった。
良く分からないままにフォスター侯爵家へ到着すると、私は手厚い歓迎を受けた。大きな客室に迎えられると、夕食にも招待され、侯爵一家と食卓を共にした。
「公女殿下。視察の際はお世話になりました。この度は娘の婚礼にもお越しいただいて感謝いたします」
フォスター侯爵が私に礼を取る。私も彼に礼を返した。
「図々しくもお忙しい時にお邪魔いたしまして申し訳ございません」
「何をおっしゃるの。わたくしが無理にお呼びしましたのに」
エリザベートが華やかに笑うと、夕食が始まった。
和やかな夕食が終わると、客室に戻る。広く、豪華な部屋だ。私のために整えてくれていたのだろう。美しい花が生けられ、調度品も一流品ばかりである。
私は部屋着に着替えると、ゆったりと体をソファへ沈める。
(帝国へは……もう生涯来ることはないでしょう)
大公国に帰ればエリザベートと会うこともないだろう。修道院に入れば、清貧に慎ましく生き、王侯貴族と会うことなどない。だからこそ、その前に彼女の結婚式に参列しようと思ったのだから。
エリザベートの結婚式は、皇都で一番大きな教会で執り行われるらしい。
私は今日のために用意した衣装に身を包み、教会へ入った。
大公国にはない荘厳な教会である。精緻で美しい彫刻や、色とりどりのガラスで装飾された内装に私は思わず見惚れてしまう。
結婚式には多くの人が参列している。さすが大貴族の嫡男の結婚式だ。
案内された席へ行くと、想像以上に前の席で驚いた。エリザベートは随分上座に私の席を用意してくれたらしい。この席からだと、花嫁と花婿がよく見えそうだ。
帝国風の豪奢な内装をじっくりと鑑賞していると、空席だった私の隣に人がきた。ふと隣を見やる。
隣に座った人物を見て私は固まった。
「会いたかったぞ。アナスタシア」
「で……殿下」
隣に座ったのは金髪と煌めく碧眼の美男子。ここにいるはずがない皇太子ランドルフだった。