36 襲撃事件の犯人
本日3回目の投稿です。
扉の外で、アンジェリカは、きつい言い方をしたことを後悔していた。
本来なら、父親のリベルトと夫だったカルロにぶつけるべき憤りだったのではないかと思ったからだ。それをアスランに八つ当たりしてしまった。
もし、あのままカルロと白い結婚を続けていれば、生涯孤独だった。夫に顧みられることもなく、我が子も抱けない。社交場で蔑みの視線にさらされる日々。そんな苦しい未来がありありと脳裏に浮かび、今になって愕然としたのだった。
安心な食事と安全な寝床の生活に満足するアンジェリカを、アルバーノが「基準が低すぎる」と呆れるわけである。
“言い過ぎちゃいました”
“いいのよ、いいのよ。アンジーちゃんと白い結婚しようだなんて馬鹿にしてるわ。人の人生を何だと思ってるのかしらねぇ。むしろ、もっと怒るべきよ!”
アンジェリカはしょげていたが、シンナに元気づけられて救われた気持ちになった。
“私、怒っていいんですかね?”
“いいの、いいの。怒りは、誰もが抱く感情の一つだもの。我慢し過ぎると、黒い穢れがたまっていくわよ?”
“え、あの黒いものの正体は、悪意じゃないんですか?”
“悪意をひっくるめた負の感情よ。怒りとか不満とかね。そういうものをため込めば、憎悪とか野心とか良くないモノに成長するでしょ? 上官への不満が度重なれば失脚を望むようになるし、嫉妬に駆られると殺意が生まれたりするわ”
“ああ、なるほど。その負の感情が大きくなると、影が濃くなったり、渦巻いたりして見えるわけですね”
“そう、そう、それが『穢れ』よ。穢れは、小さいうちに処理するのがいいのよ。怒ってるなら『ふざけるなー』って、文句言ってスッキリしちゃえばいいの”
“掃除と一緒ですね。汚れはひどくなる前に拭き取った方が楽なんです”
“うん、うん、そういうこと!”
シンナと念話を交わしながら廊下を歩く。
皇太子のいる部屋から遠ざかったのを見計らって、アルバーノが「奥方様、大丈夫でしたか?」と声を掛けてくる。
「師匠が懸念していた側妃への打診でした。でも断ったから大丈夫です」
「そうですか」
「人間、ご飯と睡眠だけじゃ満たされないんだと気づきました。やはり人生には、愛がないと。師匠の言う通りです。今まで基準が低すぎました。これからは、もっと欲張ろうと思います」
晴れ晴れとした顔で笑顔を見せるアンジェリカに、アルバーノは眉をピクリと動かし「気づくのが遅すぎです」と呟いた。
図書館に戻り、本のページを捲りながら、アンジェリカは、ミュリエルの黒い炎が気になっていた。
初対面には靄だったものが、さっき会った時には、はっきりとした塊となって揺らめいていた。もう少しで渦を巻き始め、殺意に変わりそうな予感さえする。
(消すべきかしら?)
しかし、忠告はした。自分が関与すべき問題ではないのだと、アンジェリカは、もやもやを抱えながらも手を下すことを躊躇していた。
ロザリアの口からアルバーノ襲撃の犯人の名前が告げられたのは、剣技大会前日の朝錬の時だった。
やっと昨日、実行犯たちが目を覚ましたのだ。
さすがに眠りすぎではないかとシンナを咎めると“大会が終わるまで眠らせても良かったんだけどね”と悪びれもしない。
「依頼主は、マノン・バルニエ子爵令嬢だそうです」
マノンは、騎士の鍛錬場で会ったミュリエルの取り巻き令嬢の一人である。正確には、取り巻きではなく侍女だそうだ。彼女は今、牢に入れられている。
「ミュリエル嬢の侍女ということは、あの…………」
アンジェリカの言わんとすることを察したロザリアは静かに首を振る。眉間に皺が寄っていた。
「あくまでマノン嬢が勝手にやったことだと。本人もそう証言しています」
しかし、子爵令嬢の犯行にしては妙だった。
まず、まるで最初から示し合わせたかのように実行犯が早々に口を割った。この手の家業は口が堅いのが常識である。おいそれと犯人を漏らすようでは信用にかかわり商売にならないからだ。
そして、マノンには、暴漢を雇う金がなかった。バルニエ子爵家は貧乏貴族なのである。裏に誰かがいるのは明らかであったが証拠がない。
バシュレ公爵は「我が家は命じていない」とあっさりマノンを見捨てた。愛娘ミュリエルに泥が被らないよう守ったのである。
「そんな……」
「仕方ありません。ただし、陛下は、マノン嬢の主人であるミュリエル嬢に監督責任を問い、剣技大会の代理参加を禁じました」
ミュリエル嬢の代理登録の騎士たちは、全員個人参加となる。優勝してもミュリエル嬢に関することは願えない。
「ミュリエル嬢とアルフォンス様の結婚の可能性が消えたわけですね」
「はい。それも実行犯を捕らえた師匠のお陰です。陛下は、約束通り褒美を用意するそうです」
「えっ、本当ですか!」
アンジェリカは、嬉しさのあまり思わずアルバーノを見た。彼は相変わらずの能面顔であった。
剣技大会の翌日は、優勝者を招いた舞踏会が開かれる。その席で皇帝から祝いの言葉と褒美が授けられるのである。アルバーノの褒美もその時にということで、まだデビュタント前のアンジェリカの夜会への参加が決まった。
「アンジェリカ様のエスコートは、アルフォンスがします。あの、お、お待たせしてしまって、すみませんでした」
二人の対面は剣技大会で、とジスランとロザリアが話していたのを思い出す。
(すっかり忘れてた!)
今更アルフォンスと会うことになっても、まるで実感が湧かないのだった。
「え、えっと、い、いろいろな噂が耳に入っているかと思いますが」
アンジェリカが沈黙していることに焦ったのか、ロザリアはどもり始めている。この調子では、図書館でのミュリエル嬢とのいざこざを知っているのかもしれない。
「あ、まったく気にしていません」
「そ、そうですか。アルフォンスは悪い子ではないんですが、ちょっと特殊というか、自由人というか」
「へぇ~、そうなんですね」
どうやら風変わりな皇子らしい。ボルツィ辺境伯から結婚相手が第八皇子だと聞いた時には、少しはこの縁談に期待していたように思う。でも、もう興味も失せてしまった。
アンジェリカが曖昧に微笑むと、ロザリアもホッとしたように微笑んだ。




